はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
だれもが知るこの歌を詠んだ人は、二十六年しか生きませんでした。石川啄木(いしかわ たくぼく)。その短い一生は、貧しさと病と、そして自分の歌をめぐる戦いの連続でした。
天稟(てんぴん)の文才
仰げば秀峰・南部富士(岩手山)がそびえて雲をかすめ、望めば清流・北上川(きたかみがわ)が帯のように流れる。盛岡から北へ四、五里、木々のあいだにカッコウの鳴くところ、渋民村(しぶたみむら:現在の岩手県盛岡市玉山区渋民)が、石川啄木の育った村です。明治十九年(1886年)二月二十日、彼は村の貧しい寺・宝徳寺(ほうとくじ)の子として生まれました。本名は一(はじめ)といいます。
大形の被布(ひふ)の模様の赤き花
今も目に見ゆ
六歳の日の恋
啄木自身、幼いころをふり返ってこう歌っています。実に生き生きとした自己表現で、彼は生まれながらに、血潮のほとばしるような熱情家でした。盛岡中学にいるころから、その非凡な文才は彼をしきりに駆り立て、ますます純情多感な夢想家にしていきます。そのころ中学には文学の団体ができていて、啄木もそれに加わっていましたが、よく仲間とけんかをしました。彼のほとばしるような意気と不屈の態度が仲間の憎しみを買い、いつもそれが原因でした。けれども仲間たちは、それでいて啄木をのけ者にはしませんでした。啄木の持つ天才のひらめきに一種の魅力を感じ、圧倒されていたからです。
明治三十五年(1902年)の秋、そのころすでに雑誌『明星(みょうじょう)』に歌が載りはじめていた啄木は、田舎の中学にじっとしていることが耐えられなくなり、ついに大きな望みを抱いて上京しました。ロマン主義の全盛の時代で、啄木はまだ中学五年、わずか十七歳の少年でした。上京すると、姉崎嘲風(あねさき ちょうふう)、上田敏(うえだ びん)、与謝野鉄幹(よさの てっかん)らをはじめ若い歌人や詩人と交わりはじめ、早くも文壇に向かって、さっそうと走り出したのです。まさに驚くべき天才というべきでしょう。またそのころ彼は、ワーグナーの歌劇『白鳥の騎士(ローエングリン)』の英訳本を辞書と首っぴきで読んでいました。評論家・高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)の論に傾倒したのも、このころです。
けれども、あこがれた都会の暮らしも、生活の苦しさと病のために思うにまかせず、彼はまもなく故郷に帰らなければなりませんでした。上京した翌年の明治三十六年(1903年)のことです。

村を愛し村に反く
明治三十七年(1904年)の秋、北海道を旅したあと、啄木はふたたび東京の人となり、翌年、二十歳で処女詩集『あこがれ』ができあがりました。けれども生活の道に困って、また渋民村へ帰っていきます。そしてその年の六月、長年の恋人・堀合節子(ほりあい せつこ)と結婚し、盛岡に出てささやかな家庭を持ちました。表から見れば、このときが啄木の生涯でいちばん幸せな時期だったでしょう。それもわずか半年あまりで、翌年の三月には、まだ深い雪を分けて、彼はまた渋民村へ引き上げざるをえませんでした。
渋民村に帰ると、村の小学校に代用教員(だいようきょういん:資格のない臨時の教員)として勤めましたが、そこにも長く落ち着くことはできませんでした。彼の性格が人並みはずれていて、才能があまりにも非凡だったために、よどんだ古い習わしや平凡な人々の圧迫が、どこへ行っても彼を迫害するのです。その反面には、啄木のお金に対する無頓着さや、人を見下すような性格が、常識の世界を悩ませたのも事実でしょう。村の事情にからんで小学生のストライキが起こり、啄木は校長と衝突して、理解のない村人の反感を買いました。そしてついに、村を愛しながら村に背き、村を去らなければならなかったのです。
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
これは、そのころのことを歌ったものでしょう。一家は離散し、両親、妻子はちりぢりになって、悲惨な流浪の暮らしがここに始まりました。教員をやめたのが明治四十年(1907年)の四月、五月には北海道に渡っていました。函館、小樽、釧路、札幌などの小さな新聞社を、彼は貧しさと戦いながら転々と渡り歩きます。函館では商業会議所の雇いになったり、小学校の代用教員もしました。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
啄木の行くところ、貧乏は生涯ついて回りました。釧路では二十三歳の若さで新聞の編集長をつとめたりもしましたが、当時巻き起こった自然主義の運動にいち早く共鳴すると、矢も盾もたまらなくなって、たちまち上京してしまいました。こうして流浪の地・北海道を去ってきた彼は、そのころから思想の面でも非常に深まり、その歌も炎のように燃えていきました。芸術の上で、彼はもうあの外面のかざりも、かつての感傷主義もかなぐり捨てていたのです。
数編の小説を書き上げましたが思うように買ってもらえず、盛岡の老いた父母や妻子には飢えが迫り、そして自分も飢えと戦っている。こうした現実が、非凡な才能と激しやすい感情を持つ彼を、必然的に深刻な思想へ向かわせたのでしょう。
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
故郷の父母と妻子の上に激情を走らせ、わが身の貧しさをかこちながら、しかし彼は、果敢に現実と戦い抜いていったのです。

生活派短歌の先駆者
かつての啄木は、単にロマン派の詩人、あるいは情熱の歌人として、その非凡な文才をふるっていたにすぎませんでした。それが、現実の暮らしの苦しみによって、彼の目を外へ向かって開かせたのです。啄木の思想の自覚は、芸術至上主義の殻を破って、人生本位の態度へと変わっていきました。国家や社会や生活の問題から逃げて、むしろ自堕落な生き方をすることが文士の特権であり誇りでもあるかのようだった当時の周囲に対して、啄木の激情と気概は鋭く反発していきました。彼は、かつての『明星』流の、ただ甘く絢爛(けんらん)とかざり立てた歌風を捨て、日常の暮らしの現実を、ますます生き生きと歌うようになったのです。それがいわゆる「生活派短歌」で、歌を三行に区切って書くことも、彼の始めたものでした。
人生を風流と見ていた人々は、この啄木の態度を見て、たちまち驚きました。いや、驚きではなく、それは非難であり排撃であり攻撃でした。啄木はその圧迫のなかで、敢然として節を曲げませんでした。信念を捨てようとはしませんでした。ほとばしる情熱と鋭い観察とをもって、ますます深く現実の中へ食いこんでいったのです。彼自身にとっては芸術と思想の大きな転換の過程であり、外から見れば、圧迫される者としてもっとも苦しい時期だったでしょう。
けれども、時代の波は、そうした状態のすぐあとに押し寄せてきていました。民衆の心を代弁したその歌を迎えて、続々と共鳴する人が現れるに至ったのです。啄木が逆境に苦闘しながら演じたこの役割こそ、明治の短歌革命でした。彼のような非凡な天才にしてはじめてなしえた業績であり、それは明治の文壇にとって大きな貢献でした。

厳粛な一面
思想の上でも暮らしの上でも、彼ほど苦しんだ者は少ないでしょう。その苦しみが、啄木をあれほどの大きな人間に磨き上げたのだとも言えます。
わが抱く思想はすべて
金なきに因(いん)するごとし
秋の風吹く
という歌は、まさにその真実をつかんでいます。
いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが来しかたのをかしく悲し
とも歌っています。何度か死を思いつめたのも彼の真実であり、しかも死ねなかったのも彼の真実です。実に彼の一生は、うそのない一生でした。裸になって自分を見つめ、社会の現実をじっと見つめている。彼は生涯を命がけで生き通した詩人です。
けれども彼は、下品でも放縦でもありませんでした。ある夏の日のこと、客を迎えた彼は、うちわを使いながら、しかもきちんと袷(あわせ:裏地のついた着物)を着ていました。単衣(ひとえ:夏の薄い着物)がなかったのです。夏のことですから、裸で客に会うことも許されたかもしれません。けれども彼はそれを望みませんでした。この一事にもうかがえるように、彼の暮らしの態度には、一面、非常に厳粛なものがあったのです。

晩年
明治四十二年(1909年)三月、彼は東京朝日新聞に校正係として入社し、いくらか暮らしの落ち着きを得ました。朝日新聞に歌壇ができてその選者をするようになったのは翌年の九月で、十二月には第一歌集『一握の砂(いちあくのすな)』を出版しました。明治四十三年の後半ごろから、歌壇の中心は若山牧水(わかやま ぼくすい)、前田夕暮(まえだ ゆうぐれ)を離れて、啄木の時代に入ろうとしていました。彼の苦闘が、ようやく報われてきたのです。
けれども惜しいことに、苦闘に疲れた啄木の体は、その全盛期を前にして肺の病におかされ、明治四十五年(1912年)四月十三日、彼はあの激しい熱情で苦境のなかを戦い抜いてきた二十七歳(満二十六歳)の生涯を終えました。第二歌集『悲しき玩具(かなしきがんぐ)』は、死ぬ数日前に出版の話がまとまり、死後、友人たちの手で世に出ました。
高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか
この歌のように、彼の生涯は一本調子で、妥協のないものでした。二十七年の短い生涯でしたが、そのあいだに一つの詩集、二つの歌集のほか、小説や評論を数多く残し、底本が書かれた当時、啄木全集三巻をなしていました。
故郷の思い出、故郷の風物、故郷への思いを歌った歌の非常に多かった彼の記念として、南部富士を背に、北上川の清流を見下ろす場所に碑が建てられました。
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
これが、碑に刻まれた望郷の歌です。


