「今度は僕の番かな」
昭和五年(1930年)十一月、浜口雄幸首相が東京駅で狙撃されたと聞いたとき、蔵相の井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)はそうつぶやいたと伝えられます。一切の反対を押し切って金解禁を断行した人は、万一の覚悟を持っていたのでしょう。そしてその最期は、まさにそのとおりになりました。
凶変の刹那
昭和七年(1932年)二月九日の夜、おりしも衆議院議員総選挙の直前、前蔵相の井上準之助は、故浜口雄幸の親戚にあたる駒井重次の政見発表演説会の応援演説に行くため、候補者の駒井と自動車に同乗して会場へ向かいました。午後八時四分、その自動車は会場の本郷駒本小学校の裏門前に到着します。駒井がまず車から下り、続いて井上が下り、二、三歩歩き出した途端です。群集のなかから自動車のすぐそばまで来た一人の壮漢が、突如井上の右脇下にピストルを押し当て、引き金を引きました。駒井が振り返る間もなく、さらに第二、第三弾は井上の胸部に放たれます。あっと思った駒井は柔道仕込みの腕前を振るい、矢庭に躍りかかって壮漢の襟がみを取り、地上に投げ飛ばしました。会場からもどやどやと人々がなだれ出て、起き上がろうとする犯人をさんざんにステッキで殴りつけ、このときやっと駆けつけた警官に引き渡したのです。
駒井はすぐさま井上を自動車に助け乗せ、帝大病院に徐行させました。車体の動揺に、井上は二度ばかり「痛い」と叫びました。自動車は五分とかからず病院の外科室の玄関に着きましたが、そのとき井上はすでに昏睡状態におちいっていました。手術台の上に横たえられた彼の顔は白布におおわれて土のように青黒く、呼吸はほとんど聞き取れないほどで、もはやまったく絶望の状態です。弾丸は初発が右胸部を貫通し、あとの二発は体中にとどまり、すべて急所に命中していたのでした。
犯人は小沼正という血盟団の一員です。血盟団というのは、当時、井上日召(にっしょう)を首領とする一味の人々で、いわゆる一人一殺主義により政界財界の要路の巨頭を暗殺し、直接行動によって彼らの志す社会変革を画策したもので、越えて三月五日、団琢磨(だん たくま)もまた、ほかの一員菱沼五郎の手によって三井銀行の玄関前に倒れたのでした。

井上の閲歴
井上準之助は明治二年(1869年)、大分県に生まれました。同二十九年、東京帝大を出ると日本銀行に入り、営業局長からニューヨーク代理店の監督となり、転じて正金銀行の副頭取を経て大正二年(1913年)に頭取に昇進し、三島総裁のあとを継いで日本銀行総裁となりました。大正十二年、第二次山本内閣、いわゆる地震内閣の成立に際して大蔵大臣に就任し、関東大震災後におけるわが国財界の立て直しに努力しましたが、不幸にも同じ年の末、虎の門事件による山本内閣の引責総辞職で、いったん政界の外に出ます。そうして貴族院議員に勅選され、昭和二年(1927年)、再度日本銀行総裁となり、同四年七月、浜口内閣に迎えられて大蔵大臣に就任し、例の金輸出禁止を解いて、民政党の緊縮政策を実行したのです。浜口首相の凶変のあとを継いだ若槻内閣のもとにおいても、彼は引き続き蔵相としての敏腕を振るいました。若槻内閣瓦解ののちは民政党の筆頭総務となり、安達謙蔵に代わって選挙の総元締めをやり、事実上民政党の副総裁格として、その将来を嘱望されたのでした。ことにその最後においては、党の選挙委員長に推された関係から、候補者の公認に、軍資の調達に、野党としての辛酸をなめ尽くしたのです。

財界安定に奔走
この経歴で見ても分かるとおり、井上の前半生はきわめて順調な歩調を取って出世しました。むしろとんとん拍子といって差し支えないほど調子よく日本銀行総裁までこぎつけ、金融界の大御所をもって目されるに至ったのです。最初、大学卒業の当座、彼は法科を出た人だけに弁護士を志望したのですが、父親がこれに反対し、山本達雄に頼みこみ、その斡旋(あっせん)によって銀行人となり、日本銀行としては最初の洋行までさせてもらいました。しかし彼は山本内閣の成立に際し、自らその進路をふたたび転換させ、政界に向かって躍進したのです。
ときはちょうど大震災のあとで、日本の財政経済は、中央はいうまでもなく全国にわたって収拾のつかない状態に置かれていました。この状態を見た井上は、はじめて座った蔵相の椅子の上から、「よし、やろう。今こそわが腕を振るうべき国家存亡の秋(とき)だ」と叫び、悲壮な決意を固めました。それからというもの、彼はただひたすらに財界救済を当面の任務として努力を傾けます。その結果、モラトリアム(支払猶予令)の実施となり、震災手形の日銀再割引の損失補償となり、あるいは関税に、あるいは租税に、為替政策に、独自の手腕を発揮したのです。ただ遺憾ながら、山本内閣は虎の門事件の突発によりわずか四か月の短命をもって倒れたため、彼の抱負と経綸(けいりん:国を治める方策)は、その百分の一をも実際に行ってみることができませんでした。彼が政治家に、というよりも大蔵大臣そのものに未練を残した理由は、ここにあったのです。
彼は蔵相の職を辞するとまもなく世界漫遊の途に上りました。このとき彼の胸の底には、やがて次の機会に処するための大きな希望が燃えていました。ところが海外で会う人のほとんどことごとくが異口同音に、二度とふたたび政治家になるのはおよしなさいという意見を述べるのでした。井上はついに迷わざるをえませんでした。進んで政治家となるべきか、退いてふたたび財界に身を置くべきかと。帰国ののち、衆望を担って二度目の日銀総裁とはなったものの、「渋沢第二世」などともてはやされ、そうした第二世をもって任じる財界の世話役となるには、彼はあまりにも政界に対する熱望と自己の手腕とを持て余さなければなりませんでした。この熱望と満々たる自負心とは、やがてついに積極的な形をとって表面化します。すなわち浜口雄幸が内閣組織の大命を拝するに及び、彼は大蔵大臣に親任され、同時に民政党に加入し、翌年の一月には、かねての宿論であった金輸出解禁を断行し、さらに財界整理のため、その持て余す抱負を傾けて敏腕を振るったのです。そして昭和六年十二月、若槻内閣の瓦解とともに辞職するまで、専心財界のために努力を続けたのでした。

震災挿話
井上は信念の人でした。そうして実行第一の人でした。彼の「我輩でなければ」という向こう意気の強さは、一本調子の正直さから来ているのです。大正十二年(1923年)九月一日、あの大震災のとき、さしも堅牢を誇る日本銀行にも火が回って、内部は大部分焼けてしまいました。それでも全部焼け落ちたわけではありません。幸いに重要なものは焼け残っていると知った彼は、翌早朝、銀行に駆けつけました。しかしそこでは消防隊が一台の消防ポンプを据えて、手のつけようもなく取り巻いているだけでした。第一、非常に危険で、なかに入ることができないのです。けれども、どうしても何とかしてなかに入って焼け残った重要な品々を取り出さなければならない。集まった行員は消防手を頼みに右往左往するばかりで、誰一人飛びこむ者がありません。この有様を見た井上は、
「よし、俺が入る」
そう言って、まだ火傷しそうな熱気のなかに身を挺して突き進んでいったのです。

ドル買事件
一時世間を騒がせたドル買い事件は、イギリスの金再禁止の実施に端を発しました。昭和六年(1931年)の下半期に入るとイギリスの金流出は加速度的に増加し、正金銀行も台湾銀行もいち早く買い持ちのポンドの処分を始めました。ところが三井銀行はこの形勢を逆に見て、いわゆるドル買いに浮き身をやつし、わずか三、四週間のあいだに巨額のドルを買ったのです。そしてこのドルを売った者は誰かというと、井上蔵相の指図のもとにある正金銀行でした。井上としては、彼が苦心惨憺(さんたん)して実行した金解禁を根底からくつがえし、ふたたび輸出禁止に導こうとする敵がいる。この大敵を壊滅すべく猛然として立ったのです。その当面の大敵こそ、イギリス仕込みの池田成彬(いけだ しげあき)でした。
井上と池田の対抗は、すなわち金力と権力との対抗であり、金本位維持か再禁止かの大勝負でした。内相の安達は井上を訪ねて辞職を強要するという騒ぎとなり、その結末は時の若槻内閣浮沈の分岐点ともなりました。だが井上は断じて辞めません。あくまでもドル買い一派を粉砕しなければ、殺されても死なないと決心しているうちに若槻内閣の瓦解となり、彼もまた職を辞さなければならないことになったのです。その後、民政党内に勢力を得て次期総裁をもって目され、彼もまたそれを自負していました。それだけに彼は、大局に対しても大きな見通しを持っていたのです。昭和五年(1930年)十一月十四日、浜口雄幸が東京駅で狙撃されたとき、井上は「今度は僕の番かな」とそう言ったそうですが、ああいった強い性格の持ち主として一切の反対を押し切り、自己の信念に向かって邁進(まいしん)した人だけに、かねて万一の覚悟は持っていたのでしょう。そしてその最期は、まさにそのとおりでした。昭和七年二月九日、本郷で凶弾に倒れたまま、彼はふたたび起ちませんでした。政界人としてはまだ活躍盛りの、六十四歳でした。
燃える銀行に「俺が入る」と言った人は、金解禁でも、ドル買い事件でも、同じように真っ先に飛びこみました。正しいと信じたことを一本調子で押し通し、その代価を自分の命で払った人です。


