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牛島謹爾の生涯|アメリカで「ポテト王」と呼ばれた日本人移民の成功と苦難

牛島謹爾の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「万歳! ポテト王ウシジマ!」

明治三十九年(1906年)、サンフランシスコ大地震で焼け野原になった町に、毎日時間を違えず馬車とトラックで現れ、飢えた市民に馬鈴薯(じゃがいも)や野菜を配って消える、名も知れぬ男がいました。それが「ジャップ」と見下していた日本人だと知ったとき、市民のあいだに感謝の嵐が巻き起こりました。久留米の近郊から渡米した牛島謹爾(うしじま きんじ)。アメリカで「ポテト王」と呼ばれた人です。

 

馬鈴薯王

アメリカ西海岸を襲った大地震は、一朝にしてサンフランシスコ市を倒壊させ、しかも業火は倒壊した家屋の上をなめて、全市を灰燼(かいじん)に帰しました。そして一瞬にして統制と秩序を失った市中は、帰るに家なく、着るに衣なく、食うに糧なき罹災の市民に満たされ、名状しがたい混乱におちいりました。政府はあらゆる機関を動員して食糧の配給、暴民の取り締まりに狂奔しましたが、一朝にして奪われた機関は容易に回復せず、わずかに軍隊の力によってかろうじて統制が保たれているような状態でした。しかし食糧衣服の配給にはおのずから制限があり、全般の市民には行き届かず、罹災市民の飢えと不平はますますつのる一方でした。

このとき、どこからともなく馬車あるいはトラックに馬鈴薯や野菜その他の食料品を積んで、飢えた市民に恵んでいく、奇特な無名の一人物がありました。彼は馬車やトラックについて来た多くの使用人を指揮して、群がり寄る老若男女の罹災者にていねいな見舞いの言葉を浴びせながら、惜しげもなく馬鈴薯や野菜などをつかみ出して、手当たりしだいに配給するのでした。市民はいつとはなしに、一定の町角に一列に整列して、どこからともなく現れてくる慈善家を待つようになりました。彼は日に焼けて赤銅色をした、東洋的な、しかし東洋人にはまれに見る容貌魁偉(ようぼうかいい:顔つきが堂々として大きい)な長身の一人物でした。彼は粗末な労働服をまとっているので、どこかの農場の主人であることは想像されましたが、このように奇特な行いを外国人、しかも東洋人から受けるアメリカ人たちは、感謝と感激のなかにも不思議な気持ちをまじえて、彼の名を知ろうと努めました。そして毎日時間を違えず市中に現れて、莫大な食料品を廃墟の市民にばらまいて消える慈善家を、古い物語に出てくる貴族か王様のように想像したのです。

だがその後まもなく市中の秩序も回復し、新聞も発行されるようになってからはじめて、義捐金応募額において在米外国人中の筆頭に置かれた慈善家と、毎日廃墟の市中に現れて罹災者に馬鈴薯その他の食料品を恵んだ奇特な慈善家とが同一人物であること、しかもそれが平生「ジャップ」「ジャップ」と軽蔑していた日本人であったことを知って、市民のあいだに猛烈な感激と感謝の嵐が巻き起こされました。

「万歳! ポテト王ウシジマ!」

彼らは躍り上がって叫んだのです。まったく、それ以前までは、毎日の食膳に牛島の大量生産によって低廉な馬鈴薯を供給されてはいたのですが、日本人によって馬鈴薯の市価が左右されることは快く思っていませんでした。こうした偏狭な民族意識が、当時の牛島に対するアメリカ人の偽りのない評価でした。ところがサンフランシスコの震災に際して彼の義侠的な慈善行為を知るに至って、彼らは日本人のなかにも「キリスト教的な模範人物」が存在することを知り、排日の感情は大いに緩和されたのです。こうして「馬鈴薯王ウシジマ」の名声はアメリカ人のなかにますます喧伝され、牛島と馬鈴薯は切っても切れない印象を、はっきりアメリカ人の記憶のなかに植えつけたのでした。

牛島謹爾の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

地主的経営に成功する

堅実な日本人労働者が渡米するようになったのは、明治二十五、六年ごろからです。中国人が排斥法のためにその数を減少したのに乗じて、日本人の活躍は驚くべき程度に達し、その範囲はバカビル、フレスノ、サリナス、ワトソンビル、サクラメント、オクスナードなど、カリフォルニア州のほとんど全域にわたる優勢さでした。しかも広大な数百万町歩に渡る農園はほとんど日本人の独占に帰し、単純な被雇用労働の時代からしだいに小作労働の時代に進み、さらに一転して地主自営の時代に躍進して、アメリカ人に「日本人の土地占領」の笑うべき恐怖心まで引き起こさせるほどの発展ぶりでした。

明治三十八年度のサンフランシスコ日本人会の報告によれば、カリフォルニア州の邦人の耕地面積は、所有地二千四百四十二エーカー、現金借地三万五千二百五十八エーカー、収穫分配地一万九千三百七十三エーカー、耕地請負地四千七百八十五エーカー、合計六万一千八百五十八エーカーに上っています。同四十年度には所有地一万三千八百十五エーカー、現金借地五万六千八百八十九エーカー、収穫分配地四万八千二百二十八エーカー、耕地請負地一万三千三百五十九エーカー、合計十三万二千二百九十二エーカー、すなわち二年間に倍額の躍進です。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は最初の報告を「明治二十八年度」としていますが、「二年間に倍額」という文脈から明治三十八年度の誤りとみて改めました。

 

このとき牛島の所有地は、馬鈴薯耕地一万七千余エーカー、大麦その他の耕地三千五百余エーカーに達し、移民最多の一県の耕地面積に匹敵していたのですから、恐るべき発展ぶりです。彼の耕地から収穫される馬鈴薯は一か年五十余万俵と称され、内外人の羨望の的であり、まことに「馬鈴薯王」の声価にそむかない地位と、市場制覇の実力を持っていたのです。

彼がこの成功を得たのは一朝一夕の苦心ではなく、中国人でさえ顧みなかったサンホアキン河方面の不毛の沼沢地を買い取って、二十五か年計画で耕地の開拓に一身を忘れて従事したのでした。「だんだん排日熱も高まってくるし、それに黄金でうなるアメリカまで来て、ミスター牛島は何を苦しんであんな不毛の沼地を開墾しているのか、気が知れない」などと、邦人にまで変わり者扱いにされて笑われたのです。だが彼は、嘲笑と罵倒、あらゆる開拓上の困難を克服して、一歩一歩成功の基礎を築いていきました。一方で彼は農業に経験の深い兄覚平を内地から呼び寄せて、多角的農業法を研究して農産物の大量生産を志しました。あるときはサンホアキンの洪水で耕地面積の大半を失ったこともあり、一か年の血と汗の結晶である馬鈴薯二十万俵を流失して丸裸になったこともありました。だが彼は不撓不屈の決心で幾多の困苦欠乏を乗り切って、ついに不毛の沼地を立派な馬鈴薯耕地と化し、彼の多角的農業法はついに大量収穫の実を結んで、彼に成功の基礎を与えたのです。この沼沢地の開墾に対しては、排日のやかましかった当時ですら、アメリカ人は牛島をカリフォルニア開拓の恩人であると言って、彼にだけは例外的な待遇を与えたといいます。

また彼があらゆる障害困難と戦って地主的経営の端緒を開いたのは、当時の日本人移民が被雇用労働に従事してわずかな報酬に甘んじていた現状に満足できなかったからです。彼の成功の秘訣は、他人の容易にまねることのできない大胆な冒険と、機先を制して先手を打ち、優先権を占めることにありました。彼が多数の日本人労働者をその耕地に使用したことはもちろんですが、一方で多くの白人を使用してアメリカ人の得意先を開拓し、白人同等の位置に権利を獲得して市場制覇に乗り出したのです。そして「牛島ポテト」の名はカリフォルニアはもちろん、全米にまでその声価を高めました。

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晩学を恥じて渡米する

彼は久留米市の南郊に生まれ、少年時代から独立不羈(どくりつふき:人に頼らず縛られない)、負けじ魂の持ち主でした。年やや長じて、東都に苦学の志を立てて上京します。そして彼はある下宿の裏二階に間借りしましたが、そのとき下宿の少年が英語の書物をひもといて読みふけっているのを見て、長嘆息しました。彼は自分の晩学を恥じて、今から学問でどのように志を立てても、あの少年のように英語を解するまでには二か年を要し、二年ののちにはまたあの少年は自分より数倍の上達を見るであろうと考えたのです。そして彼は転々悶々として苦悩しました。結局、日本にいて学問しても、自分はあの少年より二、三年遅れている。その差は将来にまでつきまとうであろう。すなわち永久にあの少年の風下に立たなければならない。それは彼の負けぬ気性として、甘んじることのできない侮辱でした。彼はいろいろ煩悶した末に、アメリカへ渡って成功しよう、あの少年の解する英語を自由に操ってアメリカ人相手に成功してみせるぞ、と決心して渡米を志したのが明治二十一年(1888年)でした。彼はどこまでも負けぬ気の男子だったのです。ときに二十三歳と底本は記しています。

 

※ 牛島は元治元年(1864年)の生まれとされ、明治二十一年には数え二十五歳にあたります。

 

彼は渡米後あらゆる種類の職業に従事して、アメリカの風土人情について自分の考えを形づくるとともに、カリフォルニア州一般の状況を観察して、農業で身を立てるのが成功のもっとも近道であることを発見しました。彼はこうして農業から身を起こし、「馬鈴薯王」と呼ばれるまでに成功したのです。

しかし彼の功績は馬鈴薯の成功だけではありませんでした。その時分、情実と排他と、日本から持ち越してきた小さな県人意識、そんな感情にのみとらわれて、日本人の組織的活動が多く阻害されがちでした。そんな有様では日本人の一致団結した行動が取れなくなり、ひいてはアメリカ人にその弱点を利用されて、あらゆる方面で不利益を見なければなりません。そういう点に着眼して、第一に支離滅裂になっていた日本人会を改革し、選ばれて会長となり、日本人の発展にもっとも力を注ぎました。また日本人を代表して多くの公共団体、慈善事業などに尽力して、アメリカ人のあいだに日本人の公徳心が決して彼らのそれに劣らないことを証拠立て、民族的な差別を取り除くことに努めました。彼が日本人会会長として在任中は排日問題のもっともやかましいころで、彼はあらゆる機会を利用して排日感情の緩和に努力しました。あるいはアメリカ人地主のために土地を追われ、生業を奪われて困難している邦人のために労を惜しまず斡旋しました。しかしついに大勢はいかんともすべからず、一九一三年にはカリフォルニア州議会で排日土地法が通過し、日本人の土地所有、ならびに農業のためにする三年以上の借地権を剥奪されてしまいました。一九二〇年には、アメリカに生まれて市民権を有するきわめて少数の日本人以外は三年の借地権も奪われ、日本人は労働者としてより以外、いかなる方法をもっても農業に従うことができない有様になりました。さらに一九二四年には移民法が制定されて、日本人労働者の入国は絶対に禁止されたのです。その二年後の大正十五年(1926年)三月二十七日、一代の「馬鈴薯王」は悲憤の涙をのみながら病没しました。しかし彼があくまでも正々堂々たる態度をもって日本人のために気を吐き、日本移民にその行くべき道を指示し、倒れるまで活動してやまなかった功績は大きなものです。

下宿の少年に負けたくない一心で海を渡った男は、誰も見向きもしない沼地を二十五年かけて畑に変え、焼け跡の町にじゃがいもを配りました。その人が最後に見たのは、日本人がもう土地を持てず、海も渡れなくなったアメリカでした。負けん気だけで勝てないものが、この世にはある。それでも倒れるまで立っていた人の話です。

牛島謹爾の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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