迷信から「捨て子」にされた数奇な生い立ち
青山胤通(あおやまたねみち)は、安政六年(1859年)5月15日、美濃国苗木藩(現在の岐阜県)の江戸麻布下屋敷で生まれました。後に大博士として医学界に君臨する彼ですが、その出発点は非常に数奇なものでした。
父の景通が42歳の時の子供であったため、当時の「厄年に生まれた男児は親の命を奪う」という迷信から、胤通は生まれてすぐに「捨松」と名付けられ形式上いったん「捨て子」とされました。同藩の中根助右衛門に拾われる形をとって、「助松」と名を改めた上で、青山家に引き取られたのです。
その後、文久三年に一家は故郷の苗木に帰りますが、すぐに母を亡くし、胤通は父の姉である伯母の縫子(ぬいこ)に育てられることになります。この伯母は、事情があって離縁し実家に戻っていたものの、男勝りで非常に気丈な女性でした。幕末の動乱期にあっても、美濃の山中にある静かな城下町で、胤通はこのたくましい伯母の感化を受けながら健やかに成長していきました。
明治維新後、父が神祇官として京都へ召し出されると、胤通も伯母に連れられて上京します。そこで大国学者である平田篤胤の孫・平田信胤に見込まれ、一度は平田家の養子となりました。しかし、わずか2年で養父が亡くなり、再び青山家へと戻るという、波乱の少年時代を過ごしたのです。
貧しき医学生からドイツ留学へ
明治五年、14歳になった胤通は東京へ遊学します。新しい時代の幕開けを感じていた彼は、ドイツ語を学ぶために私塾に通い始めました。やがて東京大学医学部の前身である医学校予科に入学し、医学の道を志すようになります。
明治十五年、医科大学全科を24名中第3位という優秀な成績で卒業。学生時代からその天分は際立っており、ある時、チフスで海軍病院に入院した知人を見舞った際、担当の軍医と堂々と治療方針を巡って激論を交わしたという逸話が残っています。その知人が全快して退院する時、病院長の吉田顕三は「あの学生は将来必ず名医になる」と感嘆したといいます。
卒業後、彼は内科の医局に残り、お雇い外国人教師であるベルツ教授の助手となりました。月給わずか30円の苦しい生活でしたが、その才能が認められ、翌年には文部省から医学修業のためドイツ留学を命じられます。ベルリンの大学に入学した彼は、4年間一度もベルリンから出ることなく、ひたすら病理解剖学の研究に没頭しました。
帰国後は帝国大学教授に任命され、大学附属病院の内科を主宰します。外科の佐藤三吉博士と共に「医科大学の双璧」と謳われ、日本初の医学博士号を授与されるなど、臨床医学の権威として旭日昇天(きょくじつしょうてん)の勢いで名声を高めていきました。世間では「青山内科」と称賛され、彼の診察を求める患者が門前に市をなすほどの盛況ぶりでした。

香港ペストとの死闘と栄光
明治二十七年(1894年)、清国(中国)南部や香港でペストが大流行しました。事態を重く見た日本政府は、実地研究のために青山胤通と北里柴三郎の両博士を香港へ派遣します。
当時の香港の仮設病院は、不衛生な環境と患者の苦痛のうめき声に満ち、まさに生き地獄のような惨状でした。言葉が通じないことや、現地の患者たちの迷信による抵抗に苦しみながらも、青山博士は未明から夜更けまで全心全霊でペスト患者の治療と研究に打ち込みました。
2週間のうちに多数の遺体を解剖し、精密な記録を残すという凄まじい執念を見せましたが、その過酷な環境下で、ついに彼自身もペスト菌に感染してしまいます。一時は危篤状態に陥り、日本中がその安否を気遣いましたが、持ち前の生命力で奇跡的にペストを克服しました。
健康を回復し、平和の戦士として帰国した青山博士を、国民は熱狂的に迎えました。この命がけの功労により、彼は明治政府から勲四等旭日小綬章を授与され、その名は世界的にも広く知れ渡ることとなったのです。

明治天皇の最期を看取った厳格なる名医
青山博士の晩年における最大の業績は、明治四十五年(1912年)、崩御される直前の明治天皇の拝診にあたったことです。
大帝の病状が悪化し、国中が深い悲しみに包まれる中、山県有朋の強い推薦によって、最新医学の最高権威である青山博士が宮中に召喚されました。彼は強い責任感をもって日夜治療に尽力し、連日の猛暑と心労で顔はやつれ、礼服のカラーは汗で崩れ、膝行(しっこう:膝で歩くこと)の繰り返しでズボンに穴が開くほどでした。崩御の日に至るまで、寝食を忘れて全身全霊で対症療法に努めました。
博士の性格は、極めて厳格かつ潔白でした。ある時、梅毒にかかった僧侶が診察に訪れた時は「仏の道を説く者がこんな不潔な病気にかかるとは何事だ!」と激しく叱りつけました。
大隈重信侯爵とも親交が深く、大隈侯は「青山博士は気分も立派な政治家だ。しかし彼を政界に誘うことは国家の大きな損失になる」と語り、その天分を医学の道に留めさせました。
大正六年(1917年)12月23日、食道狭窄の症状が悪化し、青山胤通はこの世を去りました。その生涯は、迷信によって捨てられた赤子が、自らの才覚と不屈の精神で近代日本の医学界の最高峰へと登り詰め、国家の危機や皇室の重事に身を捧げた、まさに壮絶なる英雄の物語でした。


