PR

有賀長雄の生涯|日清戦争の知将・国際法学者

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

 

明治二十七年(一八九四年)十一月、日本軍は旅順(りょじゅん:現在の中国・遼寧省大連市)の市街に入りました。

町で見つかった死者は二千人。そのうち千五百人は、戦闘に加わっていない住民でした。列国はただちにこれを指摘し、日本軍は市街を攻めるにあたって兵士と住民を区別しなかった、と非難しました。

第二軍の司令官・大山巌(おおやま いわお)は、こう弁明しました。旅順は軍港の町である。住民の多くは水雷や軍艦の製造にたずさわる職工で、当日は自ら防御にあたっていた。敵の兵卒は民家に武器弾薬をたくわえ、屋内から日本軍を攻撃した。日没だったため兵士と住民の区別がつかず、しかも兵士の多くは市民の服を奪って着ていたから、見分けはいっそう困難だった——。

ところが、軍にしたがって従軍していた一人の法律顧問が、これを弁護しませんでした。

「日本軍が優勢だったのに比べて、それに対する抵抗はきわめて弱かった。だから、そこまでして、無理な、余裕のない戦争をする必要はなかったのだ」

味方の将軍に対しても、疑問の点は容赦しない。この法律顧問の名を、有賀長雄(ありが ながお)といいます。国際法学者であり、歌人の家に生まれた歴史家であり、のちに中華民国の憲法づくりを頼まれた人でした。

 

※注:この記事は昭和十一年(一九三六年)刊行の『日本英雄伝』を現代語に訳したものです。日清戦争(一八九四〜九五年)は、朝鮮と中国の領土を戦場とした戦争です。底本が「日本は止むを得ず朝鮮の改革をやる」と記すのは日本側の言い分で、朝鮮から見れば自国をめぐって外国どうしが戦った出来事でした。豊島(ほうとう)沖で撃沈された高陞(こうしょう)号では清国兵約千人が死亡し、旅順では「旅順虐殺事件」として今も知られる多数の犠牲が出ています(犠牲者の数には諸説があります)。底本の「支那」は「中国」「清国」に改めました。

 

日清戦争における彼の働き

 

日清戦争が始まってすぐ、国際問題になった出来事がありました。豊島沖の海戦と、イギリスの商船・高陞号の撃沈です。列国はこぞって、これは両国が宣戦布告する前に行われた不法な行為だ、と日本へ厳しく抗議してきました。

日本政府は、これに反論しました。

「清国が日本から申し込んだ最後の談判を拒絶したから、日本はやむを得ず、今後は日本単独で朝鮮の改革をやるほかはない。したがって、決裂の責任は清国政府にある、という通牒(つうちょう:外交上の通知文)を出したのだ。だから、この瞬間から日本と清国の国交は断絶していると看做(みな)すべきである」

さらに、こう続けました。

「高陞号はイギリスの商会が所有する船ではあるが、事実上、清国政府がこれを借り入れ、清国軍隊の二千人以上の兵員を輸送していた。つまり高陞号は、日本の権益に反対して戦闘する目的で航海していたことが明らかである。だから、日本にはこの航海を続けさせることも、清国へ帰航させることもできなかった。ただ、これを護送して日本の港に回航させ、その兵員をことごとく拘禁するという方法があっただけだ。しかも浪速(なにわ)艦長はあらかじめこれを要求しているではないか。それにもかかわらず、高陞号は承知しなかったのだ。承知さえしていれば、なにも撃沈することはなかっただろう。この事件は、開戦の前であろうと後であろうと、自国の正当防衛のためにまったくやむを得ない戦時行為である」

こうして列国の抗議を一蹴(いっしゅう)しました。この反論の文書を書いたのが、当時、大本営に従っていた国際法学者・有賀長雄だったのです。

 

※注:このときの浪速艦長は、のちに日本海海戦を指揮する東郷平八郎でした。

 

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

そこで政府は、戦線にも法律顧問が必要だと考え、彼を第二軍の大山司令官のもとに配属しました。軍とともに花園河口(かえんかこう:遼東半島の花園口)に上陸した彼は、すぐに近くの村を見て回ります。敵地で、住民の保護がどれほど行われているかを知るためです。

ところが、驚いたことに、日本の軍用人夫(ぐんようにんぷ:軍に雇われて荷物運びなどをした民間人)が、中国人の村をさんざんに略奪していました。しかも人夫の服装が兵士に似ていたため、中国人のなかには、これを日本の兵士のしわざだと思っている者も多かったのです。

これを知った彼は、国際的な非難を招くことを恐れ、すぐに司令官に進言しました。人夫の武器携帯を禁じ、陸軍刑法を厳しく適用して、人夫の乱暴を取り締まることにしたのです。

戦争が進むにつれて、彼はさらに心を配りました。捕虜の収容と待遇。戦死者の遺体の始末。戦利品の徴発。占領地の住民の保護。国際公法(こくさいこうほう:国と国との関係を定める法)の定めに従って、手落ちのないように手を尽くします。

「戦律(せんりつ:戦争のきまり)を守るのは人道にもとづく義務であって、敵に対する義務ではない。だから敵がこれを無視しても、我は戦勝のさまたげにならないかぎり、これを守る義務がある」

これが戦時国際公法の精神です。彼はこれに従って、戦争における義務とされるものを、冷静にやり遂げました。

もともと戦争は熱狂的なもので、しばしば常軌を逸します。けれども、それをいちいち煩雑な法の条文に照らしていたら、軍の機敏な動きを奪い、戦略に大きな狂いを生じます。軍の動きを縛らず、しかも軍律に背くこともなく、戦争を有利に進めていく。それは平凡な学者にできることではありません。

また、彼の学者としての偉大さは、自分の信じるところに向かって、きわめて良心的に行動したことに表れています。

旅順口が陥落し、大山司令官が市街に入城したときのことは、冒頭に記したとおりです。市街で見つかった死者二千人、うち千五百人は非戦闘員。列国の指摘に司令官は弁明しましたが、有賀はいたずらに弁護せず、味方の将軍に対しても疑問の点は容赦しなかったのです。

 

※注:底本が記す「二千人・うち非戦闘員千五百人」は当時の日本側の説明にもとづく数字です。現在の研究では犠牲者数はこれより多いとする説が多く、はっきりしていません。

 

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

多方面な学識

 

彼の家は、代々歌人として名の高い家でした。祖先には有名な歌人の有賀長伯(ありが ちょうはく)がいます。

万延元年(一八六〇年)十月、大坂に生まれました。開成学校に入って首席で卒業し、選ばれて東京大学予備門に進み、さらに大学で哲学を専攻します。卒業するとすぐ大学の御用掛(ごようがかり:嘱託の職)に任じられ、『日本社会史』の編纂にあたるかたわら、大学で歴史を講義しました。

明治十七年、卒業からわずか二年で元老院(げんろういん:明治初期の立法機関)の書記官になります。十九年には在官のままドイツに留学して政治哲学を研究し、さらにオーストリアでシュタイン博士(ローレンツ・フォン・シュタイン:ウィーン大学の国法学者。伊藤博文も憲法調査のさいに教えを受けた)について国法学を学びました。

 

※注:留学の年は、元老院書記官への就任が明治十九年六月、渡欧が同年十一月、帰国が二十一年六月とする資料が一般的です。

 

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

帰国すると枢密院(すうみついん:天皇の諮問機関)書記官兼議長秘書官となり、続いて総理大臣秘書官兼内閣書記官に転じ、二十五年には農商務省の特許局長兼参事官に抜擢されました。異例の昇進です。

日清戦争では、先に述べたとおり、はじめ大本営に従って戦時の内閣事務の調査を嘱託されていましたが、まもなく抜擢されて第二軍司令部の法律顧問として従軍しました。戦後はヨーロッパへ行き、『日清戦役国際公法論』をフランス語で発表して、一躍その名を世界に知られます。三十三年には法学博士の称号を受けました。

日露戦争にも従軍しましたが、のちに官を辞して、東京帝国大学、早稲田大学、陸軍大学、経理学校などで教え、四十四年には文学博士の学位も授けられています。

伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、彼の博学と、どこへ行っても通用する多方面の才能を愛し、いつも枢密院や宮内省、内閣などの重要な地位を与えて、自分のそばから離しませんでした。そして口癖のように言っていたといいます。

「有賀は重宝な人物だ。彼のような人物があって、自分はどれだけ助かっているか知れない」

この一言だけでも、彼が国際公法学者としての冷たい素養だけの人ではなかったことが分かります。歌人の家に生まれ、文学の素養も深く、宮中の故実(こじつ:古くからのしきたり)や儀式にも通じた歴史家でもあったのです。伊藤博文が彼の才能を愛したのも、決して偶然ではありません。

したがって著書もたいへん多く、多方面にわたります。『社会進化論』『族制進化論』『帝国史略』『大日本歴史』『日本古代法釈義』『行政学』『大臣責任論』『満洲委任統治論』『国家学』『最近三十年外交史』『近世外交史』『戦時国際公法』『日清戦役国際公法論』『日露戦役国際公法』『文明戦争法規』『国際法』『帝国憲法講義』『同憲法論』『国法学』『国際公法』『スペンサー教育学』『ジョンノット教育学』『支那雑観』『文学論』。これが主なものです。しかもなお、語学では英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語の五か国語に通じていました。

 

※注:底本の著書の一覧は印刷が崩れており、原本の拡大画像で確かめられたものだけを挙げました。『満洲委任統治論』は、日露戦争後に日本が満洲(現在の中国東北部)の権益をどう扱うかを論じた本で、当時の議論の産物です。

 

 

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

中国の教師

 

大正二年(一九一三年)、彼は中華民国の招きに応じて、袁世凱(えん せいがい)大総統の顧問となり、中国の憲法制定にたずさわることになりました。

これは有賀長雄ひとりの栄誉ではないでしょう。

なぜなら日本は、舒明(じょめい)天皇二年(六三〇年)から承和(じょうわ)五年(八三八年)までのあいだに、前後十四回の遣唐使を、当時の先進国であった唐に送り、その進んだ学問や文物を取り入れるのに忙しく、懸命に学ばなければならなかったからです。しかもそれには、たいへんな苦心と犠牲が伴いました。航海が、きわめて危険だったのです。

たとえば第二回の遣唐使は、白雉(はくち)四年(六五三年)五月、大使・吉士長丹(きしの ながに)、副使・吉士駒(きしの こま)が学問僧や学生ら百二十一人を、大使・高田首根麻呂(たかたのおびと ねまろ)、副使・掃守連小麻呂(かにもりのむらじ おまろ)が学問僧ら百二十人を伴い、二隻に分かれて出発しました。ところが七月、高田首根麻呂の一行は薩摩の竹島のあたりで転覆し、わずか五人が板にすがって竹島に流れ着いただけでした。

次の遣唐使は朝鮮の沿岸を経て無事に唐へ着きましたが、押使(おうし:大使の上に置かれた総責任者)の高向玄理(たかむこの くろまろ)は帰ることができず、唐の地で亡くなっています。第四回の坂合部石布(さかいべの いわしき)の船は、朝鮮沿岸で逆風に遭って小島に流れ着き、島の人に船を奪われ、ついには島の人の船を盗んでやっと唐にたどり着きました。そのほか第九回、第十回、第十二回、第十三回、第十四回など、どれも航海の事故なしには済まず、まったく命がけの事業でした。

こんなに苦心して学ばなければならなかったのに、いまはそれが逆になりました。袁世凱から憲政の大臣として日本に特派された特寿(とくじゅ)、李家駒(り かきょ)の二人が、有賀長雄に師事して、日夜親しく教えを乞うようになったのです。歴史家でもあった有賀がこのことに思いを致したとき、感慨深いものがあったことでしょう。

 

※注:底本のこの段は、かつて日本が中国に学び、いまは中国が日本に学ぶ、という昭和十一年当時の見方で書かれています。実際の有賀の顧問時代は、袁世凱の権力強化に憲法学者として関わったとして、中国側でも日本側でも評価が分かれています。また大正四年(一九一五年)の二十一か条要求に対しては、有賀は日本政府の要求を批判する立場をとりました。

 

彼は大正十年(一九二一年)六月十七日、小石川(こいしかわ:現在の東京都文京区)の自邸で病没しました。享年六十二。病が重くなると、その功績によって特に位を二級進められ、従四位勲二等に叙せられています。

病床でも『東洋美術の新紀元』の翻訳に取りかかっていたといいます。多方面な趣味を物語る逸話であると同時に、篤学者(とくがくしゃ:学問にひたむきな人)としての彼の姿が、生き生きと浮かんでくる話です。

 

 

有賀長雄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

伊東巳代治の生涯|語学力と実務能力で国家の危機を救った「憲法の番人」
伊藤博文の側近として帝国憲法の起草に携わり、のちに「憲法の番人」として絶大な権力を振るった官僚・政治家である伊東巳代治(いとう みよじ)。長崎で身につけた英語力とずば抜けた事務処理能力を武器に、大津事件や三国干渉などの国家的危機を裏から支え続けた「明治の黒衣」の生涯と、その強烈な個性をわかりやすく解説。
梅謙次郎の生涯|日本民法の基礎を築いた「立法・育英の貢献者」
明治時代、日本の「民法」「商法」の起草に尽力し、現代につながる法律の礎を築いた法学者・梅謙次郎(うめ けんじろう)。法政大学の初代校長として教育にも情熱を注いだ「立法と育英」の偉大な生涯をわかりやすく解説します。
安達峰一郎の生涯|「世界の裁判長」に上り詰めた小国の救世主
語学の天才として外務省で活躍し、大国イギリスやアメリカにもひるまず「平和と正義」を主張した安達峰一郎。世界中から尊敬を集め、「常設国際司法裁判所」の所長にまで上り詰めた彼の熱き生涯をわかりやすく解説します!

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

タイトルとURLをコピーしました