維新の黎明
「悪党(奸賊)である井伊直弼(いい なおすけ)を、一日たりとも生かしておいてはならぬ」
「本年五月には、天皇のお許し(勅許)をも待たずに外国(夷狄)と通商条約の調印を行い、将軍の跡継ぎ問題に関しては、賢明の誉れ高い一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)公を立てようとした尾張、水戸、越前の大名のような方々を隠居や謹慎に処し、正義のために命を懸けて励む我々にまで、悪逆非道な手を伸ばしてくる」
「あいつの手先である酒井若狭守(さかい わかさのかみ)は、京都所司代としてこの京へ入るや否や、この五日には堤屋茂右衛門を捕らえ、さらには梅田雲浜(うめだ うんぴん)を逮捕した」
「三卿(さんきょう)および尾張、越前、加賀、薩摩、肥後、筑前、安芸、長州、因幡、備前、伊勢、阿波、土佐の十三藩に回覧させるべしとして水戸中納言に下された天皇の秘密の命令(密勅)も、直弼のために阻まれた」
「うむ、この上は奴の首を取るか、こちらの首を渡すかだ」
「幕府の犬どもが周囲に迫っている。では、何分にもしっかりと気をつけられて」
安政5年(1858年)9月10日の夜更け。白刃がひらめき、捕り方の十手が飛び交う京の町、錦小路柳馬場を上った所にある「鍵屋」をひそかに抜け出る人物は、明治の「大維新」の序章となる大幕を切って落とした薩摩藩の志士、有馬新七(ありま しんしち)正義。彼を見送る人々は、西郷隆盛、伊地知正治、海江田信義であった。
それより三日前の9月7日、同志の貴族たちと謀って、再び天皇からの勅書を下賜されるよう請願し、それを全国の有力な大名(雄藩)に下して正義の兵を挙げさせ、井伊大老の一派を討伐(誅罰:ちゅうばつ)し、君臣の大義名分を明らかにして内政を整え、やがては外国人排斥(攘夷:じょうい)をも決行しようという大望を抱いて、密かに京都へ来た新七は、江戸における同志たちの議論を西郷らに伝え、さまざまな策を練った末、今また越前、土佐、宇和島の三藩の殿様に伝えるべき秘密の勅令ならびに三条右大臣公の書状を奉じて、再び江戸へ下ろうとしていた。
『いつしかに身にしむ秋の風寒み ちぢに心をくだく頃かな』
(いつの間にか身に染みる秋の風が寒く感じられ、あれこれと心を悩ませる頃であることよ)
彼の向かう行く手には、やがて時代の夜明け(黎明)を象徴する暁の雲が、紫に、黄に、紅に染まり、麗しく輝き始めていた。

時代の先覚
文政8年(1825年)11月4日、薩摩国伊集院郷の坂木家に生を受けた新七は、6歳の頃から『小学』を学び、14歳の頃より神影流(しんかげりゅう)の剣法を修行した。19歳で江戸に出て、山崎派の儒学で有名であった山口重昭の門に入ってからは、学識が急速に進み、しばしば師匠の代わりに講義をするようになっていた。
弘化2年(1845年)の春、父が近衛家(このえけ:公家の名門)に仕えていた関係から、思いがけず宮中(大内山)に入り、天皇が自ら神々を祀る新嘗祭(にいなめさい)を遠くから拝観するなどして、若い心に深い感銘を刻み、見識も学問も兼ね備えた当時の「新知識」として故郷の薩摩へ帰り、大義名分(主君と臣下の守るべき道)を唱えて指導した。
嘉永4年(1851年)2月、薩摩守宰相の島津斉興(しまづ なりおき)が隠居して、跡継ぎの島津斉彬(しまづ なりあきら)が領主の座を継ぐと、教えを諭すお触れ(訓諭:くんゆ)を発して、我が国の国体を明らかにし、天皇を尊ぶ「尊王」の大義を武士や民衆に教え、さらに家臣たちに命じて、それぞれの意見(所見)を上申させた。この時、新七は意見書(上書)を提出し、「貧富の差を無くして貧民を救い(窮民を賑わし)、役人の昇進・左遷の基準(黜陟の典)を明らかにして賞罰を確実なものとし、武術を尊んで武士の風紀を振興し、名分を明らかにして身分の上下のけじめ(上下の分)を立てること」が政治の急務であると説き、長年抱いていた思いを述べたのである。
嘉永6年(1853年)6月6日、アメリカの黒船が浦賀に姿を現した。日本全国は身分を問わず(上下)震え上がり、根拠のない噂(流言)が飛び交って、人々の心は恐れおののいていた。新七は国の重臣(国老)に外国を打ち払う「攘夷」の策を建言し、色々な方策をめぐらした。
一旦は去った後、安政元年(1854年)1月14日に再び東京湾(江戸湾)に雄姿を見せた黒船は、観音崎を越えて深く湾内に侵入し、神奈川の前面に錨を下ろした。そしてペリーの尊大で威嚇的な態度は、ついに幕府に「日米和親条約」を調印させた。続いてロシアの軍艦が大坂湾(摂州沿岸)に現れ、イギリスやロシアの二カ国との修好条約が立て続けに結ばれる。安政3年(1856年)7月には、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田にやって来て、国書を将軍に提出しようと主張するなど、ここに国内には疑いと恐れ、反発の念、敵への怒りが渦巻き、頼りにならない幕府に対する罵倒の声は、国を憂いて悲しみ憤る憂国の志士たちの叫びと合流して一大勢力となり、全国に広がってきた。
天下の情勢がいよいよ急を告げてくると、新七は故郷で何もしないでいることに耐えられず、遊学の許可を得て京都へ出て、そこからいよいよ全国の志士たちと共に積極的に活動を開始した。安政3年11月21日、旧友の梅田雲浜に会った彼は、灯りの下で過去を語り、未来について話し合い、深い感慨を共有したりしている。それから彼は江戸に下り、薩摩藩の学問所で教鞭をとりながら子弟の教育に携わり、また関東方面を遊歴して諸藩の志士たちと交わり、静かに天下の形勢を観察していた。
こうして安政5年(1858年)、将軍の跡継ぎ問題、日米修好通商条約の事件、天皇の密勅が下されたこと、勤王家(尊皇派)を弾圧する幕府の暴挙(安政の大獄)などが立て続けに勃発し、その上、名君である島津斉彬が亡くなるという事態に見舞われ、新七は断固として決意を固めて江戸を忍び出た。幕府の横暴な現状を天皇に報告し、悪党である井伊大老を討ち取り、外国の勢力を退けようとして京へ急行し、鍵屋で西郷隆盛らと会ったのであった。

斬奸精忠組(ざんかんせいちゅうぐみ)
西郷らと別れて江戸へ下った新七は、東海道をわずか六日間で駆け抜け、9月16日の夜に芝の薩摩藩邸に到着した。17日には越前藩士の橋本左内(はしもと さない)らを呼んで京都の事情を伝え、勅書と写し、および三条公の直筆の手紙を宇和島藩の吉見長左衛門に託して、無事に重大な使命を果たした。
それから新七は江戸に留まり、「まず悪党の首魁(奸魁)である井伊直弼を斬り、東西で呼応して正義の兵を挙げよう」と京都で西郷らと約束した密謀に基づき、水戸、越前、長州、土佐、薩摩などの志士たちと頻繁に謀議を凝らしていた。この間、京都や江戸では、幕府による尊王攘夷派や大老反対派の志士に対する検挙と弾圧がますます激しくなり、続々と志士たちは逮捕されていた(安政の大獄)。
こうした折、越前藩の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)が京都に潜伏し、天皇を奉じて悪党を討つという知らせが伝えられた。それを聞いて狂喜した新七たちは、直ちに井伊直弼暗殺(斬奸)の計画を放棄し、名前を変え、姿を変装して、途中の幾多の危険を冒しながら、一路京へと上ってきたのだった。
しかし京に着いてみると、予想に反して、西郷隆盛をはじめとする同志の面々は、幕府の急な追跡を逃れて行方をくらましており、計画を相談すべき者は誰一人として残っていない有様だった。
どうしようもなく彼は伏見に身を潜めてしばらく様子をうかがっていたが、突然「薩摩へ帰国せよ」という藩の命令を受け、仕方なく安政6年(1859年)1月に鹿児島へ帰ってきた。彼は一度、同志と謀って海路からの脱藩を企てたが、成功しなかった。
新七は唇を噛みしめて静かに身を慎み、町田氏の要請に応じてその領地に身を寄せ、若者たち(子弟)を教え、産業を興す(勧業殖産)道を開いて村の発展を図ったり、西郷隆盛、大久保利通、村田新八などの志士たちと共に「精忠組(せいちゅうぐみ)」を組織して尊王攘夷の義挙を計画したり、あるいは藩の学問所の先生(造士館訓導)に任命されて大義名分を熱心に説いたりしながら、じっと天下の動きを睨んでいた。
万延元年(1860年)3月3日、大雪の中で井伊大老を暗殺した水戸浪士の壮挙(桜田門外の変)は、彼の心を言い尽くせないほどの深い思い(千万無量の思い)で切り刻んだ。

寺田屋事変
時は文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の最高権力者である島津久光(しまづ ひさみつ:和泉)は、朝廷と幕府の間を取り持つ(公武合体)ために、兵を率いて鹿児島を出発した。
「『公武合体』などという、その場しのぎの姑息極まる手段で何ができるか。この好機にこそ断固としてやらなくてはいけない。王政復古か、さもなければ潔い死あるのみだ」
こう覚悟を決めた新七は、出発に先立って妻のテイを離縁して実家に帰し、刀を研ぎ澄まして(久光の)お供に従った。
島津久光を京都へ上らせることになった薩摩藩の急進派の計画は、肥後、筑前、筑後、豊後、長州、土佐、および京都・江戸の志士たちを奮起させ、東西から次々と京・大坂へと駆けつけさせることになった。中でも、いち早く藩の論調を「尊王攘夷」に決定した長州藩は、浦靱負(うら ゆきえ)や久坂玄瑞(くさか げんずい)など吉田松陰の門下生に率いられた部隊を急いで京へ上らせた。
4月10日、大坂に到着した島津久光は、新七らを大坂に残しておいて、16日に京都へ入り、朝廷から「浪士を鎮圧せよ(浪士鎮撫)」という天皇の命令(勅諚:ちょくじょう)を賜った。一方、大坂にいた新七をはじめ、大山巌(おおやま いわお)、三島通庸(みしま みちつね)、西郷従道(さいごう つぐみち)、真木和泉(まき いずみ)、田中河内介(たなか かわちのすけ)などの薩摩藩士ならびに諸藩の藩士、浪士、志士たちは、「時勢に直面して非常の手段を取らなければ、尊王攘夷の道は立たない。まず関白・九条尚忠(くじょう ひさただ)と京都所司代・酒井忠義を討ち倒し、島津久光に大決心をさせ、青蓮院宮(しょうれんいんのみや:中川宮)の幽閉を解いて宮中への参内を促し、天皇の許し(勅)を請うて討幕の軍を挙げよう」という重大な決議をまとめた。
文久2年4月23日の未明、大坂の薩摩藩邸を抜け出した新七らは、淀川を舟でさかのぼって伏見に出た。そしてそこの船宿「寺田屋」に陣取って、今まさに兵を挙げようとしていた。その午後10時頃、事態を知った京都の薩摩藩邸から差し向けられた「鎮撫使(過激派を説得・弾圧するための使者)」によって、ついに無念にも大計画は崩壊してしまったのである(寺田屋事件)。
新七は鎮撫使の道島五郎兵衛(みちしま ごろべえ)と斬り合いになり、自分の刀が折れるやいなや、パッと相手の懐に飛び込んで、道島をしっかりと壁に押し付け、後ろへ来た味方の橋口吉之丞(はしぐち きちのじょう)に向かって、
「俺ごと刺せッ!」
と叫ぶなり、見事に自分ごと敵を串刺しにさせて、雄々しくも悲壮な最期を遂げた。
時に享年38歳。
彼は志半ばにして倒れた。しかし彼の死は、やがて数年後にやって来る「明治の変革(明治維新)」のための、真に尊い導火線の一つとなった。明治23年(1890年)、彼は靖国神社に合祀(ごうし)され、翌24年には天皇の特別な計らい(特旨)によって従四位が贈られた。


