茶挽き裁判
一代の名判官・板倉周防守重宗(いたくら すおうのかみ しげむね)は、伊賀守勝重の長子で、天正14年(1586年)に生まれ、初め徳川秀忠の近習となり逐次(ちくじ)登用せられて、元和6年(1620年)、父の後を継いで京都所司代となった。徳川時代における京都所司代は、老中に次ぐ待遇をうけ、禁裏(朝廷)の守護、公卿の監督、官用の弁理、京都町奉行ならびに伏見および奈良の奉行の管理等に当たると共に、一方、西国諸大名の監督に任じ、併せて諸般訴訟の聴断(裁判)を掌(つかさど)った。
重宗は職についた後は、毎日決断所に出るごとに、はるかに西に向かって拝して黙祷し、それからそこへ据えてある茶臼の前に坐って茶を挽きつつ、明かり障子を隔てて訴訟を聞いた。ある人にその理由を訊かれて、重宗の言うには、
「訴えの決断は出来る限り不公平のないようにしたい。もし誤って私心があったならば、直ちに命を召され給えと、まず神明に祈るのである。また、訴えを公明に定め得ないのは、心の動くがゆえである。我が心が動くか静かであるかは、茶を挽いてみれば分かる。茶が非常に細やかに落ちるに至って、心の動かないのを知り、その後、おもむろに訴訟を決断する。
また、明かり障子を隔てて訴えを聞くのは、訴える者の顔色を見ないためである。人の顔貌(がんぼう)には、哀れがましきあり、憎しげなるあり、真実らしきあり、偽りらしきあり、剛情らしきあり、素直らしきあり、誠に様々ある。それらを眼に見る時は、決断せぬ前から我が心が迷わされ、左右されてはいけない。のみならず、訴えの法廷へ出るのさえ無気味なのに、まして生殺を司る人を見ては、恐怖のあまり思うことも言い得ずして、罪に落ちる人もあろう。だから所詮、互いに顔を見も見られもせぬのが良いのだ」
重宗が所司代として事を裁するに公平無私、一般民衆から畏敬(いけい)し心服されたのも、そのゆえんはここにあった。

過を謝す
かつて重宗が京の田舎を通った時、遊んでいた子供が、
「あれ、周防が通る」
と言ったのを馬上で聞き咎め、「自分は不肖といえども、ここに上の御代官としてある以上は、田舎の子供とても、あんなに不躾(ぶしつけ)な呼び方をするとはおかしい。何か理由があるのではあるまいか」と、翌日その戸主を呼び出して訊いたところが、初めは口を噤(つぐ)んで言わなかった。けれども再三訊かれて、
「私は某月某日、父の財産のことに就いて血族の者と争いましたが、先方は証人どもを多くこしらえて申し出ずるゆえ、無体(むたい:道理に外れた無理なこと)のことではござりましたが、とうとう私の敗訴となり……」
と語ったので、その年月の帳簿を調べてみると、少しも相違がなかった。そこで重宗はさらに詳細に調べ直した上、
「これは確かに某(それがし)の聴き誤りであった。まことに残念であるけれども、久しく年月の経たことであるから、いかんとも仕方がない。で、今、その時の損失を償って過(あやまち)を謝したい」
と、自ら金銀を出してその者に与えた。
重宗の「過を恐れること」は最も甚だしく、死刑に決定した罪人のごときは、
「明日死罪に申し付けるが、遁(のが)るべき道だにあらば遠慮なく申し出よ」
と言い聞かせておき、またその翌朝尋ね、もしその者に言い分あらば、五日も十日も延ばして詮議(せんぎ:複数の人が集まって深く話し合い、物事の真相や方針を明らかにすること、あるいは罪人の取り調べや捜索を行うこと)し、「もうこれ以上ござりませぬ」と言った後、初めて刑を行ったという。

賢すぎる人々かな
重衡(しげひら)の松陰の硯(すずり)というものが、知恩院にも所蔵され、また黒谷の源空寺にも蔵されていて、両寺がその真贋を争って訴え出た。すると重宗は莞爾(かんじ:にっこり)として、
「はてさて両寺の上人、上智明達、賢すぎて世事に疎(うと)うござる。我々でさえ硯の三つや四つは所持いたす。いわんや平相国清盛の愛子・重衡、硯の二つ三つあるが当然のこと。共に両寺のお宝でござるわ」
と言ったので、この争いはぷっつんと止んだ。
ある商家に法然上人の手跡(しゅせき)というものを秘蔵していたが、その文に「不可」と大きく書き、その下に「日の盗人」「年の盗人」「命の盗人」と小さな字が三行書き流してあった。
諸宗の僧中、誰一人これを解せないので、その商人は重宗に持って行った。重宗は呵呵大笑(かかたいしょう)して曰く、
「僧達は己の宗門に囚われて、何ぞ不可思議な意味でもあるのじゃあるまいかなんぞと、首を傾けているから法然の心が分からんのじゃ。『日の盗人』というのは、一日中悪いことをなしてその心を改めないことじゃ。日々改めなければ『年の盗人』、百年改めざれば『命の盗人』じゃわい」
その商人はこれを聞いて大いに感じ、その旨をしたためて貰って、法然の書と共に家宝となした。

母は子を愛す
ある時、二人の女が、一人の女の子を互いに自分の子だと争い、重宗に訴え出た。重宗は凝(じっ)と考えた末、
「ウム、では、二人してその子を左右から引け。引き勝った者こそ、その子の母であろう」
二人の女に子どもの左右の手を取って引かしめた。子どもは痛さに堪えず泣き出した。一方の女は思わずその手を放して、痛ましげな眼で子を眺めた。引き勝った方の女は喜び勇んでその子を抱き去ろうとした。その時、重宗は一喝して、
「待て、汝は誠の母ではない。子どもを傷つけんことを恐れて手を放した者こそ真実の母であろう」
と言ったが、果たしてそうであった。

黙々として尽す
重宗は、宮中の堂上で詩歌や書を家職とする人々には、必ず色紙とか短冊を懇望(こんもう)した。それからそれを包んで封をし、その上に月日をしたためて納めおき、また花の朝・月の夕の御会(ぎょかい)の詠草(えいそう)なども必ずこうし、次の年もまた同様にした。そして、それらの人々が重宗の許へ来ると、貰った色紙・短冊等を取り出し、眼の前で封を切って、
「去年賜ったのと比べて見ると、御歌の姿と申し、御手跡と申し、失礼ながら、一段の御進境と存じ上げまするが」
などと挨拶して、また二枚共に重ねて封じ、月日を記して、納めるのを常とした。また蹴鞠(けまり)・管弦の道を家業とする公卿へは、その館で興行ある時には、必ず見物に行き、弦歌を聴聞した。だから、重宗の無言の激励に励まされて、自己の家職に専念した者が少なくなかったという。
ある年、重宗は将軍家光に、「これは家康公が陣中で斯様(かよう)なのがよいと仰せられたのを、よく覚えていて作り習いました草鞋(わらじ)でございます。もし御用がございましたら、いかほどでも献上いたしまする」と、一足の草鞋を献上したことがあった。それは、家康は下々の情によく通じていたから、上下の気持ちもよく疎通して、ついに天下の主となった。ゆえに、今天下を受け継がれた身は、下々の情を知らねば叶いませぬぞ、ということを諷諫(ふうかん:遠回しに諌めること)したものであった。
重宗は一日、播州明石の城主にこんな事を言った。
「貴殿の御城内には、古来から柿本人麻呂の社がある由を承るが、この人麻呂こそは和歌三神の一人。ゆえに、歌道に志すほどの者はみな参詣致したく願い居りまするが、何分御城内のことゆえに遠慮がちになり、つい渋ることもある始末。いかがでござろうか、諸人のためなれば、その社を城外に移し出され、海辺の高みに建てられて、往来の者も参詣出来るように為し下されなば、我らも灯籠を寄進申そうが」
「易(やす)しうござる」と言うので、人麻呂神社は海辺の高い所へ移された。重宗は約束通り十の灯籠を寄進した。
それまで播磨灘を行く舟は、夜中に風変わりがしたりして明石の前あたりで破船することなどあったが、その灯籠が立って以後、それを目標に航行したので、破船の憂いがなくなった。重宗の心は畢竟(ひっきょう)この目的を達成するにあったのだが、初めから己の功を顕わ(あらわ)さず、人に功を譲ったものだと云う。

赤心以て公に捧ぐ
重宗は、正保2年(1645年)従四位上左少将に任ぜられ、承応3年(1654年)、老をもって所司代の職を辞したが、彼はその際、面倒な訴訟事件を四つ五つ裁かずにおき、それらの事件に対する自分の意見を詳細に書きつけて、これを後役(あとやく)の牧野佐渡守親成(まきの さどのかみ ちかなり)に送った。
親成はその役初めに当たって、それらの事件を重宗の案通りに裁いたので、
「周防守殿さえ裁きかねられたる事件をば、今度の所司代は早速明快に裁かれた」と京の上下で褒めそやした。
重宗は、器量卓抜であって経世の才に優れ、所司代に任じた日より三十有余年、孜々(しし)として日夜公務に勉励し、政事(まつりごと)をなすに、あたかも家を治むるがごとく綿密、これによって綱紀(こうき:国家や組織を維持するための規律や道徳、守るべき規則)ますます張り、威化社会の上下に遍(あまね)く、令すれば行われ、禁ずれば止み、訴訟事件は屏息(へいそく:鳴りをひそめる)し、決断所は静かだった。されば、人々みな彼に悦服し、彼を敬うこと神明のごとく、彼を愛すること父母に似ていた。
彼は明暦2年(1656年)、下総国関宿にて五万石を賜い、同年12月1日、71歳で卒した。重宗は
「我らが名は世に伝わらずともよし」と言ったが、赤心(偽りのない心)もって公に捧げた重宗父子の定むるところの科条は、今に伝えてこれを『板倉政要(いたくら せいよう)』という。


