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有賀長雄の生涯|の生涯と名言!日清戦争の知将・国際法学者

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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日清戦争における彼の働き

 

日清戦争の初めに、さっそく国際問題になったのは、「豊島沖の海戦」とイギリスの商船「高陞号(こうしょうごう)」の撃沈でした。世界各国の国々はこぞって、「この海戦と高陞号の撃沈は、両国の宣戦布告以前に行われた不法行為である」として、日本へ厳重な抗議を申し込んできたのです。

日本政府はこれに対して、

「清国が日本から申し込んだ最後の話し合いを拒絶したから、日本はやむを得ず、今後は日本単独で朝鮮の改革をやるより他はない。したがって、交渉決裂の責任は清国政府にある、という通達を出したのだ。だから、その瞬間から日本と清国との関係は断絶しているとみなされるのだ」

また、

「高陞号はイギリス商会の所有船ではあるが、事実上、清国政府がこれを借り入れて、清国軍隊の二千人以上の兵員を輸送していた。すなわち、高陞号は、日本の権益に反対して戦闘する目的で航海していたことは明らかである。だから、日本がこの航海を継続させることや、本国に帰航させることもできない。ただ、これを撃沈して、中立の立場からの苦情をすべて受けるより他はない。浪速(日本の軍艦)の艦長は、あらかじめこれを要求しているではないか。それにもかかわらず高陞号は承知しなかったのだ。承知さえしていれば、なにも撃沈することはなかっただろう。――この事件は、開戦の前であろうと後であろうと、自国の正当防衛のために全くやむを得ない戦時行為である」

と反論して、各国の抗議を一蹴(いっしゅう)しました。

この反論文を起草したのが、当時大本営に従事していた国際法学者、有賀長雄(ありが ながお)だったのです。

ここにおいて政府は、戦線に「法律顧問」の必要性を感じて、彼を第二軍の大山司令官の元に配属させました。彼は軍に従って花園河口に上陸すると、すぐに「敵地において住民(人民)の保護がどの程度に行われているか」を知るために、付近の村落を巡視しました。ところが日本の軍用人夫が、中国人の集落を散々に略奪していたので、非常に驚きました。そして中国人のうちには、軍用人夫の服装が兵士に似ているので、それを「日本の兵士がやった悪行」だと思っている者も多かったのです。これを知って、彼は国際間の非難を招くのを恐れて、すぐに司令官に進言し、人夫の武器携帯を禁止し、厳重に陸軍刑法を適用して人夫の乱暴な行いを取り締まることにしました。

また彼は戦争の進行とともに、捕虜の収容や待遇に気を配り、戦死者の死体の始末、戦利品の徴発、占領地の人民保護など、国際公法が定める条文に従って、手落ちのないように手段を尽くしました。

「戦争のルール(戦律)を守ることは人道に基づく義務であり、敵に対する義務ではない。ゆえに敵がこれを無視しようとも、我々は戦勝の妨げにならない限り、これを守る義務がある」

これが国際戦時公法の精神です。彼はこれに則って「戦争における義務」といわれるものを冷静に実行しました。もともと戦争とは熱狂的なものであり、しばしば常軌を逸しがちなものです。しかし、それを一つ一つ煩わしい法律の条文に照らし合わせていたら、軍の素早い行動を奪うことになり、戦略の上に大きな計算違いを生じさせます。「軍の素早い行動を制限しないで、しかも軍のルールに違反することもなく、戦争を有利に進めていく技能」というものは、平凡な学者にできることではないでしょう。

大山司令官が、旅順口を陥落させて旅順市街に入城した時のことです。この時、市街で発見された死者は二千人に上り、そのうち千五百人は非戦闘員でした。これはたちまち各国の指摘するところとなり、「日本軍は市街を攻撃するにあたり、兵士と住民の区別をしなかった」と非難されました。それに対して司令官は、

「旅順は軍港都市であり、住民の多くは水雷や軍艦の製造に従事する職工であって、当日は自ら防衛にあたっていた。さらに、兵士の多くは市民の服装を奪って着用していたから、ますます見分けることは困難だった」

というような理由を挙げて答弁しました。ところが、有賀は、

「日本軍が優勢だったのに比べて、それに対する抵抗は甚だ弱かった。だから、そこまでして、無理で余裕のない戦争をやる必要はなかったのだ」

と言って、いたずらに弁護せず、味方の将軍に対しても疑問の点は容赦しませんでした。

 

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多方面な学識

 

彼の一族は、代々「歌人」として有名な名家でした。先祖には有名な歌人の有賀長伯(ありが ちょうはく)がいます。

万延元年(1860年)10月、大阪に生まれ、開成学校に入学しました。同校を首席で卒業すると特待生(特選)となり、東京大学予備門に進み、続いて大学に進学して哲学を専攻しました。大学を出ると、すぐに大学校御用掛に任命され、『日本社会史』の編纂に従事する傍ら、大学で教鞭をとり、歴史を講義しました。

明治17年(1884年)、大学卒業後2年で、元老院書記官に任命され、明治19年には在官のままドイツに留学して政治学を学び、さらにオーストリアに行ってシュタイン博士のもとで国法学を修めました。帰国すると枢密院書記官兼議長秘書官となり、続いて総理大臣秘書官兼内閣書記官に転じ、明治25年には農商務省特許局長兼参事官に大抜擢されました。異例のスピード出世でした。

日清戦争には、先に述べたように、初めは大本営に従って戦時関係の内閣事務調査を任されていましたが、間もなく抜擢されて第二軍司令部の法律顧問となって従軍し、戦後はヨーロッパへ行き、『日清戦役国際公法論』をフランス語で発表して、一躍その名を世界的に知られるようになりました。そして明治33年には、法学博士の称号を受けました。

また日露戦争にも従軍しましたが、後に役人を辞めて、東京帝国大学、早稲田大学、陸軍大学、経理学校などで教鞭をとり、明治44年には文学博士の学位をも授けられています。

伊藤博文は、彼の博学にして「どんな方面でもできないことはない」という多方面の才能を愛して、常に枢密院や宮内省、内閣などに置いて自分の側近として重用し、

「彼のような人物がいて、自分はどれほど助かっているか知れない」

と口癖のように言っていたといいます。

彼は歌人の家に生まれ、文学の教養も深く、宮中の昔のしきたりや儀式にも通じた歴史家でもありました。伊藤博文が彼の才能を愛したのも決して偶然ではありません。

したがって、彼の著書は非常に多く、また多方面にわたっています。

『社会進化論』『族制進化論』『帝国史略』『大日本歴史』『日本古代法釈義』『行政学』『大臣責任論』『満州委任統治論』『国家学』『最近三十年外交史』『近世外交史』『戦時国際公法』『日清戦役国際公法論』『日露戦役国際公法』『帝国憲法講義』『教育学』『文学論』……

これは彼の著述の主なものですが、さらに彼は語学においても、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、中国の五ヶ国語に通じていたのです。

 

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中国の教師

 

大正2年(1913年)、彼は中華民国(中国)の招きに応じて、袁世凱(えん せいがい)大総統の顧問となり、中国の憲法制定に従事することになりました。

このことは、一人有賀長雄だけの名誉ではないでしょう。なぜなら、日本は舒明天皇2年(630年)から承和5年(838年)の間にわたって前後14回の遣唐使を、当時の先進文化国である唐(中国)に送って、その進んだ学問や文化の輸入に努め、そしてそれを懸命に学ばなければならなかったからです。しかも日本は当時、非常に大変な苦労と犠牲を払ってこれを得なければなりませんでした。すなわち、その航海が非常に困難であって、たとえば、第2回遣唐使は、大使の高田根麻呂の一行が薩摩竹島の沖で船がひっくり返って沈没し、一行の中でわずかに5人が板にしがみついて竹島に漂着したのみでした。また、朝鮮沿岸を経て無事唐に着いた遣唐使も、帰り道で船を奪われたり、あるいは唐の国で病死したりと、いずれも航海の事故なしには済まず、全く命がけの事業でした。

こんなに苦心して(中国から)学ばねばならなかったのに、今はそれが逆になってきました。袁世凱によって憲政大臣として日本に特別に派遣された李家駒らは、有賀長雄を師と仰いで、日夜親しく教えを乞うようになったのです。歴史家でもあった有賀長雄は、このことに思いを巡らせたとき、感慨深いものがあったでしょう。

彼は大正10年(1921年)6月17日、小石川の自宅で病気のため亡くなりました。享年62歳でした。病が重くなると、その功績によって特に位を二階級進められ、従四位勲二等に叙せられています。

彼は病床にあって、フェノロサの『東洋美術の新紀元』の翻訳に取り掛かっていたと言われますが、多方面な趣味を物語るエピソードであると同時に、熱心な学者としての彼の姿が生き生きと目に浮かびます。

 

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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