破天荒なセメント王の素顔
徳富蘇峰(とくとみそほう:明治時代の有名なジャーナリスト)は、かつて浅野総一郎(あさのそういちろう)のことを「非凡な脱線人物だ(常識はずれだが、そこが凄すぎる人物だ)」と評しました。
「浅野君は事業にのめり込む人で、仕事が好きなのである。囲碁の好きな人が碁盤に向かうとご飯を食べるのも忘れて打ち続けるのと同じで、仕事がご飯よりも好きなのだ。浅野君の凄さは常に仕事をメインにし、利益はその後からついてくるものとして、一生の努力をその仕事の上に捧げようとしているところにある。彼にとって、子孫のために財産を残してやるなんてことは『どうでもいいオマケ』だと思っている。そう考えると浅野君はいかにも常識はずれに見えるが、実はその常識はずれなところこそが浅野君の凄いところなのだ」
浅野といえば、必ず引き合いに出されるのが大富豪・安田善次郎(やすだぜんじろう)の名前です。もちろん「安田というスポンサーあっての浅野」ではありましたが、一億円(現在のお金で数千億円)という莫大な金額をポンと無造作に貸してやる相手は、安田から見ても「浅野以外にはいない」と信じていたようです。実際、安田善次郎を暗殺した犯人でさえ「浅野には歯が立たない(浅野は凄すぎて手が出せない)」と言っていたと伝えられています。
彼の名物といえば、株主総会での議長ぶりでした。「議長っ!」と、少し睨みのきく株主から総会で鋭い声を浴びせられると、たいていの議長は「スワッ(きたか!)」とドキッとするものですが、浅野ばかりは違いました。
大正十二年十二月、丸の内の日本工業倶楽部の大広間で行われた「浅野セメント会社」の株主総会でのことです。正面の重役席には、渋沢栄一(しぶさわえいいち)、安田、大川、尾高などのそうそうたる超ビッグネームがズラリと並んでいます。第一次世界大戦のあとのセメント業界の空前の好景気ということもあり、出席した株主は二百五十名以上で超満員でした。
議長の浅野総一郎がゆっくりと立ち上がり、開会を宣言しました。
「皆さん、本日はお寒いのにご苦労さんでございました。貸借対照表などの難しい書類はすべてお手元にお配りしました通りで、文句はないものと思います」
すると一人の株主が立ち上がり、「利益の使い道を承認する前に、これまでの営業の経過と今後の見込みを説明するのが順序だろう」と注意しました。議長は朗らかにうなずき、こう答えました。
「実は、総会が終わってから今後の見込みなどをお話しするつもりでしたが、今ご請求がありましたので申し上げます。今回も一割か二割五分くらいの配当金(株主へのボーナス)にしようかと思ったのですが、奮発して『三割』にいたしました。のっけから三割配当なんて贅沢だと思われるかもしれませんが、これは戦争でボロ儲けしたとかいう理由ではなく、大正五年から大拡張の計画を立てて準備しておいたのが、今日になって大きな利益となって返ってきたのです。我が社は一つで六百十万樽もセメントを製造できるのに、他の会社は全部合わせても四百万樽しか作れない。つまり、我々は圧倒的な生産量で儲けた上に、原料の山も『百年や二百年掘ってもなくならない安い山』をたくさん持っているのです。株主の方々も、今日株価が百円を超えたからといって、すぐに手放して売ってしまうのはまだ早いですぞ。今に三百円にもなりますから!私が生きている限り、必ずそういう時代を近いうちに作ってご覧に入れますから、それまで安心してお売りにならない方がよろしい!」
こう言って、満員の株主たちを「ヤンヤ、ヤンヤ」と大いに沸かせたのです。
すると一人の株主が、ここで社長のご機嫌を取っておこうという野心からか、こう付け加えました。
「社長のご説明を聞いてすっかり安心いたしました!ついては先ほど、ご自身が生きてさえいればというお言葉がありましたが、ぜひとも百歳までの長寿をもって、事業のため、国家のためにご尽力されることをひたすらお祈りいたします」
浅野はますますいい気持ちになって、すぐにこう答えました。
「この仕事は私が生きていなければ誰にもできない仕事ですから、言うまでもなく百歳以上まで生きますよ!亡くなった安田善次郎さんは『男の働き盛りは八十、九十歳だ。六十や七十歳なんてハナタレ小僧だ』とおっしゃっていましたが、私は今年七十七歳になります。つまり、ほんのハナタレ小僧ですから、まだまだ死ぬような年齢ではありません!」
まさに和気あいあいとした株主総会で、株主一同の大きな拍手喝采の中で閉会しました。この答えは、彼が自然と人々の心を掴む極意を知っていたことの証明であると同時に、彼が自分の事業に対してどれほどの自信を持っていたかを物語るエピソードです。
水売りからの再出発と大逆転
世間の人々は浅野総一郎のことを「セメント王」と呼びます。しかし彼がその王座に座るまでには、沈んでは浮かび、浮かんでは沈む、戦い抜いた激動の前半生がありました。そして彼は「一日四時間以上寝ると馬鹿になる」と言って、死ぬまで働き通した猛烈な人物でした。
浅野は若い時から随分苦労をしました。嘉永元年(一八四八)三月十日、富山県の氷見郡(ひみぐん)で生まれ、いったんは町医者の家に養子に出されましたが、実の父親が死んだ後に実家に戻りました。その後、色々な事業に手を出しますが失敗ばかり。借金のカタに家をとられ、故郷を脱走して初めて東京の土を踏んだのが明治四年、二十四歳の時でした。
最初は万世橋(まんせいばし)や御茶ノ水の道端で、砂糖水を売る商売から始めました。「冷やっこい、冷やっこい」と呼び込みながら、一杯一銭の冷水を売る「冷やっこい屋」でした。住吉町のボロボロのあばら家に住み、次には横浜で醤油屋の小僧になり、竹の皮を売る仕事をして天秤棒(てんびんぼう)を担いで歩き回りました。「大熊良三」という偽名を名乗っていた時代もありました。
だんだんと調子が良くなり、お嫁さんをもらって石炭の小さな商売も始め、六百円の貯金ができました。しかし間もなく強盗に襲われて全財産を奪われたり、火事に遭ったりして、またしても一文無しに逆戻りしてしまいます。
しかし、ちょうど時代は明治維新の混乱がおさまり、日本の資本主義が大きく発展しようとするタイミングでした。東京の深川(ふかがわ)に、近代的なセメント工場が作られたのです。当時はまだ小さな工場でしたが、そこに宇都宮三郎(うつのみやさぶろう)という人がいました。この人は日本で最初のセメント技師ですが、その部下に鈴木儀六(すずきぎろく)という技師がおり、浅野は彼と知り合いでした。
浅野は石炭を扱っていた関係から、当時のガス局で「コークス(石炭を蒸し焼きにした燃料)」の処分に困っていることを知っていました。浅野は「何とかこのコークスを廃物利用できないか」と鈴木に相談を持ちかけます。日本ではまだ誰もコークスの使い道を知らなかった頃ですが、鈴木は「外国では火力にコークスを使っているそうだ」と答えました。
浅野はさっそく「高い無煙炭を使わなくても、安いコークスで十分な火力が出せるのではないか」と工場長に掛け合います。実験してみた結果は、見事に大成功でした。浅野はすぐに横浜のガス局へ飛んでいき、数千トンのコークスを「一トン五十銭」というタダ同然の安値で買い取る契約を結びました。これが明治七年のことです。
その後、明治十年になって「西南戦争(せいなんせんそう)」が始まると、全国の船が軍用として集められ、石炭の値段がどんどん跳ね上がりました。この時、浅野が若手実業家として名を上げつつあった渋沢栄一(しぶさわえいいち)の信頼を得ていたことも幸運でした。彼は渋沢の力を借りてまとまった資金を作り、陸路で長崎まで飛んで行って石炭を買い占めたのです。激しい買い占め競争で吊り上がった「一トン二、三十円」の石炭でも、横浜に持ってくれば「九十円」という大暴騰を見せ、瞬く間に売り切れました。こうして浅野は一気に数万円(現在の数億円)という巨額の利益を手にしたのです。

セメント王の誕生と安田善次郎
政府が経営していた深川のセメント工場は、巨額の税金をつぎ込みながらも成績が悪く、明治十一年頃にはストップせざるを得ない状態に陥っていました。浅野は早くから日本の工業におけるセメント事業の将来性に目をつけ、何度も渋沢栄一を口説きました。しかし渋沢は最初は「セメントをやるより、儲かる紡績(糸を作る産業)をやれ」と勧めました。
ところが浅野は「お金は山から掘り出すか、海からすくい上げるものだ。でなければ外国から取ってくるものだ(モノづくりで世界と勝負するべきだ)」と譲りませんでした。そうしてついに明治十六年、深川のセメント工場を政府から買い取ることに成功します。その後これを会社にするにあたり、強力なお金のスポンサーとしてガッチリと手を組んだのが、あの安田善次郎だったのです。

死ぬまで挑戦し続けた猛烈人生
その後も浅野は、船(汽船)、水力発電、石油など、数多くの新しい事業を立ち上げていきます。そのすべてが、彼独特の考え方に基づいており、また彼自身も「自分は一人の労働者である」というスタンスを決して崩しませんでした。
「天洋丸」「地洋丸」「春洋丸」といった巨大な船を造って「東洋汽船」という会社を立ち上げた時も、さすがの浅野も大赤字に悩まされました。浅野だからこそ何百万円もの赤字を出し続けても「海運業とはこういうものだ」とビクともしませんでしたが、おまけに「地洋丸」は香港の沖合で座礁して沈没してしまいます。
彼は自ら船を造る事業を立ち上げ、あるいは東京湾に大きな港を作る計画も立てました。第一次世界大戦の後は、ドイツの賠償船として当時誰も引き取り手がなかった日本一の巨大船(後の大洋丸)を、当時の大蔵大臣から勧められて即座に引き受けたりもしました。
そして、その巨大な船にスポンサーの安田善次郎を乗せて、香港にあるセメント工場の視察に出かけた時のことです。工場へ着くといきなり原料の倉庫や貯蔵庫に潜り込み、泥だらけの洋服のまま、初めてそこの工場長に挨拶に行きました。安田もその凄まじい熱心さに驚きましたが、工場の技師長も「これこそ立派な東洋のセメント王だ!」と舌を巻いたといいます。
しかし昭和四年、アメリカのウォール街で起きた大暴落から世界的な「経済恐慌」の波が押し寄せます。それは昭和二年の銀行パニックよりもさらに深刻で、浅野の事業にも大きな影響を与え始めました。彼は浅野セメントのほかにも、二十六の会社の社長と十数の会社の顧問を兼ねていましたが、なんとかしてこの大ピンチを乗り切ろうと、なんと病気の体を引きずって海外の経済視察へ飛び立ちました。
帰国後、病気でベッドに寝たきりになってもなお事業のことを思い続け、「石炭から油が出るぞ!」と叫びながら死んでいったといいます。
時に昭和五年(一九三〇)十一月九日、行年八十三歳。新しく生まれ変わった明治の日本が産んだ、あまりにも偉大でパワフルな実業家の一生でした。


