「閣下、ここは敵弾が集中して、はなはだ危険ですから、数歩後方へ下がられたらいかがでしょう?」
「君、さっぱり敵弾の音もしないじゃないか」
そう聞き流していた兵站監の長靴のかかとに、次の瞬間、砲弾の破片が当たりました。「大胆にあらず、耳が遠いのだ」と自分で言っていた人です。長州閥の全盛時代に閥外から身を起こし、一兵卒から大将まで上り、ウラジオストクで各国の軍隊の敬礼を受けた大谷喜久蔵(おおたに きくぞう)の生涯です。
典型的武人
大谷喜久蔵がもしもウラジオ派遣軍司令官として、列国環視の晴れの舞台に登ることなくして終わったならば、彼の名はおそらく世人の記憶にとどまることもなくて消えたかもしれません。それは日露戦争には少将でしたが華々しい役割を演じなかったこと、また彼が終始、戦将あるいは謀将としての道を踏み、中央の軍政あるいは軍令機関の椅子にはまったく腰を下ろさなかったこと、さらにまた彼の性格が篤実にして重厚、あえて名を求めることがなかったからです。けれども彼は人格者として、また典型的武人として部内に知られ、その師団長時代には、時の第四師団長一戸兵衛と並べて「もっとも尊敬すべき師団長」として、万口一斉に激賞してやまなかったものです。当時陸軍にあってはいわゆる長閥(ちょうばつ:長州藩出身者の派閥)の全盛時代で、高級将官は長閥の巨頭に対して慇懃いたずらに礼を厚くした者が多かったなかに、この二人はともに閥外の出身でしたが、あえて事大主義のひそみに倣わず、さりとて強いて長州人と抗争もせず、超然として一つの識見を確立していたことは、見上げたものでした。彼が大将となり、ウラジオ派遣軍司令官となり、また帰って教育総監となったのは、もとよりそのところを得たものといわねばなりません。人格の光によって、ついに最後の栄冠をかちえたのです。

日露戦争に出征するまで
大谷は安政二年(1855年)十二月、敦賀に生まれ、明治四年(1871年)十月十四日、一兵卒として大阪鎮台彦根分営に入営し、伍長に進んでから陸軍士官学校に入り、十二年に歩兵少尉に任官しました。二十五年には歩兵第八連隊大隊長でしたが、日清戦争には第六師団参謀として出征し、戦後第四師団、近衛師団の参謀長となり、三十一年には少将寺内正毅の教育総監の下で教育総監部本部長となりました。やがてそれが教育総監部参謀長と改称されるや、職を中将大久保春野に譲って教育総監部参謀となりました。しかしやがて大佐のままで陸軍戸山学校長に任じられ、三十五年に少将になり、歩兵第二十四旅団長に出ましたが、翌年には再び陸軍戸山学校長に戻ってきました。そしてここで日露戦争に際会したのです。彼はこのように陸軍戸山学校長でしたが、戦時職務が第二軍兵站監(へいたんかん:軍の後方補給を担う長)であったので、校長在職のまま奥大将に従って出征しましたが、奉天戦が終わって三十八年(1905年)の四月八日に韓国駐箚軍参謀長に転じました。すなわち彼は出征はしたものの、攻城野戦の隊将ではなく、また戦列軍の謀将でなかったために、彼の名は世間的に知られることがきわめて少なかったのです。世間の評判はともかくとしても、華々しい役割を演じられなかったのは、武運に恵まれなかったといおうか、武人として彼の遺憾を禁じえざるところであったかもしれません。けれども彼はやはり胆勇があって、事に当たって驚かず、その沈着な態度は衆人のひとしく尊敬していたところでした。
だが彼は日露戦争当時、耳の病のために少し耳が遠くなっていたらしいので、彼自らは「大胆にあらず、耳が遠いのだ」と称していましたが、これについて一つの逸話があります。第二軍兵站監として一戦闘に臨んだ折、その司令部を一高地に進め、椅子にもたれて地図を見ながら戦況を調べていたところ、副官のほかはぼつぼつ退く者がありましたが、彼は少しも気づかずにいました。そのうちに副官から、
「閣下、ここは敵弾が集中して、はなはだ危険ですから、数歩後方へ下がられたらいかがでしょう?」
と注意を受けましたが、彼は平然として、
「君、さっぱり敵弾の音もしないじゃないか」
と聞き流していたところ、突然轟然一発、砲弾の一破片は彼の長靴のかかとに当たりました。彼ははじめて副官の言の真なるを知り、数歩退いて四方を見れば、あたりは惨憺として敵弾の被害を受けていたのです。彼は自ら顧みて苦笑を禁じえなかったといいます。それにしても彼の大胆は否定できません。耳が遠かったためのみの泰然自若ではなかったのです。当時少将馬場命英、同今橋知勝と彼とを併称して「三少将の遠耳揃い」と噂されていました。

武将として歩んだ道
明治三十九年(1906年)六月、牟田敬九郎に譲って陸軍戸山学校の本職に戻りましたが、四十年一月にはまたも教育総監部に帰って参謀長となりました。翌年十二月には教育総監部本部長と改称され、前後二年半在任して、四十二年八月に中将に進み、九月には第五師団長に栄転しました。このころになって彼の声望はようやく部内にあまねく、典型的武将として一戸と併称されたのです。師団長在職は約六年の長いあいだで、そのあいだ理想的師団長をもって目されましたが、大正四年(1915年)五月、青島攻略から引き続き青島守備軍司令官だった中将神尾光臣の後を承けて青島に赴任して重任にあたり、五年十一月に大将に進み、翌六年八月には本郷房太郎と交代して内地に戻り、軍事参議官の閑職につきました。顧みれば、彼の長い軍人生活は純乎たる武人の生涯で、政治上に野心あることなく、また中央部の椅子に憧憬することなく、あるいは謀将として、あるいは教育家として、その使命に精進してきたのでした。今やその武人らしい一生の旅の最後にたどり着いたのです。もし彼がここで何事もなく現役を退いたならば、前に述べたように彼の名は年とともに薄らぎ、やがては一般の人に忘れられて、「そんな大将もあったかな」などといわれる程度になったかもしれませんが、図らずも彼の武人生活の最後を飾る機会に恵まれました。これすなわち、ウラジオ派遣軍司令官としての出征です。

ウラジオ派遣軍司令官として出征
大正七年(1918年)八月、日本は連合各国と協同してシベリアに出兵するに決し、その十一日、中将大井成元の率いる第十二師団は浦塩(ウラジオストク)に到着しました。そしてその数日前の八月九日に、軍事参議官大谷喜久蔵は浦塩派遣軍司令官に任じられ、彼は軍刀を握って起つこととなったのです。連合各国は何のために出兵をしたか、ということや、またわが国のシベリア出兵の成否いかんという問題は、しばらく史家に任せたいし、またそれは大谷の与り知るところではない、と底本の『日本英雄伝』は書いています。しかしこの政略出兵の軍司令官はよほどの人物をもってしなければならないことは明白であって、当局が大谷に白羽の矢を立てたことは、また彼の人物の卓越せるを知る一証でしょう。
八月十八日、彼は参謀長中将由比光衛以下の幕僚を従えて、ウラジオのエゲリドシェリド埠頭に到着し、さらにそこから港内のアドミラル埠頭に上陸することとなりました。出迎える者、日本側は大井師団長、加藤寛治第五戦隊司令官、菊池義郎総領事およびそのほかの在留民多数。外国側は米軍指揮官グレーヴス将軍、英軍指揮官ノックス将軍、チェック軍司令官ヂトリックス将軍およびそのほかの連合国代表者。大谷軍司令官は港内に碇泊中の各国軍艦の発射する殷々轟々たる礼砲を浴びつつ、汽艇でアドミラル埠頭へ到着し、出兵国の各代表者と握手を交換し、凱旋門付近に整列した第十二師団隷下の一部と連合軍の各部隊とを閲兵しつつ司令部に入りました。翌十九日、彼は連合国中の最高級武官として連合軍総司令官となったため、軍司令部前で連合陸海軍の分列式を行いましたが、これはウラジオ開港以来の出来事でした。種々の服装をした各国の軍隊が、さまざまな国旗を押し立て、軍楽隊を先頭にして彼に対して行進敬礼したとき、彼の胸中に去来したものは何だったでしょうか。前途に横たわる統帥の困難と作戦の障害とが、雲のごとくに湧き出たことでしょう。連合軍総司令官としての彼、それは非常な尊敬の対象でした。やはり燦然たる人格の光が、国別を超越して人の心に食いこんだのでした。国外の重任にあること満一年、翌八年八月二十六日には、大将大井成元に後を譲り、教育総監に転じて内地に還りました。

教育総監として
教育総監部は彼の住み慣れた適所でした。彼はここに一年余り在任して、大正九年(1920年)十二月に秋山好古に職を譲り、やがてその軍人生活を終えました。業成り、名遂げた形です。こうして彼の軍人生活は比較的単調にして、波瀾らしいものもなく、いわば大河の洋々と流れるがごときものでした。しかし茫洋として捕捉すべからずといった東洋風ではなく、数学の造詣深く、頭脳緻密にして思慮周到、その議論は正々堂々として、衆をして悦服せしむるものがあったといいます。大正十二年(1923年)十一月二十六日、享年六十九にして倒れました。これより先、同年二月、戦功により男爵を授けられましたが、栄爵は一代限りとすべき宿志に基づいて子孫に継承させなかったのは、いかにも彼らしいゆかしい心根といわねばなりません。
一兵卒から入って、閥に寄らず、中央の椅子を望まず、耳が遠いと笑いながら敵弾の下に座っていた人。その生涯の最後に、各国の軍隊が彼に向かって行進敬礼をしました。底本はシベリア出兵の是非を史家に任せています。けれども、出兵の是非と別のところで、この人が選ばれた理由だけははっきりしているのです。


