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大石内蔵助(大石良雄)の生涯|赤穂四十七士を率いた「昼行燈」の真実と討ち入りの全貌

大石内蔵助の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「城を枕に討ち死にいたそう」

主君刃傷の報に沸き返る赤穂城の大評定で、家老はそう言い放ちました。もちろん本心ではありません。腹はすでに決まっていました。まず弟大学による家の再興を幕府に歎願する。それがかなわなければ、吉良を討つ。その大事のために、死を賭して家中を結束させる動議でした。三百余人のうち、覚悟を決めて登城した者は六十数人。「昼行燈」と呼ばれた男、大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしお)の生涯です。

 

昼行燈

元禄の世の泰平の夢を突如として破り、その名を千載に垂れた赤穂浪士義挙の統率者大石内蔵助良雄は、万治二年(1659年)、大石良昭の子として生まれました。大石家はその祖良勝以来、浅野家に仕えて老職に列せられていました。良雄は少年のころから大儒伊藤仁斎について経書を学んでいましたが、講義を聞きながら時々居眠りをしていました。けれども仁斎は「非凡な器量を備えた少年だ。捨てておけ」と言って、その一見愚鈍に見える風貌のなかに何かしら底知れない偉大さを見抜いていたのです。良雄は兵学を人傑山鹿素行に受け、剣法を奥村権左衛門に学び、和歌俳諧から琴棋書画にまでも通じていました。しかし生まれつき寛裕であって言葉少なく、小さいことを気にしませんでした。しかも体が痩せていてあまり威厳のあるほうではなかったので、人々のあいだでちっとも重きをなしませんでした。良雄は十五歳のときに父が病没したので、十九歳で家を継いでいましたが、当時は大野九郎兵衛が藩老として時めき、藩政一切は彼の意によって処決されていたので、良雄は要職にあったけれども少しも事に与りませんでした。それで何の役にも立たないというところから、人々は彼を「昼行燈」とあだ名していたのです。

元禄七年(1694年)、浅野内匠頭は姫路の本多侯とともに備中松山城受け取りの命をこうむりました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「元禄六年」としていますが、水谷家の改易は元禄六年十月で、大石が松山城の受け取りに赴いたのは元禄七年とするのが通説です。

 

内匠頭は江戸にあって出張できないので、在国の家老大石良雄が陣代役として差し遣わされることになりました。良雄は五百人の士卒を率いて姫路侯の人数と合して松山城下に達しました。城中では水谷出羽守の家老鶴見内蔵介、高垣三左衛門らが五、六百人の同勢をもって立てこもり、上使を迎えて一決戦をなそうと意気込んでいました。このとき良雄はただ一人閉ざされた城門に至り、殺気立った城内に招かれて鶴見らと会見し、穏やかに事理正邪を説き、ついに一兵をも損じることなく城受け取りの大役を果たしました。これよりようやく良雄の名は諸国に知られて、赤穂には大石ありと言われるようになったのです。

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穏健にして逸らず

元禄十四年(1701年)三月十九日の早朝、江戸表からの早飛脚早水、萱野の両人は、幕命によって勅使接待のことにあたっていた藩主浅野長矩が、満座のなかで高家吉良義央のために辱められ、松の廊下にて刀を抜いて刃傷に及んだことを報告しました。

 

※ 底本は「元禄十五年三月十八日の夕暮れ」としていますが、刃傷は元禄十四年三月十四日で、第一の早駕籠が赤穂に着いたのは三月十九日の早朝とするのが通説です。

 

赤穂の城の内外は沸き返りました。良雄は独り黙々として一室に引きこもり、じっと思索を練っていました。そして家中総出仕の触れを回しました。十九日の早暁から家中の者は続々と登城しました。それより刻々として届く江戸からの情報に照らして家中の大評定となりました。が、議論は硬軟両派に分かれて衆議は容易にまとまりませんでした。

「城を枕に討ち死にいたそう」

と良雄は言い放ちました。それはもちろん彼の本心ではありませんでした。彼の腹はすでに定まっていました。まず第一に長矩の弟大学の跡目相続を幕府へ歎願すること、そして万一これがかなわなければ長矩の無念を継承して吉良を討つこと、これでした。しかしそうした大事の達成のためには、何としても死を賭しての家中の結束が必要でした。良雄の動議は利きすぎるほどの効を奏して、城を枕に討ち死にの覚悟を決めて登城した者は、三百有余人中わずかに六十幾人でした。

元禄十四年四月十九日、赤穂城受け取りのために乗りこんできた幕府の御目付荒木十左衛門らを城内に案内し、金の間で茶を勧めた良雄は、言葉を正して、「浅野家断絶をお救いくださるよう、大学に長矩の跡目相続のかないますように」と必死に申し入れました。幕吏も良雄の真情に動かされて、その旨を老中に伝達することを約束しました。城明け渡しも終わり、一家を伴って山城の山科に退いてからも、良雄は絶えず幕府に働きかけ、将軍家の帰依深かった護持院の僧正に手づるを求めて運動したりしていました。しかるに吉良義央へは傷の癒えしだい従前どおり出頭すべしとの恩命があったにもかかわらず、浅野大学へは十五年に至るも明確な沙汰なく、七月になって閉門解除とともに芸州の浅野家へ妻子もろとも遷居されてしまいました。ここにまったく希望を断ち切られた良雄は、武士の道徳にしたがって、みはだかる吉良を倒し、故君の霊を慰めるほかはないと深く意を決したのです。

 

※ 底本は赤穂城の受け取りを「四月十八日」としていますが、城の明け渡しは四月十九日です。

 

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韜晦(とうかい)

山科での良雄の苦心は容易なものではありませんでした。外からは吉良家ならびにその子米沢の城主上杉弾正大弼(だんじょうのだいひつ)綱憲の派遣した間諜が、あらゆる場合、あらゆるときを通じて絶えず彼の動静をうかがっています。内部では、「今は警戒が厳重で大事成就は難しい。来年の春あたりこそ」と言う自重派の同志があれば、江戸表にいる年少気鋭の連中は、「敵の用心が厳しければ斬り死にするまで。やっつけろ!」といきり立つ。一徹な老人組は、「来年までは命があるかおぼつかない。さっそく事を挙げられたい」とはやる。このあいだにあって良雄は、あるいは洛北の奥の一禅庵に同志とひそかに会って彼らを抑え導き、あるいは京の島原、伏見の撞木町に遊び戯れて、峻烈な偵察の目を欺いていました。

元禄十五年(1702年)春、良雄は妻りくを離別して、子どもとともに但馬豊岡の生家に帰らせ、胸に千万無量の思いをたたえつつ、昨日は祇園、今日は島原と、酔うては臥し、覚めてはまた飲み、あるときは白昼遊女の手を取って雑踏の街を千鳥足で歩き、あるときは評判の役者を買って遊び、ときには道路に酔い倒れて高鼾をかく。

赤穂浪人ではなうてあほう浪人大石かるく張りぬきの石

と京童たちが指さし嘲っても、馬鹿笑いで答えるばかり。伏見の遊女屋笹屋で傾城浮橋を呼んで騒いだ揚げ句、これをとらせようぞ、と懐中から小判をつかみ出してばらまくに至っては、はじめは計略と思っていた同志までも妙な疑いをもって彼を眺めるようになり、短慮の同志奥野将監などは苦諫したけれども、良雄が聞き入れる模様がないので憤然として交わりを断ち、小山源五衛門らは愛想をつかしてよそよそしく振る舞うようになりました。山科の様子をうかがっていた上杉家の間諜は、もはや心配のいらない阿呆であると見て、ぽつぽつ江戸に帰りました。良雄はこれを横目に見て、ひそかにほくそ笑んだのです。

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討ち入り前

機いよいよ熟し、彼は八月一日、備前岡山の池田家の招きに応じて岡山に下ると知り合いなどに披露し、山科を引き払いました。そして三々五々京阪方面にいる同志を江戸に先発させ、自身は十月七日、数名の同志とともに京を発して関東に向かいました。その重要物品を納めた二棹の長持には「日野家用人垣見五郎兵衛」という絵符がさがっていました。

十月二十二日、鎌倉に着いた良雄は、そこまで出迎えた吉田忠左衛門と会見し、とくと江戸の形勢を聞き諸士の動静をただして計略を談じました。そしてただちに江戸に入ればあるいは不覚を取るかもしれないと思って、かねて同志の整えておいた川崎在平間村の農家に入ってしばらく隠れ、密謀を凝らしていました。十二月二日、良雄は同志を深川八幡社前の某亭に集めて鼓舞激励するところがありました。集まるもの武士あり、医師あり、商人体あり、大工あり、しかし頼母子講の初会という触れこみだったので、誰一人怪しむ者もありませんでした。このとき良雄は起請文に連署させ、討ち入りの手はずを定め、討ち入り当夜における同志の心得を覚書として示しました。たまたま十二月十日の夜、吉良家の様子を探っていた横川勘平と大高源吾とから、それぞれ「当月十四日、吉良家にては大友近江守を招き茶会を催す由」という報告がありました。

「かくも両人の報告がことごとく同一であるからには、いよいよ相違あるまい」

と、良雄は十二月十四日をもって夜襲に決し、檄を同志に飛ばしてこの旨を報じました。

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快挙成る

元禄十五年十二月十四日、降りしきる雪をついて、本所松坂町吉良義央の邸の裏と表から斬り入った大石良雄以下四十七人は、得物得物を打ち振るいつつ、斬り立て、突きまくり、奥へ奥へと突入しました。付け人の豪の者たちも討たれ、邸中邸外、死屍累々と転がり、血潮は白妙の雪を真紅に染めました。しかるに目指す仇義央はいずこに行ったか影がありません。一同血眼になって邸中を探しあぐねた末、ついに物置部屋に義央をとらえ、夜明けの色うららかな白銀の大地に、長き月日の苦闘を報われた快哉の凱歌を挙げたのでした。一同は大石良雄を先頭として隊伍粛々と吉良邸を引き揚げ、芝高輪の泉岳寺に至り、亡君浅野長矩の墓前に義央の首級を供えて、涙ぐましい報告の式を行いました。

あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

と、良雄は泉岳寺の手厚い歓待を受けつつ、筆紙を乞うてさらさらとしたためました。ついで一同は細川、久松、毛利、水野の四家へお預けとなり、良雄ら十七名は細川越中守邸に連れていかれました。彼らの処分については老中間にも助命論が非常に盛んで、将軍綱吉も彼らを助けたい希望を持っていましたが、ついに天下の法は曲げられずと、元禄十六年(1703年)二月四日、死を賜りました。まことに大石良雄はおのれの行くべき道を直進し、周密の思慮をめぐらして百事遺算なく、よく同志を統率して一挙本懐を達し、その名を千古に伝えつつ、四十五歳をもって散ったのです。

居眠りをする少年を「捨てておけ」と言った仁斎は正しかったのです。一兵も損ぜず城を受け取り、本心と逆の動議で家中をふるいにかけ、妻を帰し、同志にまで愛想をつかされながら酔ったふりを続けた人。昼行燈は、人に見せる灯りを、いちばん大事な一夜のために取っておいたのでした。

大石内蔵助の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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