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安藤昌益の生涯|江戸時代に人類平等を説いた農本主義の思想家

安藤昌益の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「秋田城都之住 安天児屋根命百四十三代之流胤 確龍堂藤原良中」

これは、江戸時代の中ごろに書かれた百巻あまりの大著『自然真営道(しぜんしんえいどう)』の署名です。けれども、「藤原良中(ふじわらの りょうちゅう)」という学者は、当時のどの学派にも見あたりません。この名の持ち主がだれなのかは、二百年ものあいだ、だれにも分かりませんでした。

 

二百年以来の秘密

 

安藤昌益(あんどう しょうえき)は、今からおよそ二百年前の宝暦(ほうれき)年間に、『自然真営道』をはじめ多くの本を書いて、一種のたいへん進んだ農本主義(のうほんしゅぎ:農業を国のおおもとと考える立場)を説いた人です。彼は幕府のきびしい監視をたくみにくぐり、思想を広め仲間を組織するために日本全国をほとんどくまなく歩き回っていて、その同志は北海道にも九州にもいました。そして理想を実現するために、同志をはげまして日本全国いたるところでいっせいに事を起こそうとしましたが、途中で病に倒れて、ふたたび立てなくなったというのです。

ところが、この驚くべき人物がいたことを、二百年以上もの長いあいだ、日本ではほとんどだれも知りませんでした。著書がすべて本名を隠して書かれていたためであり、同志たちもみな、かたく本名を秘して、昌益の死後は口をつぐんで、絶対に事をもらさなかったためです。

 

※ 昌益が全国に同志の組織を持ち、いっせいに事を起こそうとしていたというのは、底本が書かれた昭和十一年(1936年)当時の、狩野亨吉(かのう こうきち)の推測によるものです。その後の研究では裏づけが見つからず、今では、昌益は八戸(はちのへ)で医者をしながら、少数の門人に自分の思想を説いていた人と考えられています。

 

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昭和の初めになって、たまたま見つかったその著書が学界の大きな注意を引き、日本の社会思想の歴史の上の一大奇跡として騒がれるようになると、著者はいったいだれなのか、ということが大きな問題になりました。「藤原良中」の教養はいちじるしく高く、おそらく外国の本も読んでいたにちがいなく、見識も群を抜いていました。当時の日本の学者のだれもまだそこまで達していなかった、近代的な自然科学、社会科学、そして哲学の芽ばえまでが、そこには見つかるのです。だから「藤原良中」はまったく無名の学者の筆名とは考えられず、おそらく佐藤信淵(さとう のぶひろ)あたりが名を隠して書いたのではないか、と考えられていました。

この疑問が、ほとんど奇跡のように解けました。狩野亨吉博士の功績です。博士は数年来、この著者についての研究に没頭していましたが、あるとき『自然真営道』の表紙をめくると、その中に貼りこまれていた反古(ほご:書き損じの紙)がめくれて出てきました。調べてみると、それは著者「藤原良中」と、その同志たちとが取りかわした手紙の断片だったのです。これが安藤昌益発見の糸口になりました。博士はそれに力を得て、『自然真営道』百巻あまりの表紙と裏表紙のあいだを探し、さらに次々と貴重な文献を見つけました。それ以来、研究は急速に進み、藤原良中こと安藤昌益は、二百年来の秘密の中から、ようやく明るみに出てきたのです。

 

※ 『自然真営道』の手書きの本(稿本)は百一巻九十三冊あり、底本は「百巻九十二冊」としています。狩野亨吉が明治三十二年(1899年)にこれを手に入れ、昭和三年(1928年)に「安藤昌益」と題する文章を発表して世に知らせました。けれども稿本の大部分は、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼けてしまい、今残っているのは十五冊です。

 

 

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その人のアウトライン

 

安藤昌益は秋田に生まれました。だれについて学んだかは明らかでありませんが、ともかく秋田で医学などを学び、のちに奥州(おうしゅう:東北地方)の八戸に来て、医者を仕事にしていました。活動した時期は宝暦年間でしたから、生まれは元禄(げんろく)の末ごろと推定されます。

 

※ 今の研究では、昌益は元禄十六年(1703年)に出羽国(でわのくに)秋田郡二井田村(現在の秋田県大館市)に生まれ、宝暦十二年(1762年)にそこで亡くなったことが分かっています。

 

当時、八戸の殿様の奥医(おくい:主君の側に仕える医者)に神山仙確(かみやま せんかく)という人がいて、たいへん学識のある人物として知られていましたが、狩野博士の研究から、この人も昌益の有力な同志の一人であったことが分かりました。やがてこの人の書き残した文書も見つかり、昌益の人物がだいぶ明らかになってきたのです。

昌益は日ごろ、「我に師なく、弟子なし」と言っていました。もちろん、昌益も最初はだれかについて学んだにはちがいありません。けれども、彼の言う「自然から」、つまり社会の現実の中からこそ学ぶべきだとして、机の上の学問を極端に退けていた昌益としては、こう言うのも当然でした。また昌益は、道を問うてくる人をすべて「同志」として遇していましたから、その人たちを「弟子」と呼ばなかったのもふしぎではありません。けれども、道を問いに来る人の数は、決して少なくありませんでした。仙確の手記によれば、昌益は「人の道を問えば答え、私のことを問えば答えず」という態度で人に接しました。また「朝夕、飯と汁のほかに別の物を食べず」、きびしく酒を断っていました。昌益にとっては、社会の問題のほかはまったく意味がなく、語るに足りなかったのです。

 

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『自然真営道』の第十一巻の表紙の中から出てきた手紙の断片は、昌益の門人、つまり同志の一人からのものでした。理想を実現するために事を起こす、その資金についての手紙です。その同志は、昌益に五百両の資金を出すと約束しながらも、まだ時期が早すぎると説いています。この断片は、昌益の計画のあらましをほぼ明らかにするとともに、同志の組織を知るうえでも、たいへん役に立っています。

また、研究が進むにつれて、昌益の著書の版本(はんぽん:印刷して出された本)のいくつかが、思いがけずあちこちから見つかっています。このことからも、昌益の著書は全国に意外に広く行きわたっており、同志の組織も意外に大きなものだったにちがいないのです。

なお、昌益については、まだ解けていない問題が一つ残されています。昌益が海外へ渡ったかどうか、という問題です。昌益は奥州から、あれほど遠い長崎へ、しばしば出かけました。とくに晩年は、多くを長崎で過ごしています。それはもちろん、海外の文化や海外の情勢を研究するためでした。長崎の「商船奉行」の役人の一人に昌益の同志がいて、その人を通じて、昌益はオランダ、インド、シャム(今のタイ)、中国の人々と交わり、それらの国々の事情にかなりくわしかったのですが、さらに、きびしい禁を犯して、世界の国々の事情を見るために、海外への密航まで企てていたといいます。そして、昌益か、あるいは同志の一人が、ついにそれを実行したことが文献に残っているものの、それがどちらなのかは、文献が不十分なために、まだ明らかになっていないのです。

 

※注: 第十一巻の手紙や版本の話、全国の同志の組織、長崎での交わりと密航の話は、いずれも底本が書かれた昭和十一年(1936年)当時の、狩野亨吉の研究と推測によるものです。今の研究では、全国的な組織や密航の裏づけは見つかっていません。また、長崎に「商船奉行」という役職は見あたらず、底本の書き方のままにしました。

 

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その世界観の特色

 

さて、昌益の世界観です。昌益は、社会の仕組みが極度にゆれ動いていた時代に生まれました。商業の資本がしだいに力をつけ、それに押されて武士の暮らしはしだいに苦しくなっていた時期です。そこで大名の取り立てはいっそうきびしくなり、農民の収穫の十分の六から十分の七までが領主に取り上げられるのがふつうでした。宝暦八年(1758年)には、重い取り立てに苦しむ美濃(みの:現在の岐阜県)の農民がついに一揆を起こし、領主の本城まで迫って、これを陥落させました。これが農民が一揆を起こして領主に勝った最初の記録です。これに続いて日向(ひゅうが)、武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)にも大きな一揆が起こり、全国各地に騒動が続いて、武士の威力は地に落ちました。

 

※ 宝暦の美濃の一揆は、郡上(ぐじょう)一揆のことです。底本は「農民が領主の本城まで迫ってこれを陥落させた」と書いていますが、城が落ちた事実はありません。一揆のあと、幕府の裁きで藩主の金森氏が領地を取り上げられました。

 

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安藤昌益の思想は、こうした社会の現実に深く根ざしています。『自然真営道』や『統道真伝(とうどうしんでん)』で、昌益はまず孔子・孟子・釈迦を「不耕貪食(ふこうどんしょく)の徒」、つまり自分で耕さずに人の作った物を食べる者として猛烈に攻撃し、続いて貴族の側に立つ理論家や、秀吉・家康にも鉄槌(てっつい)を下します。昌益にとって、働かない者は人民の敵でした。人の道については、祖父母・父母・夫婦・子・孫の五つの関係だけを認めます。結婚については、オランダの一夫一婦の制度をほめたたえ、日本の貴族や富豪のように妾(めかけ)や腰元を多く持つ、事実上の一夫多妻を攻撃しました。

当時は「勧善懲悪(かんぜんちょうあく:善をすすめ悪をこらしめる)」の考えが道徳の土台でしたが、昌益は、あらゆるものの価値は相対的だと説きました。光があってはじめて闇が分かる。絶対的な悪もなければ善もない。ただその時々の条件によって、悪として現れたり善として現れたりするにすぎない、というのです。次に昌益は、霊と肉体との相対性を主張し、肉体のない霊を否定します。ここから、当時行われていたいっさいの宗教、いっさいの有神論(ゆうしんろん:神がいるとする考え)に反対しました。

昌益を語るうえでもっとも大切なのは、その社会思想です。それは要するに農本主義であり、経済の全体を人民の代表者に管理させる民主主義でした。当時は工業がまだ発達しておらず、農業の生産が経済の土台でしたから、彼の考えが農本主義より先へ進まなかったのは当然のことです。

なお、昌益の思想のもっとも注目すべき特色は、世界平和と人類平等の思想であり、彼がつねに「世界的に」物を考えていたことです。だから昌益は、日本について語る場合でも、「世界の一部分としての日本」ということを忘れません。日本人であると同時に、世界人としての自覚を持っていたのです。これは当時としては、ほとんど彼以外のだれも思い至らなかった考えで、昌益がどれほど時代をこえた思想家だったかが、この一つからでもはっきり分かります。

昌益の思想はとてもこれだけでは言いつくせませんが、彼は学問のほとんどすべての領域に通じ、専門としていた病理学では、体質の遺伝についても当時すでに論じていました。また、当時知られていたかぎりの海外の国々、すなわちオランダ、インド、スペイン、ポルトガル、安南(あんなん:今のベトナム)、中国、朝鮮と日本の言語を比べる研究も行っています。これらも、昌益の天才を語る一つの話題になるでしょう。

 

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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