安政五年(1858年)九月十日の夜更け。京都の錦小路柳馬場(にしきこうじ やなぎのばんば)を上ったところにある宿・鍵屋(かぎや)から、一人の男が忍び出ました。
見送るのは、西郷隆盛(さいごう たかもり)、勤王僧の月照(げっしょう)、伊地知正治(いじち まさはる)、海江田信義(かえだ のぶよし)。
「犬どもが周囲から迫っている。では、くれぐれもしっかり気をつけられて」
白刃がひらめき、十手が飛ぶ京の町。彼は、越前・土佐・宇和島の三侯に伝えるべき朝廷の内々の勅(ちょく:天皇の命令)と、三条右大臣の書状を奉じて、江戸へ下ろうとしていました。
彼の名は有馬新七(ありま しんしち)。安政の大獄の嵐の中を駆け、精忠組(せいちゅうぐみ)に加わり、そして寺田屋で三十八歳の生涯を閉じた薩摩の志士。その激しい歩みに迫ります。
維新の黎明
「奸賊・井伊直弼(いい なおすけ)、一日も生かしておいてはならぬ」
「本年五月には勅許(ちょっきょ:天皇の許し)をも待たずに異国と通商の調印をなし、将軍家の跡継ぎの件では、賢明の聞こえ高い一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)公を立てようとした尾張・水戸・越前侯のような方々に隠居・謹慎を仰せつけ、正義のために身命を賭して励む我らにまで、悪虐の手を伸ばしてくる」
「あやつの手先の酒井若狭守(さかい わかさのかみ:京都所司代の酒井忠義)は、所司代としてこの京へ入るや否や、この五日には堤屋茂右衛門(つつみや もえもん)を捕らえ、七日には梅田雲浜(うめだ うんぴん)を逮捕した」
「三卿および尾張・越前・加賀・薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・因幡・備前・伊勢・阿波・土佐の十三藩に回して示せとして水戸中納言に下された密勅も、直弼のために阻まれた」
「うむ。この上は、奴の首を取るか、こちらの首を渡すかだ」
この夜、鍵屋を忍び出たのが、明治維新の幕を切って落とした薩摩の志士・有馬新七正義(ありま しんしち まさよし)でした。
その三日前の九月七日、新七はひそかに京都に来ていました。同志の公家たちと計って、もう一度勅書を下してもらい、諸藩に配って義兵を挙げさせる。井伊大老の一派を討ち、名分を明らかにして内政を整え、やがて攘夷(じょうい:外国勢力を打ち払うこと)も決行する——そんな大望を抱いてのことです。あれこれ策を練った末、いま江戸の同志たちの考えを西郷らに伝え、さらに越前・土佐・宇和島の三侯に伝えるべき内々の勅と三条右大臣の書状を奉じて、ふたたび江戸へ下ろうとしていたのでした。
いつしかに 身にしむ秋の 風寒み ちぢに心を くだく頃かな
彼の行く手には、やがて時代の夜明けを告げる暁の雲が、紫に、黄に、紅に染まって、輝き始めようとしていました。

時代の先覚
文政八年(1825年)十一月四日、薩摩国伊集院郷(いじゅういんごう:現在の鹿児島県日置市)の坂木家に生まれた新七は、六歳のころから『小学(しょうがく)』(朱子学の初等教科書)を学び、十四歳のころから神影流(しんかげりゅう)の剣を修行しました。
十九歳で江戸に出て、崎門(きもん:山崎闇斎の学派)の儒学で名高い山口菅山(やまぐち かんざん:名は重昭)の門に入ります。すると学問はぐんぐん進み、たびたび師の代わりに講義をするほどになりました。弘化二年(1845年)の春に京都へ上ってからは、崎門派の老学者で早くから勤王を唱えていた梅田雲浜や鈴木恕平(すずき じょへい)らと交わります。父が近衛家に仕えていた縁で、思いがけず御所に入り、天皇みずから祭られる新嘗祭(にいなめさい)を遠くから拝む機会もありました。若い心に、深い感銘が刻まれます。こうして見識も学問も、当時としては最新のものを身につけて鹿児島に帰り、大義名分を唱え広めたのです。
嘉永四年(1851年)二月、薩摩藩主の島津斉興(しまづ なりおき)が隠居し、世子の斉彬(なりあきら)が家督を継ぎました。斉彬は諭しを発して国のあり方を明らかにし、尊王の大義を士民に教え、さらに家臣たちにそれぞれの意見を出させます。このとき新七は上書して、多年の考えを述べました。貧富の差をならし、困っている民を救うこと。昇進と降格の基準をはっきりさせ、賞罰を信頼できるものにすること。武を尊んで武士の気風を盛んにすること。名分を明らかにして上下の区別を立てること。これらが政治の急務だ、というのです。
嘉永六年(1853年)六月三日、アメリカの黒船が浦賀に姿を現しました。国じゅうが上も下も震え上がり、流言が飛び交い、人々は恐れおののきます。新七は藩の重臣に攘夷の策を建言し、あれこれ方策を練りました。いったん去った黒船は、安政元年(1854年)一月十四日にふたたび江戸湾に現れ、観音崎を越えて湾の奥へ入り、神奈川の沖に錨を下ろします。ペリーの尊大で威圧的な態度は、ついに幕府に和親条約を調印させました。続いてロシアの軍艦が摂津の沿岸に現れ、イギリス・ロシアとの和親条約が相次いで結ばれます。安政三年(1856年)七月にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に来て、国書を将軍に渡すと言い張るなど、疑いと恐れ、反発、敵愾心(てきがいしん:敵に対する闘志)が国内に渦巻きました。頼りにならない幕府への罵りの声は、世を憂える志士たちの叫びと合わさって大きな勢力となり、全国に広がっていったのです。
天下の風雲がいよいよ急を告げてくると、新七は故郷でじっとしていられなくなりました。遊学の許しを得て京都に出て、天下の志士たちとともに本格的な活動を始めます。安政三年(1856年)十一月二十一日には旧友の梅田雲浜に会い、灯のもとで過去を語り、未来を語り合って、深い感慨を分かち合いました。それから江戸に下り、薩摩藩の学問所に勤めて子弟を教えるかたわら、関東を巡って諸藩の志士と交わり、静かに天下の動きを見つめます。
そして安政五年(1858年)。将軍継嗣の問題、日米条約の事件、密勅の降下、勤王家への弾圧が次々に起こり、そのうえ名君・島津斉彬の死に遭いました。新七はきっぱりと心を決めて江戸を忍び出ます。幕府のありさまを朝廷に申し上げ、井伊大老を討ち、外国勢力を退けようと京へ駆け上り、鍵屋で西郷隆盛らに会ったのでした。

斬奸精忠組
西郷らに見送られて江戸へ下った新七は、東海道を六日で駆け抜け、九月十六日の夜、芝の薩摩藩邸に着きました。十七日には越前藩士の橋本左内(はしもと さない)らを呼んで京都の事情を伝え、勅書とその写し、三条公の直筆の書状を宇和島藩の吉見長左衛門(よしみ ちょうざえもん)に託して、重大な使命を無事に果たします。
それから新七は江戸に留まりました。まず井伊を斬り、東西で呼応して義兵を挙げる——京で西郷らと交わした密約に従って、水戸・越前・長州・土佐・薩摩などの志士たちと、しきりに計画を練ります。そのあいだにも、幕府による尊攘派・反大老派への検挙と圧迫はますます激しくなり、京でも江戸でも志士たちが次々に捕らえられていきました。
そんなとき、越前侯の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)がひそかに京都へ入り、天子を奉じて奸賊を討つ、という知らせが届きます。新七らは狂喜しました。ただちに井伊を斬る計画を捨て、名を変え、姿をやつし、いくつもの危険をくぐり抜けて、一路京へ上ります。ところが着いてみると、思いもよらないことに、西郷隆盛はじめ同志たちは幕府の追跡を逃れて行方をくらまし、事を計るべき者は誰一人残っていませんでした。
仕方なく伏見にとどまって様子をうかがっていましたが、急に薩摩へ帰国せよとの藩命が届き、やむなく安政六年(1859年)正月、鹿児島へ帰りました。一度は同志と計って海路で脱藩しようとしましたが、果たせません。
新七は唇を噛み、静かに身を処しました。町田氏の求めに応じてその領地に住み、子弟を教え、産業を勧めて村を興す。西郷隆盛・大久保利通(おおくぼ としみち)・村田新八(むらた しんぱち)ら志士とともに精忠組を組織し、尊攘の挙兵を計る。藩の学問所・造士館(ぞうしかん)の訓導(くんどう:教官)に任じられ、大義名分を熱く説く。そうしながら、じっと天下の動きをにらんでいたのです。
万延元年(1860年)三月三日、大雪の日。水戸浪士が井伊大老を斬った壮挙は、彼の心を千々に切り刻みました。

寺田屋事変
文久二年(1862年)三月十六日、島津和泉久光(しまづ いずみ ひさみつ:斉彬の弟)は、朝廷と幕府のあいだを取り持つため、兵を率いて鹿児島を発ちました。
「公武合体の何のという姑息きわまる手段で何ができるか。この好機にこそ断然やらなくちゃいけない。王政復古か、しからずんば潔き死あるのみだ」
そう覚悟を決めた新七は、出発の前に妻ていを離縁して実家に帰し、刀を研いで供に加わりました。
久光を上洛させるという薩摩藩急進派の計画は、肥後・筑前・筑後・豊後・長州・土佐、そして京・江戸の志士たちを奮い立たせ、東西から続々と京阪へ駆け上らせます。なかでも一気に尊攘へ藩論を決めた長州藩は、浦靱負(うら ゆきえ)や久坂玄瑞(くさか げんずい)ら吉田松陰門下の人々に率いられた手勢を、大急ぎで京へ送りました。
四月十日に大坂へ着いた久光は、新七らを大坂に残して十六日に京都へ入り、浪士鎮撫(ちんぶ:取り締まって静めること)の勅諚(ちょくじょう:天皇の命令)を賜ります。
一方、大坂に残された新七らは、動きました。大山巌(おおやま いわお)・三島通庸(みしま みちつね)・西郷従道(さいごう つぐみち)・真木和泉(まき いずみ)・田中河内介(たなか かわちのすけ)ら薩摩藩士と諸藩の志士たちです。「この時に当たり非常のことをなさざれば、尊攘の道は立つべからず」。まず関白の九条尚忠(くじょう ひさただ)と所司代の酒井忠義を倒して久光に大きな決断をさせ、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)の幽閉を破って参内を促し、勅を請うて討幕の軍を挙げる——そう決議したのです。
文久二年四月二十三日の未明、大坂の藩邸を抜け出した新七らは、淀川を舟でさかのぼって伏見に出て、寺田屋に陣取り、いまや事を挙げようとしていました。
その日の午後十時ごろ。事態を知った京の薩摩藩邸から鎮撫使(ちんぶし)が差し向けられ、大計画は無念にも崩れ去ります。
新七は道島五郎兵衛(みちじま ごろべえ)と斬り合い、刀が折れました。すると相手の懐にぱっと飛び込み、その体を壁にしっかり押しつけて、後ろから来た味方の橋口吉之丞(はしぐち きちのじょう)に叫びます。
「俺ごと刺せっ!」
そして自分の身と敵とを串刺しに刺させ、雄々しく悲壮な最期を遂げたのです。三十八歳でした。
彼は道半ばで倒れました。しかしその死は、数年後にやって来る明治の変革の、まことに尊い導火線の一つとなりました。明治二十三年(1890年)に靖国神社に合祀され、翌二十四年(1891年)、特旨によって従四位を贈られています。



