PR

井上十吉の生涯|9歳でイギリス留学を果たした「英学界の父」

井上十吉の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

「なあに、小父さん、同じ地球のうちだもの」

明治三年(1870年)、ヨーロッパへ向かう外国汽船の甲板で、慣れない洋服を着た九歳の子どもが、肩をたたかれてそう笑いました。徳島藩からロンドンへ留学する青年たちに混じった、いちばん小さな留学生です。名は井上十吉(いのうえ じゅうきち)。のちに発行部数二百万といわれる英和大辞典を作り、「英学界の父」と呼ばれる人です。

 

九歳でロンドン留学

明治三年といえば、維新の大業が成ってまだやっと三年目、試し斬りが禁じられ、平民に姓が許され、人力車が発明されたりなどした年ですが、不平党はいつ何をやり出すか分からないというわけで、風雲がまったく解消したとは言えませんでした。欧州へ向けて帰航の途につく外国汽船の甲板に、慣れない洋服を着て、徳島藩からロンドンに留学する数名の明敏な青少年に混じって、一人のいたいけな子どもがいました。とって九歳、文久二年(1862年)十月生まれの十吉です。

「これ、大丈夫かな」

肩をたたかれて、

「なあに、小父さん、同じ地球のうちだもの」

と笑っています。

「井上さんの坊っちゃんだけあって、見上げたものだ」

見送り人たちのあいだに感嘆の声のもれるのももっともで、こんな子どもを手離して海外に旅立たせる親も、凡骨であるはずがありません。父は高格(たかのり)といって、隠れた勤王の志士(昭和四年に従五位を贈られています)、のちの初代徳島市長、第一回の代議士、旧藩主蜂須賀侯の家令をつとめた人です。日本を新しく建て直すには、まず先進国に学ばなければならないと、藩生をイギリスへ留学させることになって、いの一番に候補に挙げられたのが、幼少から神童の誉れの高かった井上十吉でした。

 

燃える功名心

十吉ははじめ有名なラグビー校に学び、数学的な天分の才をもてはやされましたが、彼に遅れること五年、ちょうど彼がロンドン大学の入学準備を進めているとき、十八歳で渡英してきたのが、のちの帝国学士院院長・桜井錠二(さくらい じょうじ)でした。今と違い、日本人などほとんど見つけられない当時のことですから、異郷における二人の異才は兄弟のように強く結びつき、たがいに助け合い、励まし合って勉学にいそしみました。年齢の上でこそ四つ下の弟ですが、留学生としては立派な先輩なので、異郷の生活になじまない桜井に、手を取らんばかりの親切を尽くしたのです。

井上十吉は、当時何を学ぼうという目的があったわけではなく、何もかも新しく珍しいヨーロッパの文化を、乾いた砂が水を吸うように一心に吸収していったのですが、それで満足できる彼ではありませんでした。あれもやりたいし、これもやりたい。ほかの人たちが故国恋しく、形式のみを学んで急いで引き揚げてしまったあとも、彼だけは頑強に踏みとどまって、留学はついに十数年に及びました。彼の知嚢(ちのう:知恵の袋)は十二分にふくれました。自信をもって社会に活躍できる。こうして彼が心に錦を飾って帰国したときは、わが国の文化も大分進み、国会開設の詔勅が下り、自由民権の思想が一世を風靡(ふうび)しているころでした。彼の血は、功名心に躍らないわけにいきませんでした。

井上十吉の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

大雪の啓示

推薦する人があって、東北の鉱山へ奉職することになりました。鉱山のほうでは、新帰朝者を迎えて大いに優遇しようと待ちかまえています。そこへ意気揚々と乗りこんでゆくのですから、彼の心中、得意でないことはありません。冬のさなかだったので、汽車はいつか白銀の世界に分け入っていて、任地に近づくにしたがい、降りしきる雪はますますひどくなりました。外を見ようと顔をガラスに寄せるのですが、窓は紙を貼ったように、隙間もなく真っ白です。

「弱ったな」

と思っていると、突然、ががががが……汽車が急停車してしまいました。

「どうしたんだ!」

「どうしたんだ?」

乗客が騒いでいると、そこへ車掌がやって来て、「雪のために脱線して、もう動きません」といいます。何尺と積もった一面の雪野原、その吹きだまりに汽車が食いこんだのですから、あとから来る汽車で引き返して、どこかの田舎町に宿をとるよりしかたがありません。鉱山入りの日時はちゃんと打ち合わせてあったのに、これでは予定がすっかり狂うことになります。困ったというより、彼の得意な心持ちがびしりとへし折られた形でした。そしてこの味気ない思いは、彼の心境に一大変化をもたらしたのです。

「いっそ、鉱山入りは中止しよう」

そう決心すると、さっぱりしたもので、まっすぐに東京へ戻ってきました。九歳でロンドンに留学した彼です。東北の雪くらいにおびえたのではありません。小さな功名心を捨てて、遠大な理想に目覚めたのです。汽車の脱線が神の啓示だったのか、「自分の天職はほかにある」という考えが、熱湯のように胸の底から湧き起こったのでした。

井上十吉の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

英学界の父

彼の決心した方向転換は、十数年の留学で身につけた英語をもって身を立て、英語によって社会に寄与しようという抱負でした。彼は第一高等学校、早稲田大学、高等師範などに英語の講師として驚くべき学識を示し、正しい英語を植えつけるために心からの力を注ぐことになりました。底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和の初めには、著名な英学者で彼の教えを受けなかった者はまれなくらいだったといいます。

その後、一時、横浜のジャパン・ガゼットの記者をしたこともありましたが、日清の役に対する同紙の反日的な論調に憤慨して退き、やがて外務省から招かれて翻訳官に任じられました。また公使館二等書記官としてベルギー公使館に勤め、アメリカへ転じたりしましたが、日露戦争時代には外務省翻訳課長心得として外交上に尽くした功績も多く、従四位勲三等に叙せられています。大正五年(1916年)、大臣官房翻訳課長心得を命じられ、同七年に退いて外交官生活をやめてからは、著述と読書に没頭し、幾多の英和辞典、和英辞典を編纂(へんさん)して英語辞典界の先駆をなしました。なかでも公務の余暇を惜しんで全精力を傾倒し、明治の終わりごろに完成した英和の大辞典は、訳語の正確と語彙の豊富、そして割合に価格の低廉な、いわば辞典らしい辞典を持たなかった英学界に、砂地にしみこむ水のように迎えられ、ついに発行部数二百万に達したといわれています。底本の当時、各方面に活動していた知名の士や中堅、さらに学びつつあった青少年たちで、多かれ少なかれ、この英語学界の父の辞書あるいはその他の著書によって恩恵をこうむらない者があっただろうか、と底本は書いています。そのことを思えば、彼の功績の決して浅くないことが分かるのです。

彼の活動はそれだけにとどまりませんでした。いろいろの事情で学校教育を受けられないでいる者が多いのを思うと、それらの独学者のためにも英語を説かなければならないと考え、大正十三年(1924年)に始めたのが有名な講義録です。それは通信学校の創立以来、卒業生五十余万の成績を上げているといいます。ほかにも日英会話や英語読本など十数種を著しています。それによって英語の知識が広まったばかりではありません。日本の文明は英語を第一外国語として英語国民から入ってきたと言ってよいのですが、その意味で英語は文化の媒介をつとめたものであり、大正から昭和にかけてもっとも著名であった井上十吉の名は、近代文化史上に輝く明星の一つです。死後、天皇のお耳に達して銀杯一組を下賜されたのも、そうした功労を認められてのことに違いありません。

井上十吉の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

日本紹介に尽す

彼が海外にあったのは前後二十年にわたりますが、そのあいだ不満に堪えなかったのは、日本の事情があまりにも外国に知られていないことでした。彼が九歳で留学した明治初年のころなどは、日本の存在さえ徹底せず、中国の一部か何かに考えている者が多かったのです。自尊心をはなはだしく傷つけられるくらいはまだ忍ぶにしても、そこから起こる誤解が恐ろしい。それは往々にして国際的な感情をさえ損ないます。何年か外交官として生活した経験によっても、日本の真の姿を世界に認識させるのは重要な仕事でなければならない。たがいの国民に理解がなくて、国際の平和が成り立つはずがない。そう思ってくると、国内に英語を広めるだけではまだまだ不十分でした。したがって、著書として、あるいは海外の雑誌への寄稿として、彼は日本を紹介することにたゆまず努力したのです。英語を剣とし、盾として、実にめざましい奮闘をした人でした。こうして、小笠原長生(おがさわら ながなり)子爵の著『東郷大将伝』の英訳を脱稿しながらその出版を見ないで、これを英文著書の最後のものとして、昭和四年(1929年)四月七日、六十八歳で病没しました。

九歳で海を渡った子どもは、雪に止められた汽車のなかで、自分の進む道を決めました。二百万部の辞書も、五十万人の通信講義録も、日本を外国に伝える英文の本も、みな「同じ地球のうち」と笑った少年の延長線上にあります。

井上十吉の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました