二百年以来の秘密
安藤昌益(あんどう しょうえき)は、今から二百年ほど以前の宝暦年間(1750年代)に、全百巻九十二冊に及ぶ『自然真営道(しぜんしんえいどう)』および、その他多くの書物を著し、一種の極めて進んだ「農本主義」を唱道(しょうどう)した人物である。
そして彼は、厳重な幕府の監視を巧みにくぐり抜け、自分の思想の宣伝と組織づくりのために、日本全国をほとんど隅々まで歩き回っており、最近の研究によれば、彼の同志は北海道にも九州にもいた。そして、その理想実現のために同志を励まし、日本全国の至る所で一斉に事を起こそう(蜂起しよう)としたが、志半ばにして病に倒れ、二度と立ち上がることはできなかったのである。
ところが、この驚異的な人物の存在を、二百年以上もの長い間、我が国ではほとんど誰も知らなかった。それは、彼の著書がことごとく匿名(偽名)で書かれていたためと、彼の同志は非常に多数であり、その組織はほぼ全国的な大規模なものであったにもかかわらず、その全員が厳重に本名を隠しており、しかも彼の死後は固く口を閉ざして絶対に秘密を漏らさなかったからである。
近年になって、たまたま発見されたその著書が学界の多大な注意を引きつけ、「日本社会思想史上の一大奇跡」として騒がれるようになってから、「はたして著者は誰なのか?」ということが大きな問題となったのである。
『秋田城都之住 天児屋根命(あめのこやねのみこと)百四十三代之流胤 確龍堂 藤原良中(ふじわらのよしなか)』
これが『自然真営道』の署名である。しかし、「藤原良中」なる学者は、当時のいかなる学派の中にも見出されない。しかも、この「藤原良中」なる学者の教養は著しく高く、恐らく外国の書物も読んでいたに違いない。またその見識も群を抜いており、当時の日本の学者の中にはまだそこまで到達した者が誰もいなかったはずの、「近代的な自然科学」「社会科学」および「哲学」の芽生えさえもが、ここには発見されるのである。
それゆえ、「藤原良中」という署名は、まったく無名の学者のペンネームだとは考えられず、恐らく「佐藤信淵(さとうのぶひろ)」あたりの匿名ではないか、と考えられていたのであった。
ところが最近、この疑問がほとんど奇跡的に解けることになった。それは、狩野博士(狩野亨吉)の功績である。
博士は数年来、この著者に関する研究に没頭していたが、ある時、『自然真営道』の表紙をめくると、その中に貼り込まれていた反故紙(不要になった紙)が、めくれて出てきたのである。それを調べてみると、実にそれは、著者「藤原良中」とその同志の人々とがやり取りした手紙の断片だったのである。
これが、安藤昌益発見の糸口(端緒)となった。博士はそれに力を得て、『自然真営道』百巻九十二冊の表紙と裏表紙の間を探し求めて、さらに続々と「藤原良中」研究の貴重な文献を手に入れたのであった。
それ以来、この研究は急速に進み、「藤原良中」――実は安藤昌益――は、二百年来の秘密の中から、その全貌をもって、ようやく明るみに出ることになったのである。
安藤昌益は秋田に生まれ、誰について学んだかは明らかではないが、とにかくそこで医学などを学び、のちに奥州の八戸(青森県)へやって来て、医者を職業としていた。彼の活動期は宝暦年間であったから、恐らく生まれは元禄の末年(1700年頃)と推定される。
当時、八戸藩のお抱え医師(奥医)に神山仙庵(かみやま せんあん)という人がいて、非常に学識のある人物として知られていたが、前記の狩野博士の研究から、この人も昌益の有力な同志の一人であったことが判明した。それから、やがてこの人が書き残した文書も発見され、それによって昌益の人物像がだいぶ明らかになってきた。
昌益は、日頃「我に師なし、弟子なし」と言っていた。しかし、もちろん彼とて最初は誰かについて学んだには違いない。だが、彼のいわゆる「自然から」、すなわち「社会の現実の中からこそ学ぶべきだ」と、机上の学問を極度に排撃していた彼としては、そう言うのも当然であった。また彼は、自分に教えを乞う(道を問う)すべての人をことごとく「同志」として遇していたのであったから、それらの人々を彼が「弟子」と呼ばなかったことも不思議ではない。だが、彼に道を問う人々の数はなかなか少なくはなかった。
仙庵の手記によれば、彼は「人道を問えば答え、私事(個人的なこと)を問えば答えない」という態度でそれらの人々に接した。そして、これはまた彼の人となりをよく表している言葉だが、「朝夕、ご飯と汁物以外、別の物を食べず」、そしてまた、厳重に禁酒を守っていた。彼にとっては、ただ「社会問題」以外はまったく無意味であり、無価値であり、語るに足らなかったのである。
『自然真営道』第十一巻の表紙の中から出てきた手紙の断片は、彼の弟子、すなわち同志の一人からのものであって、理想実現の事を起こす(蜂起する)ための資金問題に関する内容である。その同志は、彼に五百両の資金を提供することを約束しながらも、まだ時期が早すぎる(時機の尚早なること)と説いている。そして、この断片は彼の計画の全貌をほぼ明らかにすると共に、彼の同志の組織について知るためにも非常に役立っているのである。
彼の著書の版本のいくつかが、最近、彼についての研究が進むにつれて思いがけなくあちこちから発見されていくことを見ても、彼の著書の教えは全国に意外に広く流布されており、また彼の同志の組織も意外に大きなものであったに違いないのである。
なお、彼についていまだ未解決の一つの問題が残されている。それは「彼が海外に渡航したか否か」という問題である。彼は奥州からあれほど遠い長崎へ、しばしば行った。特に晩年は多く長崎で送った。それはもちろん、海外の文化や海外の情勢を研究するためであったが、長崎商船奉行の役人の一人に彼の同志がいて、その人を通じて彼はオランダ、インド、シャム(タイ)、および中国の人々と交際し、それらの国々の事情にはよほど詳しかった。さらに、厳重な禁制(鎖国)を犯して、世界各国の事情を視察するために「海外密航」をも企てていたのであった。
彼か、あるいは彼の同志の一人が、ついにそれを決行したことが文献に残っている。しかし、それがどちらであるか、その文献が不完全なために、そこまでは未だに明らかにされていない。

その世界観の特色
彼は、極度に社会組織が動揺していた時代に生まれた。当時は商業資本が次第に発展してきた時期で、それに圧迫されて武士階級の生活は次第に窮迫しつつあった。そこで、大名による搾取は一層過酷になり、農民の全収穫の十分の六から十分の七までが領主に召し上げられるのが一般的であった。そして宝暦8年(1758年)、過酷な取り立て(誅求)に苦しむ美濃(岐阜県)の農民がついに一揆を起こしたが、彼らは領主の本城まで迫ってついにこれを陥落させた。
これが、農民が一揆を起こして領主に勝った最初の記録であった。これに続いて、日向、武蔵、上野、下野などにも大きな一揆が起こり、さらに全国各地に続々と騒動が勃発して、武士階級の権威は完全に地に堕ちたのである。
安藤昌益の思想は、こうした社会の現実に深く根ざしている。彼の著書『自然真営道』や『統道真伝』において、彼はまず「不耕貪食(ふこうどんしょく)の徒(自ら耕さず、むさぼり食うだけの者たち)」として、孔子、孟子、および釈迦を猛烈に攻撃し、続いてその批判の鉄槌を、代表的な貴族的理論家および世間道の代表者である秀吉や家康に下す。昌益にとっては、「労働しない者」は人民の敵だったのである。
人倫に関する彼の考え方は、祖父母、父母、夫婦、子、孫の「五倫」のみに限られている。また婚姻制度についてはオランダの「一夫一婦制」を称賛し、日本の貴族や富豪のように、妾や腰元、隠し女などを多数持つ、事実上の「一夫多妻制」を攻撃している。
また、当時「勧善懲悪」の思想が道徳の基本となっていたが、彼は「万物の価値は相対的である。光があって初めて闇が認識される。絶対的な悪もなければ善もない。ただそれは、その時々の条件によって、悪として現れ、あるいは善として現れるに過ぎない」と主張したのである。
次いで彼は、霊と肉体との相対性を主張する。彼は「肉体のない霊」を否定する。この点からして、当時行われていた一切の宗教、一切の有神論に反対しているのである。
彼を語るについて最も重要なことは、その社会思想であるが、それは要するに「農本主義」であり、全経済を人民の代表者に管理させる「民主主義」であった。当時は工業がまだ発達しておらず、農業生産が全経済の基礎であったから、彼が農業に最大の比重を置いたのはもちろん当然のことである。
なお、彼の思想の最も注目すべき特色は、「世界平和」と「人類平等」の思想であり、彼が常に「世界的な視点」から物を考えていたことである。したがって、彼は日本について語る場合でも、当然「世界の一部分としての日本」ということを忘れない。彼は日本人であると同時に、「世界人」としての自覚を持っていたのである。
これは、当時としてはほとんど彼以外には誰も思い至らなかった思想であって、彼がいかに時代を超えた思想家であったかが、これ一つからでもはっきりと理解されるのである。
彼の思想について、到底これくらいでは言い尽くすことができないが、彼は学問のほとんどすべての領域にわたって精通していた。その専門としていた病理学においては、近年話題になっている「病的体質の遺伝」等についても当時すでに論じていたことや、当時知られていた限りの海外諸国、すなわちオランダ、インド、スペイン、ポルトガル、安南(ベトナム)、中国、朝鮮等の国々および日本の言語に関する「比較研究」を行っていること等は、彼の天才性を示す一つの話題となるであろう。


