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明石元二郎の生涯|日露戦争を勝利に導いた天才スパイの功績とは

『明石元二郎』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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戦国策士 明石元二郎

 

参謀本部が編集した膨大な『日露戦史』のどこを探しても、「明石元二郎(あかしもとじろう)」という文字は全く見当たりません。
しかし、明石元二郎の日露戦争における功績は、満州の山野を駆け回った野戦の勇将たちに少しも劣るものではないのです。それにもかかわらず、彼の名前が公式の歴史書に残されていない理由は、彼の活躍が「秘密中の秘密」であり、表立って記録に残せるような性質のものではなかったからです。

しかし、時間が経てばすべての秘密は明らかになります。今ではもう秘密ではなく、文章にして表すことができますが、実際に彼は、戦争が始まるとスウェーデンの首都ストックホルムに滞在して、まるで戦国時代の策士のように暗躍しました。

例えば、ロシアの怪僧ガポンを操って新たな運動を起こさせたり、ポーランドの革命党をそそのかしてロシア国内を混乱させたり、あるいは韃靼(だったん:主にモンゴル高原や中央アジアに居住していた遊牧民族(タタール人)を指す中国側の呼称)人をけしかけてシベリア鉄道を破壊させたりするなど、ロシア軍の背後をかき乱す工作活動に全力を尽くしたのです。

もちろん、これらの様々な運動が、明石一人の力だけで起こったとは言えません。その根本的な原因は、当時の大きな社会情勢にあったと考えざるを得ないでしょう。けれども、その情勢に拍車をかけたという功績は、彼にあると認めざるを得ません。

このように見事な手腕を振るった彼は、単なる一介の軍人ではなく、軍人政治家としての才能と、策士としての風格を備えていました。しかし、彼がその胸に抱いた素晴らしい計画を最後まで実現することなくこの世を去ってしまったことは、彼を知る者たちが皆、等しく残念に思うところでした。

外見を気にしない性格

 

明石元二郎は、元治元年(1864年)8月1日、九州の福岡に生まれました。幼い頃から人並み外れて腕白で、かつ大胆な性格だったといいます。近親者が彼を懲らしめるために叺(かます:藁(わら)やむしろを二つに折って両端を縫い合わせ袋状にしたもの)の中に封じ込めて土蔵の中に入れたこともありましたが、彼は泣きも叫びもせず、土蔵の中で平然としていたという逸話が残されています。

また、その風采は甚だ不潔で、鼻水を垂らし、涎(よだれ)を流しているような子どもでしたが、それでいて頭脳は極めて明晰でした。小学校では常に首席を占めていたといいます。十三歳の時に上京し、幕末の儒学者・安井息軒(やすいそっけん)の塾に入学して漢籍を学びました。

 

明石元二郎のシーンを表すイラスト

 

翌年十四歳の六月、明治十年に陸軍士官学校の幼年生徒となり、陸軍士官としての道を歩み始めました。歩兵少尉に任ぜられたのは明治十六年十二月のことで、同期生には後の大将・大井成元や仁田原重行などがいます。その後、陸軍大学校に入り、二十二年に卒業しました。

こうして将軍への王道を歩み始めた青年士官も、粗野で身なりに無頓着なことは幼い頃と変わらず、本を読みながら垢だらけの手でいじって真っ黒にしたり、時には鼻水を落としたりするほどの不潔ぶりでした。しかし、そうした一面とともに、戦術と数学を得意とし、また図画が綿密で正確なことは、誰もが感嘆するほどだったといいます。

陸軍大学校を卒業すると、歩兵第五連隊付きとなって青森に赴任し、約一年後には参謀本部出仕を命ぜられました。これより彼が師団長になるまでの二十五年間のうち、連隊長として外に出たのはわずか十ヶ月のみで、他はすべて参謀勤務あるいは駐外勤務に服しました。ここに彼の軍人としての特色を見出すことができます。 

明治二十七年二月、大尉としてドイツ留学を命ぜられ渡欧しましたが、間もなく日清戦争が勃発し、彼は近衛師団の参謀として帰朝しました。しかし、同師団は征途半ばにして講和となり、戦地には至りませんでしたが、直ちに方向を転じて台湾に入り、匪徒討伐(ひととうばつ:日本による支配に抵抗する現地の武装勢力を軍隊や警察が鎮圧・掃討した作戦)に従事しました。征戦は半年に及び、その間、師団長・北白川宮能久親王の薨去(こうきょ)という悲運もありましたが、あらゆる辛苦を嘗(な)めて凱旋しました。

二十九年五月に参謀本部に帰りましたが、この頃より彼の特異な才能が次第に認められるようになり、その九月には参謀次長・川上操六に随行して、台湾、仏領インドシナの安南、トンキン地方を視察します。また三十一年五月には南洋諸島に派遣されて米西戦争を観戦し、三十三年の北清事変には同伴者二名とともに山海関、錦州付近を偵察して、万一の場合に備えるなど、彼の活動は多くが対外的なものになっていきました。そしていよいよ、彼の一世一代の大事業の舞台となる欧州へと乗り込むことになったのです。

 

 

 

欧州での暗躍とロシアの攪乱

 

それは三十四年一月、日露の風雲が次第に怪しくなってきた頃、彼はフランス公使館附武官に補せられてパリに赴任し、さらに三十五年の八月にはロシア公使館附武官に転任しました。彼に課せられた責務は、月日とともに日増しに重くなっていきました。

明石は三十六年十一月に大佐に進級しましたが、職務は依然としてロシア公使館附武官でした。そして翌年二月上旬、いよいよ日露両国は干戈(かんか:盾と矛)を交えることとなり、ロシア公使館は撤去され、彼はスウェーデンの首府ストックホルムに移りました。公然の職務は参謀本部附の欧州駐在でしたが、事実上の任務はロシア後方の攪乱(かくらん)という大任でした。

当時、ロシアには様々な社会党や革命党が存在していましたが、明石が案出した計画は、これらを利用してロシア国内の事情を探らせ、さらに可能ならば、これらを総合してロシア国内に革命運動を起こさせようというものでした。背後で革命運動が起これば、ロシアは極東での戦争に全力を注ぐことはできないだろうと考えたのです。

そのためには、まずこれらの社会党に近づかなければなりません。彼はロシア語教師として、ロシアの大学生ブラトンを雇い入れました。これがきっかけとなり、彼は社会党の巨頭を知る端緒(たんしょ:物事の始まりや解決のための糸口・手がかり)を得たのです。ブラトンの言葉に従い、ストックホルムに移ったその日のうちに、フィンランド憲法党の首領であり、この地に亡命していたカストレンに密書を送り、会見を求めました。

ところが、その使者は空しく帰ってきて、「カストレンは在宿しているが、明石なる者は知らない、恐らく人違いだろうと言っています」と報告しました。彼が大いに失望して考え込んでいるところへ、シルクハットを被り白髭を生やした老紳士が来訪しました。これこそがカストレンの親友、コンニ・シリヤクスであり、フィンランド反抗過激派の領袖(りょうしゅう:ある集団や組織、政党などを統率するトップや最高指導者のこと)として、カストレンの代理として来たのでした。

「貴下に対してカストレンを紹介したのは誰ですか。また、先刻の使者は安全な人物ですか。その点に疑問があったので、不本意ながら手紙を突き返した次第です」

と彼は言いました。そして言葉を改め、

「同志の会合はカストレンも私も大いに希望するところです。しかし、旅館では危険です。明日の午前十一時に旅館の前で待っていてください。必ず馬車が停まりますから、それに乗車してください。当地は連日雪が降っています。幌を下ろして人目を避け、安全な会合地に行きましょう」

と提案しました。

こうして彼はロシアの社会党組織に近づき、その紹介でスウェーデン参謀大尉アミノフを知るなど、ロシア国内の攪乱と情報収集を着々と実現させていったのです。この特別勤務の一年半にわたる苦心は、実に筆舌に尽くしがたいものでした。欧州全土にわたって東奔西走し、しかもその間、常に刺客につけ狙われ、一日として枕を高くして眠ることはできませんでした。

 

明石元二郎のシーンを表すイラスト

栄光なき凱旋から台湾総督へ

 

三十八年十月に戦争が終結し、彼は帰朝を命じられました。滞在五年に及ぶ欧州の天地に別れを告げ、東京に到着したのは十二月も押し詰まった二十八日のことでした。満州に出征していた軍は前日までに大部分が凱旋し、凱旋将軍たちは光栄に輝き、人々の歓迎に酔いしれていました。しかし、彼は垢じみた背広服に破れた鞄を片手に携え、たった一人、ひっそりと新橋駅に降り立ったのでした。彼の行動は一切、秘密のヴェールに包まれていたからです。

 

明石元二郎のシーンを表すイラスト

 

三十九年の正月は久しぶりに家族団欒の時を過ごしましたが、二月にはまたもドイツ大使館附武官として欧州に赴きました。ところが、ドイツでは彼の辣腕を危険視し、社交界に入ることができなかったため、在任十ヶ月にして帰朝し、歩兵第七連隊長となりました。

しかし、この在任もわずか五ヶ月のことで、陸軍大臣・寺内正毅の推挙によって少将に進級するとともに、第十四憲兵隊長(間もなく韓国駐剳憲兵隊と改称)として韓国に赴任しました。ここに彼の朝鮮憲兵の拡張事業が始まります。彼は三代の統監の下で、韓国駐剳軍参謀長、警務総長、憲兵隊司令官などを歴任し、朝鮮には約八年駐在しました。その間、次々と憲兵力を増強し、日韓併合の際にも何ら事変を起こさせませんでした。

大正三年四月、欧州に戦雲が立ち込めるや、彼は参謀次長に起用されました。翌年十月には第六師団長に転じましたが、これはやや左遷の意味合いがあったようで、彼も内心不満を抱いていたようです。しかし、七年六月には台湾総督に栄転し、七月には大将に昇進しました。八年八月には台湾軍司令官を兼務します。

台湾総督としての精力的な活動の中、東部台湾の視察の途上にあった五月二十九日、彼は船中で病に倒れました。一時は重体となりましたが、九月に一度床を離れるまでに回復します。しかし、十月に内地へ転地するための船中で病状が急変し、同月二十六日、福岡において逝去しました。享年五十六歳。

日露戦争の影の立役者であり、台湾の発展に尽力した「諜報の天才」明石元二郎の波乱に満ちた生涯は、こうして幕を閉じたのでした。

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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