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石川千代松の生涯|「進化論」を日本に広めた偉大な生物学者

石川千代松の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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日本のハックスレー

 

彼は「日本のハックスレー」と呼ばれる。

ハックスレー(トマス・ヘンリー・ハクスリー)はイギリスの著名な生物学者で、ダーウィンの進化論のために闘った人である。人間の起源を下等動物に見出して、実に世界の思想を一変せしめたその進化説が唱えられるや、期せずして宗教界その他からの圧迫的な愚論、あるいは保守的学者側からの反対論が轟々(ごうごう)と巻き起こったが、本尊のダーウィンは研究に没頭して、論争する暇を持たない。

それを歯がゆいことに思ったハックスレーは、ダーウィンの敵を一手に引き受けて、勇敢に応酬し、撃退に努めたものである。その勢いが当たるべからざるものであったので「ダーウィンのブルドッグ」という渾名(あだな)まで頂戴した。

石川千代松(いしかわ ちよまつ)の場合は、そういう意味のブルドッグとは何の関係もないが、進化説を我が国に伝えることに功績があった点が似ている。

ハックスレーは名文家で、進化説を一般社会に徹底させるのに大きな役割を演じたが、石川千代松の名文もまた学問の民衆化に役立てられている。

この日本が生んだ偉大な世界的生物学者・石川千代松は、では、どんな一生を歩んだだろう。

 

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進化論につくす

 

大学予備門で英語を教えていたイギリス人に、昆虫採集の熱心家がいた。その人に親しんで、休みといえば一緒に捕虫網を振り回して歩き、昆虫採集に余念がなかったが、ある夏は東京から青森まで蝶の採集に行き、往復をほとんど歩き通した。それが少年時代のことである。

万延元年(1860年)の生まれで、旧幕臣の父は博物学者の蘭医・シーボルトを知っていた。そんな影響からして、博物に対する興味はごく幼い時分にすでに芽生えたのだった。普通の子供なら独楽(こま)や凧(たこ)で遊ぶところを、彼は蝶や蜂を友として、草花を相手に育ったのである。一時、江戸から駿河に移り住んだことがあって、それが自然を観る目をどんなに広く深くしたか分からない。

当時、我が国は維新の紛乱に渦巻いて、学問どころではなかった。それが、明治2年に小学校が創始される、明治4年に文部省が生まれる、明治5年にはいよいよ学制発布となって、文化的開発のレールが出来た。そして、東京大学(東京帝大の前身)の動物学の先生として、学界の大恩人モース(エドワード・S・モース)が来朝したのは明治10年で、彼がまだ17歳の時だった。

大学生ではなかったけれど、知識欲旺盛な彼は、モースの家庭に頻繁に出入りして、あの大森の貝塚を発掘した時もそれを手伝った。我が国に貝塚が知られた初めである。それよりもモースは、進化論を初めてもたらした人として特筆大書すべき存在だが、それも石川千代松の協力があってなされたのだった。

大学の講座にはなかったが、モースを引っ張り出して、寄席で講演させる、小さな集会でしゃべらせる。学者志望の彼らはそれを利用して自由講座を開かせる――そのモースの前座を勤めて、自分でも堂々と進化論を講演した。それがいまの中学生の年輩なのだから、驚くべき異常な才幹(さいかん)だ。

これから後、モースの講演をまとめたものをはじめとして、進化論に関する多くの著述を世に示した。欧米でも、進化論に対する誤解が社会にいろいろの問題を起こしていた時代に、大した誤りなく一般に受け取らせることが出来たのは、モースの学才と共に石川千代松の力だった。

 

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ヒドラと小鮎

 

明治15年に大学を卒業、18年にドイツへ留学し、生物学の大家ヴァイスマン(※原文:ワイスマン)に師事した。その四年間に、彼がいかに大きく学者的成長を遂げたかは、ヴァイスマンと合著で発表された数々の研究がそれを語っている。

ヒドラという動物は、手袋の指のような形をしていて、体壁が内と外の二層になっているが、それを裏返しにしても平気で生きているという実験を発表した学者がスイスにいた。ところが、発生学の進歩につれて、その実験と矛盾する考えが起こってきた。さあ、迷ったのは学界である。ああでもない、こうでもないと不審の首を傾けている時、石川千代松は巧妙な実験方法を案出して一挙にこの難問を解決してしまった。

スイスの学者の実験では、裏返しにしたつもりのものが、いつの間にか元へ戻っていたものに相違ない。そう気づくと、彼は裏返しにした体壁が逆戻りしないように特別の手術を施した。ヒドラはそのために間もなく死んで、発生学の勝利が立証された。

ドイツから帰ると、農科大学の教授となって、在職47年の長きに及んだが、教授などというと実地の研究から離れて、学問だけに終始する人が多い。彼は師のヴァイスマンの言葉であった「研究」「指導」「読書」の三つを終生のモットーにして、読書に暇(いとま)を惜しみ、学生の指導に慈父(じふ)のごとき親切を捧げると共に、実地研究を怠らなかった。

琵琶湖の小鮎(こあゆ)といえば、何年経っても大きくならないので有名である。それで、普通の鮎とは種類が別だとされていたものだが、これを研究して、彼は「同じ鮎である」ことを発表した。

種類が同じでいて大きくならない鮎、そんな馬鹿な話があるものかと、世間はもちろん、動物学者でさえも大笑いに笑い合った。

「では、証拠をお目にかけましょう。一年後をお待ち下さい」

と彼は断言した。それは決して無謀な自信ではなかった。

琵琶湖の小鮎にしるしをつけて川に放してみると、一年のうちに普通の鮎と同じように大きくなり、別種だと思ったのが、単に環境への適応に過ぎないことが明らかになった。

 

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行路病者の屍体

 

とかく物質主義に陥りやすい科学者の中にあって、彼は珍しく敬虔な人格者だった。大自然の神髄を会得して、生物学的の平等観に徹底し、常に正しい社会人として行動した。

ある時、本郷通りに行路病者(こうろびょうしゃ:行き倒れ)の急死があった。電車も通れば、人の往来も激しい場所で、しかも日中に起こった事件である。通行人から交番へ、交番から警察署へと報告はされたのに、どうしたのかなかなか手配が回らない。

石川千代松は、その人だかりの前を通って大学で用を済まし、帰途、数時間も経ってからまたそこを通りかかると、死体が相変わらず放置されている。手続き上のやむを得ない事情もあったろうが、大都会にあるまじき不体裁を、彼は黙って見逃せなかった。

日頃、社会生活の改善ということに考えのあった彼は、多忙な時間を割いて、直ちに所轄警察署長、警視総監、東京府知事、内務大臣に書面を送り、市民の立場から抗議的に弁明を求め、なお将来に対しての注意を促した。これらの大官からはそれぞれ弁明やら陳謝やらを言ってきたが、特に時の内務大臣・後藤新平男爵は丁寧な礼状を寄せた。

心ある人ならば誰しもが気づくことではあるが、直接自分に関係がなければ、面倒がってそのまま黙過(もっか)してしまう。彼はしかし、社会人としての務めを自分の研究よりも大事に思った。そこが彼の人間としての偉いところで、社会教育を重んじ、学問の民衆化に努力したことは非常なものだった。

 

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師弟の情

 

理学博士となり、帝国学士院会員に推され、学者としての最高位を勝ち得たが、その師を尊敬すること厚く、学生に対してもよくそれを戒めた。

明治時代から帝室博物館や動物園の仕事に関与し、晩年には東京科学博物館の指導に当たった。日本博物館協会の会合で、ある人が、

「貴方は博物館事業の大恩人です」と言ったところが、

「それは違います。私に博物館事業の大切なことを教え、その仕事をさせるようにしたのは、東京大学時代の恩師モース先生です」

と真顔で謙遜し、恩師の徳をしきりに讃えるのだった。

我が国の動物学は石川千代松と共に発達したと言われるくらいで、動物のことなら何でも知っているという風だったが、その中でも、鮎、ホタルイカ、夜光虫、山椒魚(さんしょううお)、受精現象などの研究が深かった。大学では、動物学、進化論、遺伝について講義した。

台北に開かれた第十回日本学術協会大会に臨席のため台湾に渡り、感冒(かんぼう:かぜ)の悪化から台北病院に逝去した。昭和10年(1935年)1月17日で、76歳だった。

死の直前まで元気で活動し、学会に出て客死したということは、軍人が戦場に名誉の戦死を遂げたのも同じであって、学者らしい死に方であった。

 

石川千代松の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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