文明十七年(1485年)十二月晦日の夜半。出雲の富田(とだ)城の塀の外に、七十三人の男たちが忍び寄っていました。城を追われ、山寺の下男にまで身を落とした元の城主。旧恩を忘れない山中一族の十七人。そして昔のよしみを忘れない譜代の家来五十六人です。
夜が明ければ新春。鶏が元旦の暁を告げるころ、烏帽子(えぼし)に素袍(すおう)を着けた七十人あまりの一団が、太鼓を打ちながら、にぎやかに千秋万歳(せんずまんざい:新年を祝う舞)を始めて城に入って来ました。「今年は例年より一刻ばかり早く万歳が入り込んだが、善は急げの縁起だろう。めでたいことだ」——本丸と二の丸の者たちは、われを忘れて見物に走り出ます。
その時、城中のあちこちで火の手が上がりました。
尼子経久(あまご つねひさ)。一度失った城を奇計で取り戻し、山陰から中国地方に覇を唱えた戦国の武将でした。
奇計をもって富田城を奪う
室町幕府の末期、天下は大いに乱れました。群雄が各地に割拠して、争いに明け暮れます。関東に北条、北越に上杉、三河に今川、甲斐に武田、美濃に織田、中国に毛利。こうした豪族たちが競い立ち、互いに兵を交えて争いました。この戦国の時代に山陰で立ち上がり、覇を唱えたのが尼子経久です。出雲七百貫の小さな身代から身を起こし、たちまち出雲・因幡・伯耆・隠岐の四か国を平らげ、その武威は四方を圧しました。戦国時代の英雄の一人です。
出雲は、もともと近江の佐々木氏の領国でした。大膳大夫・高詮(たかのり)のとき、経久の祖父・上野介持久を出雲へ下し、守護代に任じます。持久の子・刑部少輔清定が続いて国の政務を取り、税を集めては近江へ送っていました。ところが経久がまだ又四郎と呼ばれていた若いころ、近江からの下知(げち:命令)に従わず、富田の近郷を勝手に手に入れ、三沢・三刀屋といった代官を討って従えようとしたのです。そのころ近江の太守だった六角弾正少弼定頼は、経久のふるまいに怒りました。三沢・三刀屋・浅山・塩冶(えんや)などの国侍に命じて経久を討たせ、守護代の職を取り上げ、富田の城から追い出してしまったのです。そして塩冶掃部助(かもんのすけ)を新しい守護代に任じ、富田の城主としました。
こうして経久は志破れ、無念の涙をのみながら、諸国をさまよう落人となりました。ついにはその日の食べ物にも困り、飢えに追われるところまで落ちぶれます。しかも頼みにしていた家臣の多くは彼のもとを離れ、近江に上って六角に仕えてしまいました。いくら焦っても、打つ手がありません。国に残っていたのは、山中の一族だけでした。

経久は山寺の下男のような身分に身を落として、ひたすら時が来るのを待ちます。しかし、寺男のまま老い朽ちるのはあまりに悔しい。ついに意を決して出雲に潜り込み、山中入道の隠れ家を訪ねました。山中は旧恩を忘れない人物でした。経久の志を知ると、すぐに一族十七人を語らって味方につけます。経久は大いに喜び、山中の家にしばらく身を潜めました。
とはいえ、相手は今をときめく守護代です。兵も多く、勢いも盛ん。わずかな人数で富田城を取り返すなど、思いも及びません。そこで、あれこれ策を練った末、この国のある集落の頭・賀麻(かま)という者を呼び出して、味方に引き入れました。賀麻は経久の信頼に感じ入り、地にひれ伏して答えます。
「昔からの家臣や郎党が千人も百人もいるのをさしおいて、私のような者を頼りにしてくださるとは、生涯の面目、これに過ぎる光栄はございません。ここまで見込まれた以上は、たとえ一族もろとも身を粉にされ、肉を塩漬けにされようとも悔いはない。どこまでもお味方して、お力になります」
経久はそこで、秘策を授けました。
「では、例年どおり富田の城で始める正月元日の千秋万歳の舞を、寅の上刻(午前三時ごろ)に始めてくれないか。そうすれば、暗いうちから見物しようと、本丸の者どもが二の丸へ出て行くだろう。その隙に、われらは搦手(からめて:裏門)から忍び込み、城中のあちこちに火をかけて本丸へ討ち入る。そのときの鬨(とき)の声を合図に、大手から斬り込んでほしい。前後から挟み撃ちにして、塩冶をはじめ城中の者どもが慌てふためくところを突き伏せ、斬り殺し、一気に城を乗っ取る。どうであろう」
賀麻は、それこそ必勝の妙計だと感心し、快く引き受けたのです。
こうして計略が固まり、手はずが整いました。冒頭に記したとおり、文明十七年十二月晦日の夜半、経久をはじめ山中の一党十七人と譜代の家来五十六人が富田の城へ忍び寄ります。もともと城の内はよく知り抜いています。丑の刻(午前二時ごろ)に塀を乗り越え、約束の合図を待ちました。明ければ新春、文明十八年。賀麻の一党七十人あまりが、甲冑の上から烏帽子と素袍を着け、城の内外で太鼓を打ち鳴らして、にぎやかに千秋万歳を始めます。本丸・二の丸の老いも若きも二の丸の大庭に走り出て、夢中で見物していました。
そのとき、経久たちが城中のあちこちに火を放ち、「火事だ、火事だ」と騒ぎ立てたのです。城の兵はうろたえ、武器ひとつ手に取る暇もありません。そこへ賀麻の一党が烏帽子と素袍を脱ぎ捨て、白刃を抜きそろえて大手からどっと迫ります。城の兵はようやく夜襲だと気づき、上を下への大騒ぎになりましたが、経久の計略にはまって、みすみす塩冶の首を取られてしまいました。経久は、恨み重なる塩冶掃部助の首を三日三晩城中にさらし、富田月山(がっさん)の城を完全に取り戻したのです。
経久の勝利の知らせが伝わると、恩顧の家来たちが続々と帰ってきました。近郷の豪族も経久の武威に従います。たちまち出雲一円を平らげ、勢いに乗じて四方に兵を進め、ついに出雲・因幡・伯耆・隠岐の四か国を攻め取りました。さらに石見・安芸・美作・備前・備中・備後・播磨へと兵を進め、中国十一か国を風靡したのです。吉川や毛利といった豪族も、このころには経久の麾下(きか:指揮下)に加わっていました。

衰運の端を開く
そのころ、豊前と筑前の二か国も手に入れて、中国五か国の太守として莫大な富と強い兵力を握り、権勢をほしいままにしていたのが大内義興(おおうち よしおき)です。将軍・足利義稙(よしたね)を奉じて京に入り、管領代となってからは、ますます勢いを増しました。山口の大内家といえば、風雲に乗る龍のような、昇る朝日の勢いだったのです。とくに義興が京に入って将軍を助け、天下の政務を取るようになってからは、関西・中国の豪族はほとんどその勢力に従いました。ただ一人、自分を貫いて大内の権威になびかなかったのが、尼子経久です。経久は野心にあふれ、大内家に従わないばかりか、隙さえあれば乗じようと機会をうかがっていました。
このころ大内義興は自分は京にいて将軍を補佐し、領国の経営は子の義隆に任せていました。義隆は父に似ず、戦国の経営者としては不向きな人でした。武を忘れて文弱に流れ、詩歌や音楽にふけり、日夜雅やかな宴に興じて暮らします。自然、大内家の武威はすたれ、弓は袋に、太刀は箱に納められ、続くのは風流の宴ばかりでした。これを見て、尼子に心を寄せる安芸・備後の豪族が富田城に使者を送り、この機会を逃すなとしきりに勧めます。しかし経久は、すぐには山口へ兵を進めませんでした。まず備後と安芸に兵を入れて自分の勢力範囲を十分に固めてから山口に迫るのが上策だ、と考えたのです。
経久はすぐに実行に移りました。出雲・因幡・伯耆・隠岐から五万五千の兵を集めて備後に攻め入り、大内配下の城々を落として、三次(みよし)城に迫ります。ここを攻め抜いておかなければ、大内攻めの後続部隊や輜重(しちょう:物資)の運搬に支障が出る。そう見たのです。
三次城の主は、猛将として名高い三好備後入道でした。経久は五万数千の大軍で一気にここを落とすつもりで、江(ごう)の川をはさんで陣を構えます。ところが季節はちょうど梅雨。備後第一の大河である江の川は濁流がとうとうと渦巻き、すぐには城に迫れません。しかも三次城は要害の地にあり、一人が守れば千の兵でも落とせないと言われた名城でした。城兵はわずか三千。経久は二十倍の大軍を抱えながら攻めあぐみ、囲んだまま、むなしく日を送ります。
対陣が長引くにつれて、城中の食糧は乏しくなり、苦しみは極まっていきました。ここで登場するのが、安芸の毛利元就です。それより前、経久が毛利の属城を落としていたため、両者の関係は決裂し、敵対していました。元就は使者から三次城の危機を知ると、ただちに三千の騎兵を率いて救援に急ぎます。そして濃い霧を利用して不意に江の川を渡り、長い対陣に疲れ果てていた尼子軍を追い立てて、大勝を収めたのです。経久は、狭い地形に大軍を抱えていては思うように動けないと悟り、すぐに兵をまとめて出雲へ引き上げました。彼もまた、機を見るに敏な名将だったのです。

これをきっかけに、尼子と毛利の関係はますます悪くなり、争いは絶えませんでした。経久は間もなく隠居し、子の政久が跡を継ぎます。ところが政久が早く亡くなったので、孫の晴久が祖父の後を継ぎました。このころ毛利元就は、安芸に散らばる尼子の属城を次々と攻め落としていきます。晴久は大いに怒り、毛利の居城・安芸の吉田城を攻めようと六万九千余りの大軍を集め、安芸へ攻め入りました。祖父の経久は、元就と直接ぶつかるのは不利だと説きましたが、血気盛んな晴久は耳を貸しません。
はたして元就は、天然の要害に頼って城から出ず、籠城しました。晴久は出陣以来しきりに攻め立てましたが、攻め口が見つからず、半年も城を囲んだまま陣に留まります。冬になれば出雲への道は雪に埋もれ、退路が断たれてしまう。そこで晴久は、城中の食糧が尽きるのを待つ持久戦に切り替えました。これを知った元就は、大内義隆に使者を送って援軍を乞います。義隆は陶隆房(すえ たかふさ)ら諸将に一万の兵を授け、元就を救わせました。
元就一人を攻めあぐねていたところへ、背後から大内の兵を受けたのでは、たまりません。城の兵は必死です。この好機とばかり城を押し出して奮戦しました。晴久は前後に敵を受け、しかも狭い地形で大軍を思うように動かせず、大敗を招きます。それでも尼子軍は敵に数倍する大軍でしたから、部分的な敗戦にとどまり、全軍の命運を握られるまでには至りませんでした。
ここで経久が動きます。彼はこのとき中風を病み、足腰の自由がきかない身体で晴久の軍に従っていました。
「元就一人を攻めあぐねているところへ、大内の後詰(ごづめ:後方からの援軍)の大軍まで引き受けたら、味方の大敗は火を見るより明らかだ。しかも元就は、まれに見る知恵と勇気の名将である。『彼を知り己を知るのが兵の道。彼を知らず己を知らないのは、兵法が戒めるところだ』」
そう晴久を説き伏せ、大内の大軍が押し寄せて退路を断つ前に兵を引き、出雲の居城へ退きました。
経久は富田に帰り着いて間もなく、天文十年(1541年)十一月、八十四歳で亡くなりました。これより晴久、義久と二代続けて毛利の攻撃を受け、あれほど中国十一か国に覇を唱えた尼子家も、没落の道をたどることになるのです。


