心学道話の始祖
「『孟子』に曰く。『仁は人の心なり。義は人の路(みち)なり。その路を舎(す)てて由(よ)らず、その心を放(うしな)いて求むるを知らず。哀しい哉(かな)』。
これは『孟子』の告子(こくし:中国戦国時代の思想家)上に見えまする本文でござります。
さて、この『仁』と申すは、諸先生がいろいろに御註(ぎょちゅう)をなされたれども、難しく申しては女中方や子供衆の耳へ入りにくい……。聖人の道もチンプンカンプンでは、女中や子供衆の耳に通ぜぬ。心学道話は、識者のために設けました事ではござりませぬ。ただ家業に追われて暇のない、お百姓や町人衆へ、聖人の道あることをお知らせ申したいと、先師の志でござります。
ゆえに随分と言葉を平たくして、譬(たと)えを取り、あるいは落とし話(落語のような笑い話)をいたして、道理に近いことは神道でも仏道でも、何でもかでも取り込んでお話し申します。必ず『軽口話のようだな』とお笑い下されるな。これは本意ではござらねども、ただ通じやすいように申すのでござります。
時に『仁』と申すことは、畢竟(ひっきょう:つまるところ、結局のところ、要するに)『とんと無理のない』と申すことでござります。この無理のないのがすなわち人の心じゃと、孟子は仰せられました。この無理のない心をもって親に仕えますると孝行になり、主に仕えますると忠になり、夫婦・兄弟・朋友の間もまたこの通りで、五倫の道は安らかに調(ととの)います……」
かく言語を平易にし、仏教を卑近な譬えにとり、あるいは諧謔(かいぎゃく:ユーモア)を交えて聞く人を笑わしめ、笑いの中に手を打ち、知らず知らずのうちに市井の人々を「道」に入らしめ教化するのを目的とした心学道話――。
この心学を、初めて京都にて唱え出したのは、実に石田梅岩(いしだ ばいがん/梅巖)であった。

享保の世相
享保の時代は、社会的な混乱、唯物思想の出現による道徳観の崩壊など、国民生活の秩序が混沌として行くところを知らぬ、暗黒世界を現出した時代であった。人々の心が、貧窮から生ずる罪悪と、無理想から来る絶望・自棄(やけ)に蝕(むしば)まれた時代であった。
「私はかつて物を盗んだてな覚えは毛頭ござりませぬ。私は有り余っている人の金を借りて来て、ただ貧乏人に分けてやっただけなんで、言わば媒介をいたしやしただけなんで、盗んだなんぞの覚えはござりませぬ」
かの日本左衛門(にっぽんざえもん)なる賊が、大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)の前でこう申し立て、傲然とふんぞり返ったのはこの頃であった。有名な徳川天一坊が現れて天下を狙ったのもこの時代であった。
享保の一般社会は、いかにして生きるべきか、また何を求め、何を目標として生きるべきかに思い悩み、暗澹(あんたん)として闇の泥沼中に悶えのたうった時代であった。
石田梅岩は当時の京都にあって、こうした世相をしみじみと見つめていた。
石田梅岩は貞享2年(1685年)、丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市)の農家の次男に生まれ、名は興長、通称を勘平と言った。8歳の時、京都のある商家の丁稚(でっち)となり、十三、四の頃まで勤めていたが、故あって故郷へ帰り、それからしばらく家業の野良仕事に従っていた。
23歳の時、彼は固い志を抱いて再び京に上り、商店の丁稚となった。彼は神道を説き広めて、「日本国中の人に、日本の国の道を教えてみたい」という念願を抱いていた。
が、一介の苦学生に過ぎなかった彼は、自らを養い、食って行かねばならなかった。彼は貧しい生活に苦しみつつ、商業取引の奔走に齷齪(あくせく)しながらも、常にその志を社会教化の上に置いていた。
かく恵まれぬ悲しい境遇に泣きつつも、その志の達成を忘れず、孜々営々(ししえいえい:休まずにこつこつと努力を続け、熱心に仕事や学問に励むさま)として実に二十有余年、ようやく性理の学を究めて悟るところあり、天一坊の誅せられた享保14年、彼が洛中・車屋町にはじめて講席を開いて、己れの信ずる道を説き始めたのは、45歳の時であった。

社会教化運動のスタート
「もし聞く人なくば、たとえ辻立ちしてなりとも、我が志を述べん」
と決起した梅岩は、車屋町のささやかなる講舎の前に、
「無縁にても、御望みの方々は遠慮なくお通り、お聞きなされるべく候(誰でもご自由にお入りになり、お聞きください)」と書き記して聴衆を待った。
心学は、神・仏・儒の所説を全く無差別に混用し、実践的道徳の上においても時代の道徳意識を無批判に採用した。従って思想上の創見というべきものはなかったが、注目すべきは我が国における社会教化の先駆だったことである。
「性(人間の本質)と言うは、人より禽獣草木(きんじゅうそうもく)まで、天に受け得てもって生ずる理なり。……性を知る時は、五常五倫の道はその中に備われり。……性を知るは学問の綱領なり」
と論じて、人は全体一個の小天地なりとの哲学説から、天地の性を知れば人倫の性をも会得し得ると説いた。従ってそれは「本性の学」、あるいは「性学」と呼ばれもした。
梅岩が起って、教化の当面の対象としたのは、主として町人階級であった。元来、心学は人たるを学ぶの学であって、特にある階級のみに限らるべき教義でないことは、
「士農工商とも天の一物なり。天に二つの道あらんや」
「士の道と言えば農工商に通い、農工商の道と言えば士に通う」
と梅岩自身も述べているところであるが、彼がまず町人階級を教化の対象としたゆえんのものは、当時の社会情勢のおのずから然らしめるところに過ぎなかった。
享保時代は、武家の上下は極端な財政の窮乏にあえぎ、農民もまた重税に苦しんで困憊(こんぱい)の底に落ちていた。しかるに、この間にあって勃然として台頭し、富の力を笠に暴威を振るったのは商人階級であった。彼らは営利のためには道義を無視し、惨虐(ざんぎゃく)をあえてしたために、一方にこれに対する反感が起こり、為政者の中には、新興勢力に対する憎悪と恐怖を抱いて、商業弾圧の政策を採るものもあるくらいであった。
こうした時勢の中にあった梅岩は、
「商人みな農工とならば、財宝を通わすものなくして万民の難儀とならん」
と商人に確乎たる地位を与うると共に、
「商工は市井の臣なり。臣として君をたすくるは臣の道なり。商人の売買するは天下の助けなり」
とまた厳然たる道を課した。
梅岩の志は高く熱意は強かったが、心学草創期におけるこの運動の進展状態は、実に微々として振るわず、創始者としてのみじめな苦難は長い間、梅岩を苛(さいな)んだ。
開講した享保14年から元文2年に至る車屋町時代の九年間は、毎席わずかに二、三人から四、五人の聴衆を得るに過ぎなかった。
が、根強い忍耐と努力は次第に報われて、寛保・延享の頃には朝夕の聴講者がようやく増加し、月次の会に参して修行する者が20名を超えるようになった。かくして徐々に、京都市中はもとより大坂、河内、大和にまでも講釈に赴くほどの隆盛を示してきたのである。

心学の勃興発展
商人階級に対する心学の普及は真に目覚ましく、徐々にではあったが力強く町から町へと拡がっていき、次から次へと人を動かし、ついに手島堵庵(てじま とあん)、杉浦止斎(すぎうら しさい)、布施松翁(ふせ しょうおう)、井上宗甫(いのうえ そうほ)、中沢道二(なかざわ どうに)等々の錚々(そうそう)たる心学者たちを、屋号のついた商人中より輩出せしむるに至った。
この勢いはもちろん、最初から心学教化の対象であった農民社会にも及んでいた。
ある夏のこと、梅岩は河内国石川郡白木村の黒形政胤の宅へ講義に出掛けた際、垣根のあたりに流水のしかけ(水路)がしてあるのを見て、
「この流れはいつもあるものですか? 今は農家が水を求める時であるから、私のためにわざわざ水を堰(せ)き入れられたのならば、お百姓の障りになるであろうと思うが……」
と言った。この梅岩の精神は広く遠く及んで、天明5年の頃には14ヶ国63町村に心学の支部ができ、都講(指導者)が出来るようになり、その約半数は農村であった。
心学運動はまた庶民階級にのみとどまらず、武家大名の間にも広まっていった。一代の名宰相・白河楽翁(松平定信)は、心学のことを聞こうとして京に使者を送った。その時に選ばれて江戸に下ったのが中沢道二であった。
彼は楽翁の前に召し出されて、何か一番得意なものを講釈してみよと言われ、「私は文字を存じませぬ」と言い、儒者が文字の読めぬはおかしいと言われて、「文字の読めるのは文字芸者である、手前は儒者だ」とうそぶき、得意な話をしてみろと言われると、
「烏(からす)はカアカア、雀はチウチウ」
と口を切って、立て板に水を流すがごとく滔々(とうとう)と一代の名講釈をやってのけた。
心学は幕府・為政者の庇護と後援を得て、ますます勃興発展した。松平定信の下で台閣(老中などの幕閣)に入り、加判の列に加わった本多弾正大弼忠籌(ほんだ ただかず)、松平伊豆守信明(まつだいら のぶあきら)をはじめとし、本多肥後守、松平紀伊守、織田出雲守、戸田大炊頭、堀左京亮などの大名諸侯にして心学を修業するもの上(のぼって)十余名に及び、旗本、公卿殿上人、さては千代田城の大奥にも入って大奥女中、並びに紀州家、一橋家の奥女中の間にも拡がってゆくに至った。
梅岩は延享3年(1746年)に62歳にて没したが、彼より出でた心学は、その死後も連綿として栄え、永く後世を豊かに恵んだ。


