銀行も手形も小切手もない慶応三年(1867年)の大坂で、二十四歳の横浜の茶買いは、わざわざ横浜から大金庫を取り寄せて旅館の入口に据えつけました。茶を量るのには神戸から西洋秤を取り寄せました。金庫見物で門前市をなした大坂中の評判がそのまま宣伝になって、七十万斤という大量の茶がとんとん拍子に集まりました。伊勢の茶農家の子が「製茶王」と呼ばれるまでの、大谷嘉兵衛(おおたに かへえ)の生涯です。
横浜へ
嘉永六年(1853年)にペリーが浦賀の海門を叩いてから、国内の輿論は沸騰し、人心は動揺して、その帰趨に迷いました。血なまぐさい事件は頻々として起こり、人々の肝を奪い去りました。こういう幕末の混乱は、遠い伊勢の片田舎にまで影響せずにはいませんでした。ことに弘化元年(1844年)十二月に生まれた大谷嘉兵衛の故郷、伊勢国飯南郡川俣村は、紀州家の領国となっていた関係から、尊王佐幕、攘夷開国などという政治問題が人々の強い関心事となっていました。それで、そんな問題が朝夕の話題にまでのぼる有様でした。若い血気のある青年には、こういう時代の混乱期が彼らの若い野心をあおる魅力となりましたし、野心の失せた人間にとっては、明日の運命がどう変わるか分からないという不安と恐怖でした。このころ大谷嘉兵衛はまだ藤吉といった十五、六の少年でしたが、彼もこの時代に刺激されて「一日も早く江戸へ出たい」と焦る血気盛んな若者の一人でした。目的は漠然としていましたが、統制のない、すべての秩序が乱れている社会へ飛びこんでいけば、あるいは思わぬ出世の緒にありつけるかもしれないという希望でした。乱世であればあるほど、野心に燃える青年の心にはこんな夢が大きく育つものです。
だが、彼の夢はすぐに変わりました。のちに実業家として異数の成功をおさめたほどの人物でしたから、いつまでも架空な夢を抱いてはいませんでした。安政六年(1859年)に横浜の開港となり、製茶貿易の道が開け、そしてこの商売の前途が大いに有望であると聞き伝えるや、彼はただちに製茶貿易で一儲けしようと決心しました。幸いなことには、伊勢は山城に次ぐ茶の名産地だったばかりでなく、たいていの農家ではこれを副業にしていました。彼の生家にも茶園があり、幼少のころからその手伝いをしていたので、製茶の方法にも熟練していました。それで彼には、製茶の商売には大いに自信があったわけです。だから彼はこの関係の深い製茶の貿易に従事することを、自分の天職のように考えたのです。彼は江戸へ出る望みをなげうって、ひたすら横浜へ出たいと焦慮しました。しかし当時の世相は乱麻のごとくに乱れて、物騒な流言が盛んに飛ぶ時代でした。しかも横浜は国論の焦点となっていたので、内外人の殺害事件が頻々として起こり、ことのほか危険な開港地でした。だから彼の心がいかにはやっても、両親が容易に横浜へ出そうとは言いませんでした。彼は悶々として一年を送り、二年を過ごしました。そしてやっと父母の許しが出たのは、文久二年(1862年)、彼が十九歳のときでした。両親は彼の横浜行きをこの上押しとどめることができないと悟って、親類先にあたる横浜の茶商伊勢屋藤兵衛方へ住みこめるように、前もって話をまとめておいてくれたのでした。彼は両親の慈愛に感謝しながら、天にも昇る心地で、目的の横浜へ旅立っていきました。

成功の第一歩
伊勢屋藤兵衛方における彼は、まことに実直な青年でした。彼は茶の貿易に従事して一心不乱に働きました。そして茶の鑑別や商売の呼吸をのみこんで、主人代わりに店を切り回すようになりましたが、彼のもっとも得意とするところは茶の調合でした。その腕前が主人からも認められ、また得意先の外国商館からも大いに信用を博すことになりました。それで店がとんとん拍子に繁盛したので、伊勢屋ではなくてはならない大切な人間となりました。しかも主人には実子がなかったので、主人の懇ろな希望と両親の勧めによって、まもなく養子に迎えられました。そして生麦村の谷川源助の二女をめとって妻にしました。
しかしそのころの横浜は国論の中心地で、英国公使館の焼き討ち、または生麦事件などが続出して、相変わらず殺伐の気がみなぎっていました。それで全国から集まってくる商人たちにもその世相が反映して、堅実な商売よりは外国人相手に奇利を博して、一攫千金を夢みる者が多かったのです。米や銀の思惑売買が盛んに行われたので、彼の養父もついにそれに手を出すようになって、しまいには家業を顧みなくなりました。彼がついに思い余って養父を諫めたのが、かえって養母の怒りを買うことになり、養子縁組の破談となりました。だが、これがかえって彼のためには幸運の機会となりました。養家を去った彼はまもなく居留地のスミス・ベーカー商会の製茶買入方として雇われることになりました。これが慶応三年(1867年)、その年の九月には大坂に出張して七十万斤という大量の茶を買い入れて大成功を収めました。その代金が二十六万八千両で、そのころの金高としては驚くべき巨額でした。しかもこの大金を取り扱うのに、銀行も手形も小切手もない時代でしたから、大変に不便でした。それで彼はわざわざ横浜から大金庫を取り寄せて、旅館の入口に据えつけました。すると、これが大坂中の評判となって、金庫見物で門前市をなす騒ぎでした。また茶を量るのに、彼は神戸から西洋秤を取り寄せて使用しました。これもまた珍しいというので、大変な評判になりました。何が幸いになるか分からないもので、彼が金庫や西洋秤を使用したことが意外な評判となり、宣伝となって、七十万斤という茶の買い入れがとんとん拍子に運んだのでした。しかもこの茶が海外に輸出されて各地で好評を博したので、商会主の喜びは一通りではありませんでした。
彼はこの成功報酬として相当の賞与をもらったので、これを資本にして明治元年(1868年)に、底本の当時の元浜町に製茶売込業を開きました。彼は東京の大問屋方面に莫大な信用を受けていたので、商品はどしどし無限に融通されるという有様で、明治三年には早くも同業者をしのいで、その売込高は百万斤を突破する盛況でした。しかし彼は店がこのように盛大になったにもかかわらず、相変わらずスミス・ベーカー商会に勤めていました。そして店のほうは大体の営業方針を示すだけで、店員に任せきりでした。当時スミス商会の輸出高は年々三百万斤を下らず、横浜における輸出高中の第一位を占めていました。ことに同商会の取扱品が品質の優良をもって海外に知られ、製茶貿易の最高権威であったことは、主として彼の手腕と誠実な努力のたまものでした。彼がこの時分に、政府の断髪令に先立ってちょんまげを切り落とし、ハイカラなザンギリ頭になって開化の横浜を飛び歩いたことは、有名な逸話になっています。

大実業家
彼が輸出製茶の粗製濫造によって海外の評判を落とすことを考え、同業者と相はかって茶商同業組合を設立したのが、明治十一年(1878年)でした。製茶の輸出が年々急激に増加するにつれて、粗製濫造の弊が起こり、海外の需要地から苦情百出する有様となったのです。たとえば開港第一年の安政六年の製茶輸出高はわずかに四十万ポンドにすぎませんでしたが、文久二年にはその十五倍の六百五十四万ポンド、慶応三年には九百四十五万ポンド、開港以来わずか五、六年間にこのような激増を見た輸出品は、ほかに例がありませんでした。明治元年には千六百八十五万ポンド、同五年には千九百五十五万ポンド、七年には二千五百五十万ポンドという有様です。だから、このように海外の需要が激増するにつれて、そこに自然、輸出茶の粗製濫造の弊が生じたのです。そこで彼は明治五年に製茶改良会社を起こし、同十一年には茶商協同組合を組織して、鋭意日本茶の改良に心がけました。だが、まだまだ粗製茶の輸出が跡を絶たなかったので、明治十五年には米国政府が不正茶の輸入禁止条令を発布しました。
これは輸出茶にとっての大打撃だったので、彼は同業者に説き、政府に運動して茶業組合取締法制定を建議しました。そして明治十七年に組合規則が発布され、各府県の当業者は組合を組織しました。これが全国茶業組合の始まりでした。彼が日本製茶株式会社を起こして、開港以来外国人の手に独占されていた貿易を奪って直輸出を企てたのが、明治二十八年(1895年)でした。明治二十年ごろから以降十年間は製茶貿易の全盛時代で、毎年の輸出高は四千万ポンド、五千万ポンドを上下していました。製茶季節になると全国から荷主が殺到して、三十余軒の売込商や二十余軒の輸出商の繁盛は一通りではありませんでした。ことに製茶では多くの女工の手を要するので、これを周旋する幾百の中国人が、早朝に群れ集う女工を途中で擁して争奪戦を演じるなど、横浜名物の一つに数えられるほどでした。この全盛時代に大谷が巨富を積み、製茶貿易の王座を占めていたことはもちろんです。
このようにして彼は人も我も許す製茶王でしたが、日清戦争後、台湾が日本の領有になると、台湾貿易株式会社を起こして烏龍茶、樟脳などの貿易に手を染めました。その一方には台湾鉄道、台湾銀行の創立に関係して、製茶ばかりでなくほかの実業方面にも着々と成功を収めていったので、日露戦争後には南満洲鉄道、東洋拓殖、朝鮮銀行などに関係して、「植民地の開発」(底本の言葉です)のためにも乗り出しました。こうして彼の地位と財力は飛躍的に高まっていったのです。内地(底本の言葉です)においては常磐生命、三共製薬、横浜倉庫など、彼の関係する事業会社の数は五十種以上にわたっています。彼が製茶貿易で占めた莫大な利益があらゆる事業に投資されて、わが実業界に厳然たる地位と勢力を築き上げていったことは、まことに驚くべきです。明治三十年、パリに万国博覧会が開催されるにあたっては、大谷嘉兵衛は臨時博覧会事務局評議員に挙げられ、実業家としてすでに国際的に認められていたことを示しています。
三十二年四月にカナダに輸入茶問題が起こったときには、フィラデルフィアの万国商業大会に列席して、日米間に直通電線を敷設する必要を力説し、ついに太平洋商業電信会社が設立されることになりました。明治四十年には貴族院議員に互選され、大正七年にはまた再選されました。そのほか多くの公職や大会社に関係し、実業界に重きをなしていましたが、その明敏な頭脳と負けぬ気で倒れるまで働きとおし、九十歳の長命を保って、昭和八年(1933年)二月に没しました。勲三等に叙され、正五位を賜ったのは、実業界に対する功によってです。
十九歳で親類の茶商に住みこんだ少年は、養子縁組を破談にされ、そのおかげで外国商会に雇われ、大坂に金庫を据えて名を上げました。茶を売って儲けただけなら、ただの成功者です。粗製濫造を自分で止めるために組合を作り、外国人に握られていた直輸出を取り戻したところに、この人が「製茶王」と呼ばれた理由があるのでしょう。


