明治のはじめ、東京大学医学部の一人の学生のもとに、危篤の知らせが届きました。知り合いがチフスで海軍病院に入院しているというのです。
駆けつけて容体を見ると、助からないほどではありません。ところが枕もとには、西瓜(すいか)が置いてあります。
「病人に西瓜などを食わせる法があるか!」
学生は、担当の軍医と口論になりました。
そこへ、箱根に避暑していた海軍省のお雇い医師、イギリス人のアンダーソンが帰ってきました。病人を診たあと、やはり「なぜこんなものを食わせるのか」と言って、枕もとの西瓜を床に投げつけたのです。
知人がすっかり治って退院するとき、病院長の吉田顕三(よしだ けんぞう)が尋ねました。「この間見舞いに来て、軍医と口論した書生は誰か」。青山という医学生です、と答えると、院長は感心して言いました。
「ああ、そうか。あの学生は将来、必ず名医になるよ」
青山胤通(あおやま たねみち)。学生のころから患者を診る才能をもち、のちに「青山内科」の名で知られた人でした。
捨てられた博士
安政六年(1859年)五月十五日、のちの大博士・青山胤通は、美濃苗木(なえぎ)藩主・遠山美濃守の江戸麻布の下屋敷で生まれました。父の景通(かげみち)は、藩主・遠山友禄(ともろく)の奥方・栄綱院(えいこういん)に仕える、わずかな禄の藩士にすぎませんでした。
胤通が生まれたのは、父が四十二歳のときです。当時は「四十二の二つ子は親の命を奪う」という迷信があり、そのため彼は「捨松」と名づけられて、形だけいったん捨て子にされました。それを同じ藩の中根助右衛門が拾い、「助松」と名を改めたうえで、青山家に引き取られたのです。まだ幕府の時代のことですから、こうしたつまらない迷信がいろいろ行われていたのでしょう。
景通は栄綱院に仕えて江戸に五年住んだのち、文久三年(1863年)、一家をあげて故郷の苗木(現在の岐阜県中津川市)に帰りました。翌年、母を亡くしたため、胤通は伯母の縫子(ぬいこ)に母親代わりとして育てられます。縫子は父の姉で、いったん嫁いだものの、事情があって婚家を出て実家に戻っていた人でした。父も一目置いたというほどで、藩の中では男勝りで知られた女性です。胤通の幼い日々は、この気の強い伯母の影響を大きく受けました。

彼の幼い頃は、尊王倒幕の叫びで世の中が揺れていた時代です。けれども美濃の山あいの小さな城下町は、まるで夢のように静かでした。胤通は穏やかな家庭で、すこやかに育っていきます。
やがて明治維新の幕が開きました。父の景通が神祇官(じんぎかん:神々の祭りをつかさどる役所)に職を得て京都へ呼ばれたので、胤通も伯母に連れられて京都へ移ります。
そのころ京都には、同じ神祇官に仕える平田信胤(のぶたね)という国学者がいました。秋田の人で、名高い大学者・平田篤胤(あつたね)の孫です。実の子がなかった信胤は、胤通(このころはまだ助松)の非凡さを見込んで、父の景通に養子にほしいと頼みました。父は名誉ある平田家の家系を喜び、胤通を平田家の養子にします。明治二年(1869年)、胤通十一歳のときでした。このとき彼は幼名の助松を改め、父と養父の名から一字ずつ取って「胤通」と名乗ります。
けれども平田家に入って二年で養父が亡くなり、養父の妻も離縁となって、その四男が跡を継ぐことになりました。胤通は養家を去り、青山家に戻ったのです。

博士の業績と功労
平田家を離れた翌年の明治五年(1872年)、胤通は十四歳で東京へ遊学しました。維新からまだ日が浅く、新しい文化を求める気運が高まっていた時代です。彼が学ぼうとしたのはドイツ語でした。当時ドイツ語を教える私塾は壬申義塾(じんしんぎじゅく)と進文学舎の二つで、彼は両方に通ってドイツ語を身につけ、翌年、大学東校(だいがくとうこう)の医学校予科に入学します。
東校はやがて東京医学校となり、さらに東京大学医学部と名を改めました。胤通はこうして医学の道を歩み、明治十五年(1882年)、二十四名中三番の成績で卒業します。冒頭に書いた海軍病院の一件は、この学生時代のことです。彼は学生のうちから、すでに患者を診る才能を持っていました。
卒業すると彼は内科の医局に残り、ベルツ教授の助手となって、月給三十円を受け取りました。しかし助手の暮らしは一年足らずで終わります。文部省から、医学を学ぶためドイツへ留学するよう命じられたのです。明治十六年(1883年)九月のことでした。彼はベルリンの王立フリードリヒ・ヴィルヘルム大学に入り、四年間、一歩もベルリンを出ずに病理解剖学を学びました。
帰国後は帝国大学の教授に任じられ、あわせて和泉橋病院(大学の附属病院)の内科を率いて、外科の佐藤三吉(さとう さんきち)博士とともに医科大学の双璧とうたわれます。これより前に医学博士の学位を受けており、臨床の学者として、まさに日の出の勢いでした。世間が「青山内科」と呼び、博士の診察を求める患者が門前に市をなすほど集まったのも、このころからです。
明治二十七年(1894年)、中国でペストが流行しました。中心地は香港です。衛生設備が整わず、医療も足りないため、ペストは日を追って猛威をふるい、むごい光景が広がっていました。そこで日本政府も、現地で実際に研究する必要を認め、青山博士と北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)博士を流行地へ派遣します。日清戦争が始まるという噂が高まっていた、ちょうどそのときでした。
香港に着いた博士は、研究所にあてられたケネディ・タウン病院を拠点に、ひたすら患者の診療にあたりました。中国人の患者は土間に簀(す)の子を敷いて寝かされ、苦しいうめき声と、蠅と、不潔な環境で、そこはまるで地獄でした。言葉は通じず、患者たちの根深い迷信にも苦しめられながら、博士は二週間のうちに十九の遺体を解剖し、四十五名の患者の症状の経過を細かく記録します。それでも満足せず、豚小屋を仮の病院にした東華病院分院の患者数十名まで調べました。毎日、夜明け前から夜更けまで、心も体も研究に打ち込んだのです。こうしてドクトル青山の名は、日本医学界の戦士として、世界に広く知られることになりました。

しかし不幸にも、博士自身がペスト菌に襲われ、一時は危篤に陥ります。それでも天は、博士の命をむざむざ奪いはしませんでした。ペストを克服して健康を取り戻した博士は、凱旋将軍のように、国民の歓呼のなかで帰国を迎えられたのです。この功労で、博士は勲四等旭日小綬章を授けられました。
博士の業績はあまりに多いので、年代順に主なものを挙げるにとどめます。医科大学長に任じられたのは明治三十四年(1901年)。以来、学長の職にあること十六年で、その長さは空前にして絶後と言われました。それだけ信望が厚かったのです。明治三十六年(1903年)には再び外国へ渡り、一年をかけて各国の医学界の現状を視察して帰りました。明治三十八年(1905年)には、戦時の衛生体制が整っていないのを見て陸軍に献策し、「陸軍衛生部幇助員(ほうじょいん:協力員)」の規定を作らせ、発布の翌日から教授たちとともに幇助員となって、傷病兵の診療にあたっています。
そして明治四十五年(1912年)、五十四歳のとき、博士は明治天皇の拝診の任にあたりました。崩御の日まで、寝食を忘れて治療に心を傾けたのです。同じ年、宮内省御用掛を拝命しました。
博士の晩年で特筆すべきは、この明治天皇の拝診です。天皇の病が重くなり、国じゅうが深い憂いに包まれたとき、山県有朋(やまがた ありとも)は宮中に対して、侍医に手落ちはないだろうが万全を期すために最新の医学の力を取り入れるべきだと説き、博士の出仕を献策しました。博士もこのときばかりは、強い責任感をもって昼夜、拝診と治療に従いました。宮中を退いて自宅に帰っても厳しい態度を崩さず、ほとんど無言のことが多かったといいます。時は明治四十五年の真夏です。連日の暑さと心労で顔はやつれ、礼服の襟は流れる汗でよれよれになり、ズボンは膝をついて進むうちに穴があいて、何度も取り替えたと伝えられます。博士は崩御の日まで、渾身の真心を傾けて、医術の最善を尽くしました。

梅毒坊主を怒鳴りつけた博士
博士と大隈重信(おおくま しげのぶ)との交友は、世間によく知られていました。明治二十八年(1895年)に大隈の母を診察したのが始まりで、大隈が亡くなる日まで二十三年続いています。
あるとき大隈は、側近にこう語りました。「青山博士は、言うことも気分も立派な政治家である。かつてある政治的な計画を相談に来たことがあるが、そのとき私は、まだ時機が早いと言って思いとどまらせた。油をかければ政治に転ずるかもしれない人だからだ。しかし、医者として世界に認められた大家を、いまさら政界に誘い出すのは、国のために大きな損失である」。博士をよく知る者の言葉です。
たしかに博士は、職業柄、天下の名士や政治家と付き合いがあり、政治の方面でもかなりの力を持っていました。もともと政治への深い興味——野心と言ってもいいでしょう——があったのです。しかし博士の天分を知り尽くしていた大隈は、ついに彼を政界へ誘い出しませんでした。
博士は、医者が一通りの診察を済ませたあとで、なお聴診器を胸に当てたり、指をコツコツ鳴らしたりして患者の顔色をうかがう態度を、「あれは医者の手品だ!」と笑って、ひどく嫌ったそうです。医者としての強い自負があり、自分を卑下するところがまったくありませんでした。
あるとき、ある伯爵夫人が息子を連れて診察に来ました。病気は、くる病(骨軟化症)です。この夫人は日ごろから金の力を鼻にかけていて、世間の評判はよくありませんでした。このときも博士の前に偉そうに突っ立ったまま、金はいくらでも出すから丁寧に診てくれ、という口ぶりを見せたのです。博士の癇癪(かんしゃく)は、たちまち爆発しました。「この子はアメリカへやったらいいだろう。アメリカの靴屋はたいていくる病だから」——そう言って笑い、夫人を追い返したのです。博士の負けん気を示す逸話です。
またあるときは、大勢が見ている診察室で、梅毒にかかった僧を「頭を丸めて黒い衣を着た身でありながら、こんな不潔な病気にかかるとは何だ!」と一喝して追い返した、という話も伝わっています。博士は道徳の面でも性格の面でも、きわめて潔癖で厳格でした。

博士が亡くなったのは、大正六年(1917年)十二月二十三日です。その年の五、六月ごろから衰弱が進み、食道狭窄(きょうさく:食道が狭くなる病気)の症状が現れました。学長を辞めて静養に専念しましたが、病はますます進みます。危篤に陥ると、生前の功績によって特に男爵を授けられ、逝去にあたっては位を一つ進めて正三位に叙せられました。

動画で見る


