江戸、杉田玄白の塾。二十二歳の若者が、師に願い出ました。
「オランダ医学を究めるには、広く原書を読むにこしたことはありません。どうか横文字をお教えください」
玄白は取り合いませんでした。
「横文字を読み解くのはなかなか容易なわざではない。無謀な野心を起こさず、治療の術を専心に勉強すればそれでよい」
しかし若者は、あきらめませんでした。ひそかに塾の先輩について手ほどきを受け、普通の人なら半年も一年もかかるところを、三、四十日で成し遂げてしまったのです。それを知って驚嘆したのは、ほかならぬ玄白でした。
大槻玄沢(おおつき げんたく)。日本で最初のオランダ語入門書『蘭学階梯(らんがくかいてい)』を著し、『解体新書』を改訂し、「オランダ正月」を祝った、蘭学の礎を築いた人でした。
蘭学の一生
書物を通してヨーロッパの文化が日本に入ってきたのは、明治よりずっと前のことです。これはよく知られています。そのなかでも、オランダ語を初めて学ぶ人のために手引きを示した『蘭学階梯』は、最も早いものの一つでした。
もちろん、それ以前にも横文字を読み、蘭書を訳した人がいなかったわけではありません。しかし読み方はそれぞれの我流にすぎず、翻訳も学問のほんの一端を伝えるだけで、蘭学を志す一般の人の道しるべとしては、あまり頼りになりませんでした。そこへ天明八年(1788年)、闇夜に望む救いの灯のように、版木に彫って印刷した本として世に出たのがこの書です。著したのは大槻磐水(ばんすい:玄沢の号)でした。
磐水は宝暦七年(1757年)九月二十八日、奥州一関(いちのせき:現在の岩手県一関市)の藩主に仕える侍医・玄梁(げんりょう)の子に生まれました。物心ついてからの一生は、そっくり蘭学に捧げられます。幼名を平七郎といい、二十四歳のとき玄沢と改めたので、磐水はその号です。
幼いころから、ほかの子どもとは違っていました。むやみに平凡な子どもたちと交わろうとしないので、伯父が「この子は必ず家を興すだろう」と言って、たいへんかわいがったといいます。
彼は大の煙草好きでした。しかし江戸にいた五十年のあいだも、郷里でとれた煙草を使い、たとえ人からの贈り物でも、名の知れた煙草を喫むようなことはありませんでした。飾らず実直な気風が、この一事にもよく表れています。

二大先輩に学ぶ
十三歳のとき、一関藩主・田村侯の医員で、オランダ流を名乗る外科医・建部清庵(たけべ せいあん)の門に入りました。
清庵はそんな辺鄙な土地にいながら、「オランダ医法といえば膏薬(こうやく)か油薬の類」とされていることに疑問を抱いていた人です。江戸へ出る門人に託して、オランダの事情に通じた学者に確かめようとしました。それがきっかけで、蘭学の先覚者・杉田玄白(すぎた げんぱく)と交わりを結ぶことになったのです。そんな師の感化を受けて、磐水にオランダ医法を修めようという決心が早くから芽生えていたのは、言うまでもありません。
清庵はかねてからの志を自分の子に託し、次男を江戸へ出すことにしました。磐水も藩主に願って三年の暇をもらい、ともに江戸へ上って玄白の塾に入ります。二十二歳でした。
蘭医といっても、まだ名ばかりの時代です。本当のオランダ医法を究めるには、広く原書を読みあさるにこしたことはない。そう思って玄白に願い出ましたが、「横文字を読み解くのはなかなか容易なわざでない。無謀な野心を起こさず、治療術を専心に勉強すればそれでよい」と、取り合ってもらえません。
しかし磐水は、清庵の志を受けて、蘭書の翻訳こそ自分の仕事だと決めていました。その決心は、どうしても翻せません。ひそかに塾の先輩に手ほどきを頼み、ふつうの人なら半年も一年もかかるところを、三、四十日でやり遂げてしまったのです。
これを知って驚いたのが玄白でした。玄白が晩年に書いた『蘭学事始(らんがくことはじめ)』には、こんな趣旨のことが記されています。この男は何事も実地を踏まなければ気が済まない。心に徹底しないことは口にも筆にも出さない。豪快さは薄いが、浮ついたことを好まず、オランダの究理学(きゅうりがく:物事の道理を究める学問)には生まれつきの才がある人だ、と。
それからというもの、玄白は毎晩、親しく机のそばに呼んで蘭学を講じ、翻訳の手伝いもさせました。下地のある磐水は、めきめき上達します。玄白としては、伝えられることはたいてい伝えてしまったし、治療のほうも忙しい。彼の望みをかなえてやるには、と、自分にとっても蘭学の師である前野良沢(まえの りょうたく)に頼んでくれました。こうして磐水は、蘭学、とくにその語学にひたすら打ち込むことになったのです。
玄沢という名は、玄白の「玄」と良沢の「沢」をもらったものです。二人の大先輩がどれほど彼の将来に期待していたか、分かるでしょう。磐水はそれを裏切りませんでした。
良沢のもとで修業しているうちに、博物(はくぶつ:動植物や鉱物の研究)に興味が向き、試みに訳したのが『六物新志(ろくもつしんし)』でした。訳してみて、彼は一つのことに気づきます。それまでは、オランダの単語をできるだけたくさん覚えて、前後の意味を考え合わせながら原書を読んでいました。しかし語の決まりや文法を知らなければ、正しい訳ができるはずがない。そう悟って、オランダ語の読み方そのものを明らかにしようと思い立ったのです。

最初の蘭学手引書
蘭書の読み方を正確に、根本から身につけるには、発音や書き方から順を追って研究しなければなりません。今日の私たちには想像もつかないほどの苦心でしたが、ついに要点をつかむことに成功しました。
さっそく書き始め、『蘭学階梯』と名づけます。しかし遊学三年の期限はもう尽きかけていました。前野良沢の計らいで藩に願い、留学の期間を二年延ばしてもらって、執筆を続けます。二年のあいだに原稿はだいぶ進み、郷里の一関へ帰りました。ところが、一緒に喜んでもらおうと思っていた師の建部清庵は、すでに世を去った後でした。
このまま田舎にいても仕方がない。ここまで研究を重ねてきたのだから、大都会にいれば世の中の役に立つことも多かろう。そう考えて江戸勤めを願い出て許され、ふたたび江戸へ出ます。『蘭学階梯』の草稿ができあがったのはその翌年、二十七歳のときでした。書き始めてから五年です。
江戸勤番の期間が満ち、やがて父が亡くなりました。一生を蘭学に打ち込むと決めた以上は、と旅費を工面して長崎へ修業に出ます。蘭学の修業のために長崎まで行った、三人目の人でした。通詞(つうじ:通訳)について学ぶつもりでしたが、通詞がオランダ語を解するといっても、だいたいは商売の話にすぎません。期待したほど得るものがなく、わずか五か月で引き揚げました。天明六年(1786年)五月のことです。
このころから彼の名は急に高まり、仙台侯は彼を抜擢して侍医とします。続いて幕府からも命じられ、蘭書の翻訳にあたることになりました。オランダ語の力はいよいよ進み、以前の草稿に物足りなさを感じるようになったので、あれこれ補い、直しました。『蘭学階梯』が印刷されて世に出たのは、天明八年(1788年)三月。三十二歳のときです。
ここで、当時の事情を少し説明しておきましょう。寛永以来、国の禁じるところだった蘭書を読むことは、享保年間に解禁されていました。しかし横文字を印刷して出すことは、まだ許されていません。つまらない俗書が、ほんのいたずらに使ったオランダ文字のために発禁になったことさえあります。杉田玄白の『解体新書』は、それを心配して、原語の文字を一字も入れなかったほどでした。
ところが、田沼意次(たぬま おきつぐ)が老中となって全権を握ること十年。その豪奢ぶりと、しきりに西洋の器物を好んだことが引き金になって、初めて原語の名を口にし、オランダ文字を使うようになりました。とはいえ、人に先んじて道を切り開く者の苦心は、たやすいものではありません。『蘭学階梯』の出版はこうした機運に乗ったものでしたから、少しでも蘭学に心を寄せる人々は争って買い求め、蘭学熱を大いにあおったのです。

『オランダ正月』
杉田玄白が著した最初の解剖学書『解体新書』は、蘭書翻訳の始まりでもありました。しかし何しろ手探りの時代です。頼りにできる辞書も文法書もなく、誤訳や抜け落ちが少なくありませんでした。あとから気づいたものの、玄白も前野良沢もすっかり年老いて、訂正の仕事には堪えられません。そこで玄白の意を受けて、磐水がその役を引き受けることになったのです。
彼の心血は、もっともここに注がれました。数十部の原書をつぶさに調べ、細かく実物と照らし合わせ、原稿を改めること三度。十年あまりをかけて、四巻の書を増やし訂正し、十四巻という大部の書物にまとめ上げました。
ほかにも著書はたいへん多く、『蘭説弁惑(らんせつべんわく)』『環海異聞(かんかいいぶん)』などが名高いものです。
医者としての腕がどれほどだったかは、はっきりしません。ただ、当時は薬を調合するとき、分量の単位に原語の名をそのまま使い、それぞれ一定していませんでした。これではどんな間違いが起こるか分からない。そう深く案じて『和蘭薬科分量図考』を著し、蘭方の医者たちに大きな利益をもたらしました。
彼はまた、「新元会(しんげんかい)」、俗に「オランダ正月」と呼ばれる会を開きました。毎年、冬至から十二日目に仲間の蘭学者たちを招き、率先して太陽暦の元旦を祝ったのです。寛政六年(1794年)からのことで、日本が制度として太陽暦を採用した明治六年(1873年)の改暦より、およそ八十年も早いことになります。
この会は磐水の死後も、その仕事を継いで名を挙げた子の玄幹(げんかん)が受け継ぎ、およそ五十年にわたって続けられました。代々学者の家で、孫には『言海(げんかい)』の編纂者・大槻文彦(おおつき ふみひこ)がいます。明治六年の改暦のときには、祖父磐水の昔をしのぶ「改元会」が催されました。
文政十年(1827年)の春の初め、持病が重くなって七十一歳で亡くなるまで、家塾・芝蘭堂(しらんどう)を開いてからの三十九年間に、彼が育てた後輩はおよそ百名にのぼります。その人々の業績もまた、大きなものでした。墓は城南の高輪東禅寺にあります。
「無謀な野心」と止められた横文字を、若者は三、四十日で読み解きました。そして師の二人から一字ずつをもらった名を、生涯かけて裏切りませんでした。
『蘭学階梯』を手にした人々が、次の時代の扉を開いていきます。闇夜の灯火は、一人の質実な学者の机の上から、確かにともされたのです。



