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浅野総一郎の生涯|どん底からセメント王になった実業家の生涯

浅野総一郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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大正十二年(1923年)十二月。東京・丸の内の日本工業倶楽部、二階の大広間で、浅野セメント会社の株主総会が開かれました。

正面の重役席には、渋沢、安田、大川、尾高といった顔ぶれがずらりと並んでいます。第一次世界大戦のあと、セメント業界はかつてない好景気。出席した株主は二百五十人ほどで、会場は満員でした。

議長の浅野総一郎が、おもむろに立ち上がって開会を告げます。

「皆さん、本日はお寒いのにご苦労さんでございました。貸借対照表も財産目録も損益計算書も、ただ今お手元にお配りしたとおりで、ご異議ないものと存じます」

すると一人の株主が立って、注意しました。利益の分け方を承認する前に、営業の経過と将来の見込みを説明するのが順序でしょう、と。議長は朗らかにうなずきました。

「実は総会が終わってから、今日までの苦心や将来の見込みをお話しするつもりでしたが、ただ今のご請求ですから申し上げます。今度も一割か二割五分くらいの配当にしようかと思ったのですが、奮発して三割にしました。この不景気に三割は贅沢だと思われるかもしれません。しかしこれは、戦争で儲けたとか何で儲けたとかいうものではない。大正五年以来、大拡張を計画して十分に見込みを立てておいたのが、今日の利益になったのです。わが社は一社で六百十万樽を作るのに、ほかの二十あまりの会社は全部合わせても四百万樽しか作れない。つまりわが社は、数量で儲けたうえに、経済の上でも儲けている。原料の山も、百年二百年掘ってもなくならないほど安い山をたくさん持っている。株主の皆さんも、今日株が百円を超えたからといって、すぐ売るのはまだ早い。今に三百円になります——私が生きてさえいれば、必ずそういう時代を近いうちにこしらえてお目にかけますから、それまで安心して、売らないほうがよろしい」

こう言って、満場の株主をやんやと沸かせたのです。

浅野総一郎(あさの そういちろう)。「セメント王」と呼ばれ、仕事が飯より好きだった人でした。

 

※注:この記事は昭和11年(1936年)刊の底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』)を訳したものです。底本は徳富蘇峰の評を引いていますが、蘇峰の文章は著作権が存続しているため、この記事では要旨にとどめました。株主総会の議長の言葉は底本が記すもので、話し言葉の調子をそのまま訳しています。

 

非凡なる脱線人物

 

徳富蘇峰(とくとみ そほう)は、かつて浅野総一郎を「非凡なる脱線的人物」と評したことがあります。

その趣旨はこうです。浅野は事業にのめり込む人である。碁に狂った人が碁盤に向かうと食事の時間も忘れて打ち続けるように、仕事が飯より好きな人だ。浅野の本領は、つねに仕事を主とし利益を従として、休むことなく励み、一生の努力を仕事に捧げるところにある。子や孫のために財産を残すことなど、浅野にとってはついでにすぎない。こう言うと浅野はいかにも常軌を外れた人物のようだが、実はその外れたところこそが非凡なのであって、外れていなかったら、浅野もただの平凡な人物だっただろう——。

浅野と言えば、必ず安田善次郎(やすだ ぜんじろう)の名が引き合いに出されます。たしかに安田があってこその浅野でした。しかし安田のほうも、一億という莫大な金を無造作に貸せる相手は浅野しかいない、と信じていたようです。なにしろ、その安田善次郎を刺した朝日平吾(あさひ へいご)でさえ、「浅野には歯が立たん」と言っていたと伝えられます。

 

※注:安田善次郎は大正十年(1921年)九月、大磯の別邸で朝日平吾に刺されて亡くなりました。底本の「一億」は当時の金額で、現在の価値に換算するのは物差しによって大きく変わるため、そのまま記しました。

 

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浅野の議長振り

 

「議長ッ!」——少しにらみの利く株主から株主総会でこう鋭く浴びせられると、たいていの議長はぎくりとするものです。けれども浅野だけは違いました。冒頭の総会の場面が、それをよく物語っています。

浅野の説明のあと、その株主は、ここは一つ社長の機嫌をとっておこうという気持ちから、蛇足を加えました。「社長のご説明を承って、すっかり安心いたしました。ところで、ただ今のお話の中に『自分が生きてさえいれば』というお言葉がありました。ぜひとも百歳までご長寿で、事業のため国家のために尽くされますよう、お祈りいたします」

浅野はますます上機嫌になって、すかさず答えました。

「この仕事は、俺が生きていなければ誰にもできない仕事ですから、言われるまでもなく、百歳以上まで生きます。亡くなった安田善次郎さんは、よく『人の盛りは八十、九十。六十、七十は洟垂れ(はなたれ)小僧だ』と言われましたが、俺は今年七十七歳。ほんの洟垂れ小僧ですから、まだまだ死ぬような年ではありません」

なんとも和やかな株主総会で、株主一同の拍手喝采のうちに閉会となりました。この受け答えは、彼が意識せずに人の心をつかむ極意を身につけていたことの証拠であると同時に、事業に対してどれほど自信を持っていたかを物語っています。

 

 

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素寒貧から一儲け

 

浅野は若いころ、ずいぶん苦労をしました。いろいろな商売にも手を出しています。

嘉永元年(1848年)三月十日、富山県氷見郡薮田村(現在の氷見市)に生まれ、いったん氷見町の医者の家に養子に出されましたが、実の父・泰順(たいじゅん)が亡くなると実家に戻りました。金貸しから担保なしで三百両を借りて物産会社を起こしたものの失敗し、郷里を逃げ出して初めて東京の土を踏んだのが、明治四年(1871年)、二十四歳のときです。

はじめは万世橋やお茶の水の道端で、砂糖水を売りました。そのころ、まだ氷水はありません。一杯一銭の「冷っこい屋」です。住吉町の粗末な家に住み、大塚屋の大熊良三と名乗っていました。世をしのぶ仮の名です。次には横浜で醤油屋の小僧になり、竹の皮売りになって天秤棒も担ぎました。だんだん調子が出てきて、妻をもらい、石炭の小さな商いもして六百円の金を儲けます。しかし間もなく強盗に襲われ、火事にもあって、また無一文に戻りました。

ちょうどそのころ、維新の政治的な大変革がようやく落ち着き、産業が大きく発展していく見通しが開けはじめていました。深川に、小さいながら近代的なセメント製造所ができます。技師長は宇都宮三郎(うつのみや さぶろう)、日本で最初のセメント技師です。その下に鈴木儀六(すずき ぎろく)という技師がいて、浅野は彼と顔見知りでした。

石炭を扱っていた浅野は、当時ガス局がコークス(石炭を蒸し焼きにした燃料)の処分に困っていることを知っていました。そこでセメント工場に鈴木を訪ね、何とか廃物を利用する方法はないかと相談します。「外国では燃料にコークスを使っているそうだが、日本ではまだコークスという物さえ知られていない」というのが鈴木の答えでした。ともかく技師長と相談してみようという話になり、その結果、セメントを焼くには高い無煙炭を使わなくても、安いコークスで十分な火力が出せることがわかったのです。浅野はさっそく横浜のガス局へ行き、数千トンのコークスを一トン五十銭という安値で買い占めました。明治七年(1874年)のことです。

一方、明治十年には西南戦争が始まりました。全国の汽船が軍用に徴発され、石炭の値段がどんどん上がります。このころ浅野が、若手の実業家として名を上げつつあった渋沢栄一(しぶさわ えいいち)に見込まれたのも、幸運の一つでした。彼はそれを十分に生かしてまとまった資金を作り、陸路をはるばる長崎まで飛んで行って、石炭を買い占めます。激しい買い占め競争で一トン二、三十円に跳ね上がった石炭でも、横浜に運べば一万斤九十円という大暴騰。しかもそれが、あっという間に売り切れました。浅野は一挙に数万円の巨利を手にしたのです。

 

※注:浅野総一郎の実家は薮田村の医家で、父は浅野泰順といいます。上京前に富山や氷見で商売に失敗を重ねたことは、浅野自身の回想にも記されています。宇都宮三郎は日本で最初にセメントの製造に成功した化学技術者で、深川の官営セメント工場の技術を指導した人です。

 

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セメント王浅野

 

世間は浅野総一郎を「セメント王」と呼びます。しかしその王座につくまで、彼は浮き沈みの激しい前半生を闘い抜いてきました。そして「一日に四時間以上寝ると馬鹿になる」と言って、死ぬまで働き通したのです。

深川のセメント工場は、釜石の鉱山や兵庫の造船所と同じく、政府が経営する事業でした。しかし巨額の費用をつぎ込みながら成績が上がらず、明治十一年(1878年)ごろには、もはや操業を止めるほかない状態に追い込まれていました。

浅野は早くから、日本の工業にとってセメントが将来大事になると見抜き、たびたび渋沢を口説いています。渋沢ははじめ「セメントより紡績をやれ」と勧めました。浅野はかえって「金は山から掘り出すか海からすくえ。さもなくば外国人から取れ」と主張します。そしてついに明治十六年(1883年)、深川セメント工場の払い下げを受けました。のちにこれを合資会社にするにあたって、資金の後ろ盾として安田善次郎と固く手を握ったのです。以後、東洋汽船、水力電気、石油など数々の事業を起こし経営するときも、すべて彼独自の考えにもとづき、自分自身を一人の労働者と考えて働きました。

さすがの浅野も、東洋汽船の経営にはさんざん悩まされました。天洋丸、地洋丸、春洋丸といった巨船を造って、合計百万円の損失を出し続け、おまけに地洋丸は香港沖で座礁して失われます。それでも彼は「浅野あっての海運業だ」とばかりに動じませんでした。自ら造船業を起こし、東京湾の築港を企てます。第一次世界大戦のあと、ドイツからの賠償船として引き受け手のなかった日本一の巨船——のちの大洋丸——を、時の大蔵大臣・高橋是清(たかはし これきよ)に「君でなければあの船を動かせる者は日本にいない」と勧められると、その場で引き受けました。

 

浅野総一郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

そしてその船に安田善次郎を乗せて、香港のグリーン・アイランドにあるセメント工場を視察に出かけます。工場に着くと、いきなり原料倉庫や貯蔵場にもぐり込み、泥だらけの洋服のまま、初めてそこの技師長に会いました。安田もその熱心さに驚きましたが、技師長はさらに「これこそ東洋のセメント王だ」と舌を巻いたのです。

しかし昭和四年(1929年)、ニューヨーク・ウォール街の株の大暴落から始まった世界恐慌の波は、日清・日露・第一次世界大戦後の好景気で伸びてきた浅野の事業にも及びました。彼は浅野セメントのほかに二十六の会社の社長と十数社の相談役・顧問を兼ねていましたが、何とかこの恐慌を乗り切ろうと、海外の経済界を視察する旅に出ます。その途中で病を得て、帰国しました。臨終の床でも事業のことを思い、「石炭からは油が出るぞ」と言いながら息を引き取ったといいます。新しい明治が生んだこの偉大な産業資本家は、昭和五年(1930年)十一月九日、八十三歳で世を去りました。

 

※注:浅野は明治十七年(1884年)に深川の官営セメント工場の払い下げを受け、これが浅野セメント(現在の太平洋セメントの源流)となりました。資料によっては、明治十六年に払い下げの話が決まり、翌年に引き渡されたとされます。東洋汽船は明治二十九年の創立で、天洋丸・地洋丸・春洋丸はいずれも太平洋航路の大型客船です。地洋丸は大正五年(1916年)に香港沖で座礁して失われました。浅野は京浜工業地帯の埋め立てにも力を注ぎ、鶴見・川崎の臨海工業地帯の生みの親とされます。底本の「行年八十三」は数え年で、満年齢では八十二歳でした。

 

 

浅野総一郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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