「これで仏教界には円い人がいなくなって、四角の人ばかりになった。何となく寂しい感じがする」
大正七年(1918年)にこの人が亡くなったとき、誰かがそう言いました。顔が丸く、体も丸く、学識も識見も人格もオールラウンド。仏教演説を日本にはじめて持ちこみ、盲唖学校を作り、新聞を興し、印刷会社を創立し、禅の語録を講じ、新内を語り、人力車を降りるたびに車夫に礼を言った人。大内青巒(おおうち せいらん)の生涯です。
仏教演説の先駆者
「演説をすると目がくらむ」。これははじめて演壇に立った者が誰しも経験するところです。目がくらんで、喉がかわいて、自分で自分が何をしゃべっているのか分からなくなってしまう。それが場数を踏むにしたがって聴衆の様子も分かり、当意即妙のユーモアまで飛び出すようになるのですが、明治初年、日本人がまだあまり演説などをやらない時分には、一般に「演説をすると目がくらむ」と、壇上に立つことを迷信的に怖がっていたものです。そういう時代にあって、大内青巒は早くも演説ということに非常な注意と興味とを集中していました。明治七年(1874年)に彼は、小野梓や井上毅や矢野文雄などとともに「共存同衆」という団体を組織しましたが、これは要するに西洋文化の攻究とともに演説の研究をもやろうという、いわば一種の雄弁術研究会でした。そして結局するところ、この会員たちが日本における演説の先駆者となったのです。
ところで、青巒がこの雄弁をもって世に乗り出したのは、何であったかといえば仏教演説でした。それまでは高座の上から爺さん婆さんに放送されていた説法、それががぜん形式を変えて、演壇の上から演説ということとなったのです。世間のものは驚いたり珍しがったり感心したりしましたが、その結果、仏教演説はたちまち非常な流行を来し、大内青巒といえばまず仏教演説を思い出すというようになってしまいました。そのころ、青巒門下には仏教演説の四天王というのがありました。それは土宜法龍(どき ほうりゅう)、平松理英、佐治実然、守本文静の四人でした。加藤咄堂(とつどう)なども、やはり青巒の門下生として仏教演説を伝授された一人でしたが、この人が雄弁をもって聞こえるようになったのはずっとのちのことであって、そのころは訥堂と号して、弁舌はあまり振るいませんでした。

円い人
大内青巒が亡くなったとき、誰かが次のような感想を述べています。
「これで仏教界には円い人がいなくなって、四角の人ばかりになった。何となく寂しい感じがする」
これは実にうまい言い方だと思います。青巒なきあとの仏教界が「四角な人」ばかりであったかどうかはさておき、青巒を「円い人」といったのは、実に当を得た言葉でしょう。彼はまず顔が丸く太っていて、いかにも円満そうに見えました。体も肥満していて背が低く見えました。自身では普通の高さはあると威張っていましたが、やはり背の低く見えることが気になると見えて、あのころの流行の表つきの桐下駄もなるべく高いのを履いていました。それがますますおかしく、また円満に見えたものです。だが青巒の人物はその体よりももっと円満でした。学識からいっても、識見からいっても、人格からいっても、オールラウンドな人物でした。だからその一生の業績を見ても、やはり円さがはっきりと出ています。
先には彼の仏教演説のことを書きましたが、彼のやった仕事は決して仏教演説ばかりではありませんでした。彼は教育事業の方面でも相当のことをしています。社会事業の方面でも相当の仕事をしています。東京の盲唖学校なども青巒の力でできたものです。また新聞事業の方面でも大変な足跡を残しています。『あけぼの』や『江湖新聞』や『明教新誌』など、みな青巒の創設したものだと底本はいいます。印刷事業でもというと、いくらオールラウンドでもと思われますが、秀英舎(現在の大日本印刷)を創立し、かつその第一代の社長となったのも青巒でした。そしてその忙しいなかにも『碧巌録講話(へきがんろくこうわ)』その他立派な本も書いていますし、関係の新聞や雑誌にはいつも雄大な筆陣を張っていましたし、それでいて漢詩も作り、和歌も詠み、絵画を楽しみ、篆刻も堂々一家をなしており、折にふれては三味線で新内の一くさりもやるというに至っては、実に不可思議な「円い人」であったといわなければなりません。

尊王奉仏大同団
だが大内青巒のあらゆる方面における事業も、その眼目をなすものはやはり仏教であって、仏教のために起こした「和敬会」や「尊王奉仏大同団」などの運動が、彼の一番の大事業でもあり、また力の入れどころでもありました。「尊王奉仏大同団」というのは、国会がはじめて開かれることとなって、仏教徒のなかからもぜひ議員を出さなければならないというので、その準備のために組織されたものでしたが、いよいよ第一回の総選挙となってみると、御大の大内青巒をはじめとして全部がみごとに落選してしまったので、要するに尊王奉仏大同団の運動は失敗というのほかはありません。しかしこの運動によって得た無形の収穫には、かなり見るべきものがありました。「あれは耶蘇である。選挙すべからず」。これは選挙に対しては消極的な主張でしかありません。しかし尊王奉仏派のこの主張は、消極的ながらも非常に力強いものであって、尾崎行雄などは「自分は決して耶蘇教徒ではない」といって陳弁に努め、その証拠として急に仏壇を買いこんだという話さえ伝えられています。

仏教への因縁
大内青巒、本名は退(まかる)、弘化二年(1845年)四月、仙台藩の微禄の家に生まれましたが、幼くして父をも母をも失った薄命の児です。同藩の老臣、但木土佐(ただき とさ)の情によって育てられ、少年のころには舟山江陽という儒者の門に学ぶことができました。ところが江陽は水戸学の流れをくむ学者でしたので、いつも「学問の源流は水戸である。あそこには勤王の浪士がたくさん集まっていて、尊王攘夷論が盛んである」と水戸を礼賛していました。その言葉がいつしか少年大内退の耳にこびりつき、心をとらえてしまいました。そしてとうとう水戸に向かって出奔してしまったのです。それから青巒にはしばらく流浪の年月が続きました。だが流浪の旅に出てみると、何よりも忘れがたいのは故郷の山河です。青巒という号は、その故郷のお城、青葉城にちなんでつけたものです。流浪中にはいささか心得のある書道を教えたこともありますし、篆刻師になりすましていたこともありましたが、中山道は本庄宿の曹洞宗のある寺で出家得度を受けてからは、雲水となって全国を歩いて回りました。その行雲流水の行脚生活のうちで、本願寺の島地黙雷(しまじ もくらい)に会って意気相投じたのが因縁となって、明治五年、本願寺に迎えられて光尊法主の侍講になりました。だが彼の人物は、とうてい一宗一派の人として納まるような人物ではありませんでした。そのころ彼は、今の文部省の前身である教部省に入ることを勧められたこともありましたが、「野人、官僚を好まず」ときっぱり拒絶してしまいました。そんな人物でしたから、本願寺の禄を食んだからとて本願寺だけの人物ではありませんでした。仏教界にいるからとて仏教界だけの人物でもありませんでした。やがて彼は還俗して居士を号しました。そして外部から、仏教に対して誰も及ばない貢献をしたのです。

明治の維摩居士
大内青巒の理想とした人物は誰であるかというと、聖徳太子と維摩居士(ゆいまこじ)とでした。維摩居士というと、身を世俗において小乗出家の輩を弾呵(だんか:厳しくしかる)し、大衆を大乗の道へと導くことに努力したところの居士で、古来より在家仏教の典型的人物であるとされています。だが維摩居士なるものは要するに経典の上の架空の人物であって、これを有史上の実在の人物に求めるとすれば、わが聖徳太子こそは維摩居士において理想的に表現された在家仏教の精神を具体的に体現した人物である、と青巒は考えたのです。そこでまず「上宮教会」なるものを興して、聖徳太子によって具現された在家仏教の精神を広く世間に宣伝することをはかったのですが、なお青巒の生涯の事業を眺めてみても、また彼の日常生活を検討してみても、それらを一貫して流れているものは、要するにこの在家仏教の精神です。大内家の家憲は「ありがたい、もったいない、気の毒」の三か条でしたが、それについて青巒はいつも家族や門人たちに教えてこう言いました。
「悲しみにつけ、嬉しさにつけてはこの感謝の気持ち、他人の逆境にあるのを見てはこの同情の気持ち、その気持ちを忘れさえしなければ、君臣の義を破らず、朋友の親を欠かさず、世間百般の倫理も道徳も、ないしは仏教における八万四千の法門も、ことごとくこの気持ちのなかに溶けこんでいるのであるぞ」
したがってこの考え方はおのずから青巒の日常生活にも現れて、「あれほどの人がよくもこれほどに」といわれるほど、誰に対しても謙虚であり、また何事に対しても感謝の意があふれていました。明治の初めのことですから、底本の当時のように自動車はなく、青巒はいつも人力車を使っていましたが、人力車から降りるたびごとに、彼は必ず車夫に向かって、「ご苦労だった。わしは人並みはずれて体が太いから、挽きにくかっただろうのう」と礼を述べました。また新聞や雑誌の社長をしている時分には、自ら発送部にも出かけて「ご苦労だなあ」と感謝の言葉を述べ、自分も発送の手伝いをしながら、「送るほうは何千何百でも、受け取るほうは一人一冊だから、どうかもったいないことのないように」と教えて、帯封から切手の貼り方まで細かく注意を払ったものです。青巒の考えでは、こうした態度にこそ本当の仏教精神が生きるのだと思っていたのです。大正七年(1918年)、七十四をもって没しました。
水戸に憧れて家を飛び出した孤児は、僧になり、還俗し、演説し、新聞と印刷会社を作り、選挙に落ち、新内を語りました。「ありがたい、もったいない、気の毒」。八万四千の法門をこの三つに溶かしこんで、車夫に頭を下げ、切手の貼り方を気にした人。円い人と呼ばれたのは、そのためです。


