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太田南畝の生涯|江戸を笑わせた狂歌の大宗匠・蜀山人

太田南畝の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「私儀、今後は固く誓っていかなることあり候とも一切文筆は執り申さず候あいだ、後日のため一書したため申し候」

役所で狂歌や洒落ばかり書いていると上役に油を絞られ、こんな一札を取られた御徒(おかち)の太田直次郎。ところが二、三日もたたぬうちに、幕府の大奥から「蜀山人に何か書いてほしい」と帛紗(ふくさ)が届きました。困り果てた上役に泣きつかれて彼が書いたのは、その「文筆は執り申さず候」の一文そのものでした。狂歌の大宗匠、蜀山人こと太田南畝(おおた なんぽ)の生涯です。

 

油断のならぬ雨が下かな

「これ太田、貴公は毎日役所に出て来て何をいたしおる。狂詩の、狂歌の、洒落のと、さような落書きばかりいたしおっては、第一お上の御用が進まぬばかりではなく、ほかの者のためにも相ならぬ」

太田直次郎は役所における職務怠慢のかどをもって、さんざん上役に油を絞られたうえ、こんな一札まで取られてしまいました。

「私儀、今後は固く誓っていかなることあり候とも一切文筆は執り申さず候あいだ、後日のため一書したため申し候」

しかし、徳川氏直参の家臣にして御徒勤め、食禄わずかに三十俵五人扶持の太田直次郎、とだけ言えば知っている者は知っているし、知らぬ者は知らぬほどの存在ですが、狂歌に、狂詩に、狂文に、俳諧に、一代の才筆を振るって名声赫々たる四方赤良(よものあから)、四方山人、南畝、寝惚(ねぼけ)先生、ことに蜀山人先生といえば、当時すでに上下を通じて隠れなき存在であった彼です。したがって、たとえ彼から「今後はいかなることあり候とも……」の一札なんか取ってみたところで、何にもなりませんでした。一札事件から二、三日もたたぬのに、幕府の大奥から奥女中が役所へ来て、

「大奥からの仰せにつき、蜀山人に何かしたためられるよう、お取り次ぎを……」

と一枚の帛紗を渡していきました。困ったのは上役です。ほかの所からならもちろん問題はありませんが、大奥からと来てはぐうとも言えません。しかたないから蜀山を呼んで、「このたびだけは許す、書いて差し支えない」なんて勝手なことを言いました。蜀山は澄ました顔で、「私は先日お出し申した誓書が恐ろしゅうございますから」。大奥のほうからは催促の使者が来る。上役さん、すっかり油汗をかいてしまって、「うーむ、何でもよいから、頼む、どうか書いてくれ」。泣き声を出すのを聞いた蜀山人、つんとしてしたためたのが、先日上役に書かされたままの「……文筆は執り申さず候……」の一文でした。すると、まもなく大奥から上役に沙汰があって、蜀山は執筆一切自由の権を得たのでした。

ところが天明六年(1786年)のある日、雨の激しく降るなかを登城していた蜀山は、供の者が着ていた青漆塗りの紙合羽から雨が透って肌に浸みたのを見て、

せいしつと雖も知れぬ紙合羽油断のならぬあまが下かな

とやりました。しかるに折も折、十代将軍家治が落馬して怪我をしました。しかも当時幕府の閣老として飛ぶ鳥も落とすばかりの権勢を振るっていた田沼主殿頭(とのものかみ)がそのそばにあり、薬を献じて介抱しましたが、家治は病気になって死んでしまいました。田沼に野望ありとして世人の眼は彼に注がれていたときだけに、ますます田沼の行動怪しとなったと底本は伝えています。そこへ「油断のならぬあまが下かな」という蜀山の狂歌が詠まれました。「不埒きわまる奴だ」。幕府の忌諱にふれた蜀山はあっさりお役を取り上げられ、非職の身になってしまった、まったく油断のならぬあまが下かなであった、と底本の『日本英雄伝』は語っています。

 

※ 「油断のならぬ雨が下」の狂歌で南畝が役を免じられたという話は伝説で、史実ではありません。南畝は御徒として勤め続け、寛政六年(1794年)の幕府の学問吟味に首席で及第して支配勘定に登用され、のちに大坂の銅座や長崎奉行所にも勤めています。

 

太田南畝の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

瓢々洒々落々

蜀山は寛延二年(1749年)、江戸牛込に生まれました。俊敏の資をもって早くから昌平黌に学び、頭角嶄然として儕輩をしのぎ、また松崎観海に師事して、博学多識、学者たるの資格を立派に備えていました。が、当時はあたかも、底本が「悪政の見本として後世に引用される」と呼ぶ田沼父子がわが物顔に幕政をかき回していた時分でしたので、世はまさに士風頽廃、阿諛贈賄横行の有様でした。古賀精里のいわゆる「いかなる大人君子に対すれども毫も諂諛(てんゆ:こびへつらい)の気なき」蜀山の気骨は、ついに彼をして濁世の立身を敝履(へいり:破れた履物)と投げ捨て、心を風流に遊ぶ寝惚先生、蜀山人とすねとぼけさせたのでした。それは当時の社会的不正に対する市民的な抗議の一つの現れでした。自由な、遠慮のない天地に大きく背伸びをした蜀山は、当時の才子通人たちと詩酒徴逐、歌舞杯酌のあいだに胸中の磊塊を吐き、ただに狂歌、狂詩、狂文の大宗匠としてのみならず、品位高き大通人として、また平民文学界の盟主としてその名を一世に高からしめ、児童走卒にもその名をうたわれました。

あるとき、ある家の主人が文士書家などに頼んで一冊の書画帖を作り、それに序文をつけてくれと蜀山人のもとへ来ました。蜀山は立ちどころに筆を呵して、

「口より出るを詩歌といい、尻より出るを御放屁という。ただ、おならのみ臭きにあらず、詩歌もまた悪るくさきあり。唐一代を四つ割りにして、初盛中晩の梯子屁と云いしも、盛唐くさきの、偽唐くさいのと、ブウブウひりちらして、今は放翁誠斎のすかし屁をこく世とはなりぬ。やまと歌は馬鹿律義にして、ならのはのおならのほかは、草庵集や新題林を、にぎり屁のにぎりつめて、おもしろく候おかしく候と屁玉のような御放屁をいだくもおかし。ここに狂歌こそおかしきものなれ。師伝もなし、秘説もなし、和歌よりいでて、わかよりおかしく、藍より出でし青瓢箪、そのつる四方にはびこりて、性にせんなり瓢箪の、丸ののの字を書くばかり、二百五十の同庵が、やきもちを焼くこととはなりぬ。いらざる老のにくまれ口、ここらで筆をとめきのかねに、自賛くさいはくさいもの、身知らずとでもいいなさい」

ひねくり回して事理を尽くし、痛烈な風刺と皮肉を吐く、蜀山人らしい虹のような一文です。底本の当時もなお珍品として秘蔵されていました。

またあるとき、『東海道中膝栗毛』の親玉十返舎一九が蜀山人の面白そうな人柄を慕って、いっぺん会いたいものと蜀山人の家へ尋ねて来ました。名刺を出して面会を求めると、「ちょっとお待ちを……」と取り次ぎが引っこんだきり、待てど暮らせど誰も出てきません。長いあいだ待っていましたが、しまいには一九も腹を立てて、「人を馬鹿にしてやがる」と帰ってしまいました。それからしばらくたったある日、蜀山が神田小川町で古本を冷やかしていると、ひょっこり出会ったのが一九先生でした。「先日はどうもけしからんことで……」と一九が言うと、蜀山先生も顔をふくらして、「何の貴公こそ某を……」としっぺい返しを食わせました。聞けば、あの日、蜀山は一九の来訪を受けて大いに喜び、一つ気炎を上げて快談しようと思った。ところがあいにく酒銭がないものだから、どうしようと思案した揚げ句、ふと庭の桐の木に目をつけ、これを下駄屋へ売って酒代にしようと、鋸を持ち出して伐り倒し、下男を下駄屋に走らせてから、さて、と玄関に出てみると一九はもういなかった。「まことに某は残念でな、独りしょんぼり飲み申したわい」と言うのでした。さすがの一九も開いた口がふさがらず、それから以後非常に親密になったといいます。

蜀山はいたって酒が好きでした。したがってそのために失敗も多いものでした。それを心配した門弟たちはある日、顔をそろえて禁酒のことを頼みました。彼らの誠心に圧された蜀山はとうとう参って、やめると答えました。「では、おやめくださいますか。ありがとうございます。それでは我ら門人一同の安心できますよう、確かにやめるとおっしゃるご誓文を……」。うむとうなずいた蜀山人は、硯を引き寄せて筆を取り上げ、

くろがねの門より堅き我が禁酒ならば手柄に破れ朝比奈

これならまず安心と門人たちが引き揚げました。そのあとへ飛びこんで来たのが魚屋。「へえっ、先生、いま着いたばかりの初鰹だ。こいつの刺身で先生にキューとやってもらいてえと思えばこそ、息せき切ってイの一番にこの家へ来たんですぜ。え? 飲まねえ? ちぇっ、冗談じゃねえや、先生は酒をやるから偉いんじゃねえか。それを……よう先生、この初鰹で……」。蜀山先生、もう堪らなくなり、ついにでき上がった刺身で飲み出しました。ところへまたどやどやと門人たちがやって来ました。逃げ口上に窮した先生、

我が禁酒破れ衣となりにけりそれついでくれやれさしてくれ

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一代の奇才

蜀山はあるいは大小名の邸宅に招かれ、あるいは妓楼の花の下に浮かれ、あるいは大道を横筋かいによろめきつつ、軽妙洒脱の風流に生きていましたが、また一面に勤勉慎密の資性を備え、こうした生活のなかにも筆まめに軽妙な文章をもって、詩文集、歌集のほか、戯作、紀行、日記、考証随筆、抄録など百余部の述作をなしました。ことに彼の天稟に出で、いわゆる咳唾珠玉を成すの観ある狂歌においては、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)とともにその中興の祖と称えられるにふさわしく、すぐれた多くの逸品を残し、しばしば辛辣に社会を風刺しました。

世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふて夜も寝られず

 

※ この狂歌は寛政の改革を皮肉ったものとして南畝の作と広く伝えられていますが、南畝自身は自作であることを否定しており、作者は分かっていません。

 

また人情にも厚かった彼が、もと自分の下男に使っていた市助なる者を助けるためにおのれの書を与えたり、ある店の者が売りあぐんでいる紙灯籠に自ら狂歌を書いて、その紙灯籠をたちまち人の争って求める商品たらしめたなどは、もっとも有名な挿話です。蜀山は頓智奇才、自由気ままに、老いてますます矍鑠(かくしゃく)と生きていましたが、文政六年(1823年)、桜の花も散り世は緑の夏に入ろうとする四月六日、七十五歳を一期として世を去りました。その辞世にいいます。

時鳥鳴きつるかた身初松魚春と夏との入あひのかね

著書の主なものには『蜀山文集』『蜀山百首』『玉川砂利』『武江披抄』『四方のあか』『四方の留糟』『千紅万紫』『寝惚先生文集』『南畝莠言』『松楼私語』『俗耳鼓吹』『深川新話』などがあります。

誓文を逆手に取り、桐の木を売って酒を買い、禁酒の誓いを初鰹で破った人。その軽さは、田沼の世にまともに立身することを捨てた人の、精いっぱいの抗議でもありました。学問吟味に首席で通る実力を持ちながら、江戸を笑わせることを選んだ。蜀山人の狂歌が今も生きているのは、その笑いの裏に、この人の気骨があるからです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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