一九二四年十月、スイスのジュネーブ。国際連盟の総会で、世界の平和を守るための議定書の原案が話し合われていました。
原案では、国と国の争いであっても、いわゆる「国内の問題」——たとえば移民の問題など——は、連盟の調停から外されることになっていました。移民を受け入れる側で痛くもかゆくもないイギリスやアメリカの意向に、合わせたものです。
けれども、それでは連盟規約の「国際の平和を守るため、適当かつ有効と認める措置をとる」という決まりに反してしまいます。ここで敢然と立ち上がったのが、日本代表でした。
「連盟が世界の平和を守ることを目的とする以上、どんな性質の争いであっても、少しでも戦争になる恐れがある場合には、調停に持ち込める道が開けていなければならないではないか」
安達峰一郎(あだち みねいちろう)。国際連盟の舞台で小国の側に立ち、のちに常設国際司法裁判所の所長となった人でした。
外交舞台の第一人者
安達峰一郎の名は、国内よりも国外でよく知られています。世に出てからの一生を外務省で過ごし、本省勤務より外国勤務のほうが長いという珍しい記録を持つ人でした。それだけではありません。才気にあふれ、精力にあふれ、国際平和のために外交の舞台で活躍した第一人者です。誠実で公平な態度は、国際法に通じた学識とあいまって、世界中から選び抜かれた人々が集まる国際連盟で人望を集め、尊敬を勝ち取りました。
彼が外務省に入った明治の中ごろ、日本は領事裁判(りょうじさいばん:外国人の犯罪を日本の裁判所で裁けない制度)という屈辱的な制度の下にありました。半ば未開の国とみなされ、日本にいる外国人が何をしても、手の打ちようがなかったのです。
そんな時代から四十年後。ポーランドとリトアニアの間で、一方が相手の領土を侵して首都を占領したことから争いが起き、連盟の理事会に訴えられました。この問題を裁く役目を担ったのは日本で、代表として臨んだのが安達でした。
雪深い北の国、山形市から三里(約十二キロ)ほど離れた山辺町(やまのべまち:現在の山形県山辺町)に、彼は明治元年(1868年)に生まれました。父は教育者で、のちに町長も務めた人ですが、家庭は厳格そのものでした。甘く温かい母の庇護がなければ、厳しい規律に耐えられなかったほどです。しかし彼の不屈の精神は、まさにその中で鍛えられたのでした。

語学の天才
華やかな国際舞台で名を上げたのは、一つには語学の力によるものでした。彼は外務省きっての語学の天才と呼ばれましたが、そうなるまでの努力は並大抵ではありません。
彼の大学時代、ボアソナードというフランス人の法理学の講義がありました。日本の法学はまだ育っておらず、法律学が何かも知らず、外国の事情にも通じていない学生に法律を教えるのです。同じことを右から例を挙げ、左から例を挙げ、上からも下からも説き明かす。その親切さは至れり尽くせりでした。ところが学生のほうは生意気なもので、わかりすぎてうるさいと感じ、三回のうち二回は怠けて出ない者が多かったのです。同級生で、のちに首相になる若槻礼次郎(わかつき れいじろう)も怠け組でした。
そのなかでただ一人、毎回欠かさず出席して熱心に聴いたのが、安達です。
「もう二、三回は同じことを繰り返すんだ。出たってつまらないぜ」
しかし彼は、悪友の誘いには乗りませんでした。群を抜いて頭のよい彼が、繰り返しの講義をそこまで必要としていたわけではありません。ボアソナードはフランス語で講義します。それを聴くことで語学の勉強を兼ね、聞き飽きた講義にも我慢したのです。何事もこの調子で、心構えが人と違っていました。一つのことを三つにも四つにも役立てるのですから、生まれつきの才能のうえに、語学の力はぐんぐん伸びていきました。
政府に雇われて来日したイタリア人の学者が大学で国際法を講じたときには、彼がその通訳を務めたほどです。同級生でそんなことができる者は、ほかにいませんでした。そして彼は、通訳をしているうちに、やすやすと国際法を身につけてしまったのです。

国際会議の雄
ベルギー、フランスの大使を務め、イタリアやメキシコにも駐在しましたが、たびたび国際会議に出ては、外交の手腕をいかんなく発揮しました。
日露戦争のあと、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれたとき、フランス語ができることから小村寿太郎(こむら じゅたろう)全権に付き添い、ロシアの外相ウィッテとの談判で通訳を務めただけでなく、議事録の作成にも大いに力を尽くしました。第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議でも、いろいろな委員会に出て目覚ましい働きを見せています。大正十一年(1922年)から昭和四年(1929年)まで、国際連盟の総会に毎回日本代表として出席し、大正十二年の国際労働会議では議長にまで推されました。昭和四年のドイツ賠償会議では日本の首席全権として、イギリスとフランスの代表の間に立って調停の大役を引き受け、両国から大いに感謝されています。
しかし彼がもっとも活躍した国際会議は、一九二四年十月、ジュネーブで平和議定書が成立したときでした。冒頭に記した場面です。
イギリスなどは、自治領の代表の顔色をうかがって、まるで耳を貸そうとしませんでした。かつて日本がヴェルサイユ講和会議で人種平等の扱いを提案し、主にイギリスとアメリカの反対で通らなかったときと、よく似た事情です。重ね重ねのこの屈辱を、今回も耐え忍ばなければならないのか。いや、今度こそ、前回の分も合わせて面目を取り返すべきだ——。彼は倒れるまでやるという悲壮な決意で小国の代表たちを率い、身をもってイギリス・アメリカの代表にぶつかりました。正義を説く弁舌は鋭く、日本と同じく移民を送り出す国であるギリシャの代表などの熱烈な応援もあって、ついに安達の修正案が勝ちをおさめたのです。それは間接的には、講和会議で否決された人種平等の主張を貫き通したものでもありました。

小国側に立つ救世主
こうして、ヨーロッパでの彼の信望はいよいよ高まりました。ギリシャでは、日本人といえば誰でもすぐ安達を思い出すほどで、その名は救世主のように知られています。なぜか。一九二三年のコルフ事件のとき、紛争調査委員長として公平な態度を貫き、大国イタリアを相手に、ギリシャに有利な決定を導いたからです。アルバニアでも、彼の名声は高いものがあります。ギリシャとアルバニアの少数民族をめぐる争いを裁いて、公平な立場からアルバニアに有利な解決を与えたからにほかなりません。
自由と公平と正義の旗のもと、国際会議ではつねに小国代表の指導者となり、大国代表を相手にどれほど奮闘を続けたかは、数々の国際条約の条文が物語っています。バルカン諸国では、正義の権化のように受け止められました。このことがやがてバルカン、近東、中米、南米などで日本人への好意を生み、ひいては日本の商品が歓迎される結果にもなりました。海外への発展にどれほどの利益をもたらしたかは計り知れず、一人の安達の業績としては、あまりに偉大だと言わなければなりません。
異郷の土
すぐれた法学者であり法学博士でもあった彼は、昭和七年(1932年)に駐フランス大使を退くと同時に、オランダのハーグにある常設国際司法裁判所の判事に任命されました。
そこの裁判官は全部で十一人。四十あまりの国から選挙で選ばれますが、その競争はきわめて激しいものでした。日本からは前任者に織田萬(おだ よろず)博士がいたので後継者のような形ではあったものの、当選するだけでも容易ではありません。ところが彼は全員の信頼を集め、推されて裁判所長になったのです。学識からも人格からも当然ではありますが、彼の世界的に輝かしい経歴は、この重い役にもっともふさわしいものでした。日本は、そこに大きな誇りの一つを加えたと言えるのです。
国と国の複雑な争いを処理しなければならないのですから、裁判所長の任務はたいへん重い。それをよく果たせたのは、彼の誠実さと公平さ、周到な準備、そして倦(う)むことのない勤勉さのおかげでした。人間の博覧会のように各国の人が集まるあの裁判所で、彼は一身に信望を集めたのです。
しかし惜しいことに、激務のために心身の疲れは極限に達し、神経を侵され、心臓を損ないました。所長の職を辞して静養することになったときには、もう手遅れでした。昭和九年(1934年)十二月二十八日、六十七歳で、オランダのハーグに、さびしく異郷の土となったのです。
長年、故国を離れて国際正義のために奮闘したこの偉人を、オランダ政府は国葬の礼で送りました。それは故人にとっての無上の光栄というだけではありません。名誉を残した地ハーグで亡くなったことは、見方によっては、まことに意味のある死でした。彼はその死に場所を得た、と言うべきでしょう。




