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上杉慎吉の生涯|美濃部達吉と「天皇機関説」で激突した憲法学者の実像

上杉慎吉の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「真理はもとより二つ以上存在することあたわず。同一の事物について二様の見解あらば、もしその一にして真ならば、他は必ずや偽ならざるべからず」

大正元年(1912年)、一人の憲法学者が雑誌『太陽』でそう書き、同じ東京帝大の美濃部達吉に論戦を挑みました。天皇は国家の機関か、それとも主権者か。年余にわたって鎬(しのぎ)を削ったこの争いの一方の主、上杉慎吉(うえすぎ しんきち)は、書斎にこもる学者ではなく、街頭に出て普通選挙を叫ぶ実行家でもありました。

 

実行家肌の傑物

わが国における普通選挙の制度は、時勢の動きのしからしむるところがあってこそ必然的にその成立を見たのですが、しかしそれまでの約十年間、断続して行われた普選運動の尽くしたところもまた大きかったことはもちろんです。憲法学者として声名の高かった上杉慎吉も、その一人でした。大正五年(1916年)の冬、彼は「建国の精神に還って国民の政治的総動員を行い、もって国難に当たるべし」と叫んで普選の断行を主張し、これを元老または当局に進言しています。彼はこの普選運動中、たまたま高畠素之(たかばたけ もとゆき)と相知るところとなりましたが、その高畠の所論に大いに共鳴し、経綸学盟を組織し、かたわら街頭に出て、愛国の名のもとに無産青年の結束を勧め説きました。大正十四年、普選の成立とともに、口に筆に、普選は億兆一心、君民合致をもって精神とすると力説し、全国にわたって講演すること実に八十余回に及び、また一方、帝大学内に吉野作造を顧問とする社会主義的な青年学生によって新人会が組織されるや、それに対抗して右翼的な学生によって七生社が同盟され、忠君愛国の大旗を掲げたときなど、彼は床次竹二郎(とこなみ たけじろう)とともに七生社の指導者として立ち、大いに奮闘するところがありました。書斎的になりがちな学界の人としては、彼はまれに見る実行家肌の学者だったのです。

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穂積博士に嘱目さる

上杉慎吉は明治十一年(1878年)、福井の藩医の家柄に生まれました。幼時から書を好み、中学時代には早くも本居宣長の『古事記伝』、平田篤胤の古道論、頼山陽の『日本外史』『日本政記』の類を読み、水戸の大義名分論に没頭し、自ら志士をもって任じていました。そして英語がはじめて課せられたとき、「僕は夷狄(いてき:外国人を見下した言い方)の文字は学ばぬ」と尊皇攘夷の見地から強情を言い張って、英語教師を唖然とさせたといいます。しかし一面には文学青年的な傾向も濃厚で、詩や小説を耽読し、自分でも書き、また盛んに俳句、和歌、漢詩なども作りました。後年の論文、演説などに認められる漢文的な格調と語彙の豊富とは、このときに培われたものです。

明治三十一年(1898年)、金沢の四高を終えると、医業を継がせようとした父の意に逆らって東大の政治科に入学しましたが、病を得ていったん休学し、三十三年にふたたび上京しました。東大教授穂積八束(ほづみ やつか)博士が人を介して彼に面会を求めたのは、その年の九月です。おそらく六月の第一回試験の成績が抜群で、博士の注目を引いたのでしょう。しかし彼は教授のもとに赴くのをあまり潔しとせず、数度の招きののちようやく出かけていきましたが、博士に対しては初対面から不遜の態度を持していました。これは当時の政党主義者が博士を指して、官僚政治を支持する曲学阿世(きょくがくあせい:真理を曲げて世におもねること)の徒と罵倒していたので、その自由主義的な傾向に感染していたからです。しかし博士は、この狷介不羈(けんかいふき:頑固で人に縛られない)の田舎書生に対して慈父のような温情を示し、自邸付近に新築した別邸に、博士の親族との同居を求めました。以後三年間、大学を終えるまで彼はその家に寄寓しましたが、その生活はかなり乱暴で、自ら「放蕩無頼」あるいは「不良青年」と言っているように、酒を痛飲しては横になり、目が覚めれば博士のもとに押しかけていって議論を吹っかけるという風でした。

「予は常に本性を露わし、きわめて粗暴に、はなはだ端直に先生の憲法説を批評し、自家の所信を述べたり。これに対して先生もまたすこぶる激烈に対抗せられ、常にいずれが師いずれが弟なるかを弁ぜず。予、熱して先生のゴマカシ論と罵れば、先生も大笑してまた君の桁外れかと言わるる有様にて、このときにおける先生の理論の精妙、論法の鋭利なる、日常の講義演説におけるの比にあらず。しこうして予はただ怒号してこれに当たれるのみ」

と、彼は当時を追懐しています。当時東大ではドイツから新帰朝した一木喜徳郎(いちき きとくろう)博士が国法学を講じていましたが、彼はむしろこれに傾倒し、ドイツ流の憲法学説の熱烈な信奉者となったので、学問的には穂積博士と反対の立場にいたのです。こうして彼は明治三十六年に大学を終えましたが、就職や暮らしのことなどはいっこう眼中になく悠然と構えていると、ある日、穂積博士が彼を呼び、将来の方針についての意向をたずねました。

「僕は目下のところ、そうした些事はあまり重大視しておりません」

と彼がうそぶくと、博士も、

「それもまた一案だね」

と哄笑(こうしょう)したといいます。それから数日後、今度は一木博士が彼を呼び、大学に残らぬか、と勧めました。一木博士は彼にかねてから嘱目して、自分の学説の後継者にしようと考えていたのです。それを聞くと彼は意が大いに動き、はじめて一生を学問に捧げる決心をしたのですが、いちおうこれを穂積博士に相談したところ、「大学教授などは薄給で、英邁の士のいるところではない」と、軽々しい進退をいましめられたといいます。こうした経緯ののち、彼は母校の助教授に任じられ、憲法講座を担任することになりましたが、穂積博士に対しては少しも志を改めず、努めてその学説を排撃していました。

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学説の転換

明治三十九年(1906年)、彼は私費洋行の途につき、三年の留学を終えて明治四十二年に帰朝しましたが、そのとき彼は従来の天皇機関説を投げ捨てて、天皇主権説を支持する熱烈な日本主義者に変貌していました。この大転回について、彼は次のように語っています。

「帰朝したる予は別人として先生(穂積博士)に見えたり。西遊留学の間、予は深くわが国体の万国無比なるを感じ、建国の基礎世界に倫(たぐい)なく、国史の発展またまったく異なるの日本にありては、国家の基礎法たる憲法の本質もまた彼と異なるものなかるべからずとなし、帝国国体の明確なる認識と強固なる尊王の信念とは日本憲法研究の根本たるべしとするの、動かすべからざるの確信を懐抱して、三年を経て先生を見る予が心中の愉快はたして幾何ぞや」

こうして彼は学説的にも人間的にも穂積博士と切っても切れない結びつきを形成しました。一方、一木博士としては、自分の愛弟子として助教授にまで推薦した彼が、外国留学を終えるや自分の論敵たる穂積博士の後継者となったのですから、その失望はさこそと思われます。

彼は同じ年に博士となり、大正元年(1912年)、教授に昇進しました。彼が、一木博士の系統を継ぐ美濃部博士と憲法学をめぐって大論戦の火蓋を切ったのも、この年です。当時彼は『帝国憲法講義』の一著を公にしましたが、ほとんど時を同じくして美濃部博士もまた『憲法講話』を上梓し、はからずも二つの対立した学説が著述に形をかりてその是非を争うことになりました。「この両著を読み比べて吟味することをしない者は、太刀山と駒ヶ嶽の取組のある日に国技館に走らない者を相撲狂といえないのと同様、公法学に忠なる者ということはできない」と穂積博士も感想をもらしたように、両著ともに敵論の打破を意図して書かれたもので、美濃部博士はその序文に、「専門学者にして憲法のことを論ずる者のあいだにすらも、なお言を国体に藉(か)りてひたすら専政的の思想を鼓吹し云々」と、冒頭から暗に上杉博士を攻撃しているのです。

論戦は、美濃部博士が上杉博士の著述を『国家学会雑誌』で論難したことからはじめられました。上杉博士もただちに『太陽』によって応戦し、「真理はもとより二つ以上存在することあたわず。同一の事物について二様の見解あらば、もしその一にして真ならば、他は必ずや偽ならざるべからず」といった激しい筆法で美濃部博士の解説を根本的に非なりとして逆襲し、以後、年余にわたって鎬を削って血戦を続けたのです。

上杉博士は、法律学的には国家に体制意志が存在し、この体制意志を認識し具現するものが主権者であって、日本国家にあっては天皇であると説きました。博士にしたがえば、体制意志とは各人を一体に規律組織する意志です。体制意志は各人の意志の集積総和ではない。有機的に存在する唯一の全体的意志である。すなわち体制意志が主権または統治権であって、天皇は体制意志を認識し決定し具現する理想的資格を有したまう、と述べて天皇主権説を主張し、いかなる意味においても国家法人説を排撃しました。これに対し美濃部博士は、国家は一の団体であり、法律上の見地においてはその団体自身が統治の主体であり、君主国であっても君主自身が統治権の主体と見るべきものでなく、君主は国家の最高機関である、と主張しました。両博士ともに自説を堅く持して譲りませんでした。

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晩年なお勃々たる壮志

しかし民主主義思想がようやく一世を風靡するにつれて、日本主義のために万丈の気を吐いた上杉博士の主張も、大勢日に非にして、学界のみならず世間からも反動的な主張として顧みられなくなってきました。しかし彼はいささかも屈せず、国体の明徴(めいちょう:はっきりさせること)を叫び、まず桐花会を同盟して戦いました。昭和四年(1929年)、病を得て、五十二歳をもってふたたび起ちませんでしたが、死の病床においてもなお勃々たる壮心を示し、再起のあかつきには帝大教授を辞して政治運動に専念する決心をもらしていたといわれます。なお若干の寿命が貸されたなら、満洲事変以後の時局の中心人物として大いに働くところがあったであろう、と底本の『日本英雄伝』は推し量っています。著述には『国家論』『帝国憲法』などの力作があり、そのほか各雑誌に発表した論稿は三十余編に及んでいますが、彼の没後、これを一括して『日の本』と題して上梓されました。余技としては随筆をよくし、その簡潔奇抜な筆調は読書人を喜ばせましたが、それはいずれも日本主義的な立場からものされたものでした。

夷狄の文字は学ばぬと言った中学生が、恩師の家で酒を飲んで議論を吹っかけ、留学から帰って恩師の側に回り、かつての師の弟子と血戦した。この人の学説は、その後の歴史のなかで重い役割を負うことになります。けれども、学者が街頭に立って普通選挙を叫んだという一事は、学説の当否とは別に、記憶されてよいことでしょう。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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