寛永十一年(1634年)十一月七日。伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)の町はずれ、鍵屋(かぎや)の前の三叉路。
茶店の暖簾(のれん)の陰に身をひそめた一人の武士が、二尺八寸(およそ八十五センチ)の名刀を抜き放ち、らんらんと目を光らせ、じっと表をうかがいながら身構えていました。鎖帷子(くさりかたびら:鎖を編んだ防具)に鎖頭巾、たすきに鉢巻きも凜々しく、殺気を含んで表をにらんでいます。
彼はすでに、渡辺数馬(わたなべ かずま)と武右衛門、孫右衛門の三人に、戦いの手筈を授けてありました。
「生きると思うな。身をかわすな。斬らして斬れ、斬らして斬れ」
静かにそう言って三人を三方に潜ませ、彼は、昨夜泊まった島ヶ原(しまがはら)の宿を発ってこの辻にさしかかる河合又五郎(かわい またごろう)の一行を、今や遅しと待ち受けていたのです。
彼の名は荒木又右衛門(あらき またえもん)。柳生流の奥義を極め、義弟のために助太刀に立ち、日本三大仇討の一つに数えられる「伊賀越の仇討」を成し遂げた剣客。その生涯に迫ります。
天下の伊賀越
やがて馬のひづめの音、人の声。「来たな」とうかがっていると、いちばん先頭に来たのは、又五郎の妹婿で大坂の町人の虎屋(とらや)でした。菅笠をかぶり、馬に乗ったまま通り過ぎます。
次に来たのが、やはり又五郎の妹婿で、十文字槍の使い手として名高い桜井半兵衛(さくらい はんべえ)。「霞(かすみ)の構え」をとれば天下に敵なしと言われた男です。笠もかぶらずに通りました。それから又五郎が、陣羽織姿で馬に乗って来ます。又右衛門がこちらからちらりと見ると、向こうの軒先にいる数馬は、しっかりと足を踏みしめて構えていました。
最後に、又五郎の叔父で剣の腕に名のある河合甚左衛門(かわい じんざえもん)が、鎖頭巾を目深にかぶり、栗毛の馬にゆったりと乗ってやって来ます。
荒木がさっと頭で暖簾を分けた瞬間、二人の目が合いました。甚左衛門がはっとして、とっさに刀の柄に手をかけようとした、その一瞬です。
「甚左っ!」
虎が吠えるような激しい気合とともに、又右衛門の大刀が額に打ち下ろされました。続いて二の太刀。厚着で身が重かった甚左衛門はかわしそこね、左の肩を深く斬られます。立ち直ろうとしましたが、たちまち体の釣り合いを失い、どっと馬から落ちました。

続いて桜井半兵衛も、又右衛門の刀の錆(さび)となります。ほかの付き人たちも、斬られるか、追い払われるかしました。そして渡辺数馬は、又右衛門に励まされて、ついに河合又五郎を討ったのです。これが世にいう伊賀越の大仇討です。
「上野の仇討、三十六人斬り」などと語り伝えられていますが、あれは講釈師たちが作り上げた講談です。実際は、当時の公文書ともいえる『累世記事(るいせいきじ)』にあるとおり、死者は又五郎方が六名、数馬方が一名にすぎませんでした。
では、なぜこの事件がこれほど大きな問題となり、これほど人の口にのぼったのでしょうか。理由はいろいろありますが、最も大きかったのは、事件の背後で動いていた旗本と大名の対立でした。できたばかりの幕府をも揺るがすほどの、根深いもつれです。

剣客
荒木又右衛門は慶長三年に生まれました。父は服部平左衛門(はっとり へいざえもん)といい、渡辺数馬の父・内蔵助(くらのすけ)と同じころに藤堂高虎(とうどう たかとら)に仕えて、百五十石を取っていた人です。
少年のころ、こんな話があります。ある日、又右衛門は友だちと山へ遊びに行き、日が暮れてから帰ることになりました。近道を行けばずっと早いのですが、山賊が出るという噂がしきりだったので、又右衛門は回り道を行こうと言います。「怖いのか」と友は鼻で笑い、どんどん行ってしまいました。仕方なく後をついて行くと、人相の悪い大男が木陰に大の字になって寝ています。
「山賊だ。ひとつ肝を冷やしてやろう」
友は岩の上から小便をひっかけました。びっくりした山賊がどんぐり眼をむいて見ると、子どもが二人、平気な顔で立っています。「こいつは面白い奴だ」と、山賊は二人と一緒に歩き出しました。先の子どもはすっかり不気味になって、強がって歌おうとする声も震えがちです。ところが後から来る又右衛門は、じつに朗らかにニコニコ顔で歩いていました。
「はっはっは、小便をかけたこっちのよりは、このニコニコ顔の坊のほうが、よっぽど肝っ玉が太いぞな」
山賊はからからと大笑いして立ち去ったということです。

又右衛門は十二歳のとき、姫路の本多侯の家臣・服部平兵衛(はっとり へいべえ)の養子になりましたが、事情があって離縁となり、元和八年(1622年)に姫路を去って、郷里の伊賀国荒木村(現在の三重県伊賀市)に帰りました。荒木という姓は、この村の名から取ったものです。
そして大和国柳生村(現在の奈良市柳生町)の正木坂(まさきざか)にあった柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の道場に入り、剣を修行します。日夜鍛錬を重ねて柳生流の奥義を極めました。武名が知られて、郡山(こおりやま:現在の奈良県大和郡山市)の城主・松平下総守(まつだいら しもうさのかみ:松平忠明)に召し出され、二百五十石を賜ります。こうして又右衛門は、すぐれた剣客として技を磨き、弟子を育て、ひたすら剣の日々を送っていたのでした。

源太夫殺し
寛永七年(1630年)六月二十一日の宵。備前岡山の榎の馬場は、城主・池田忠雄(いけだ ただかつ)の世継ぎの誕生祝いを兼ねた、にぎやかな盆踊りにどよめいていました。
歌と笛太鼓に合わせて手ぶり足拍子もはなやかに舞い踊る若者たちを、忠雄は心地よげに眺めています。機嫌はことのほかよく、いかにも満足そうでした。その前に突然、あわただしく手をついた近習(きんじゅ:主君のそば近くに仕える者)がありました。
「申し上げます。ただいま、渡辺源太夫(わたなべ げんだゆう)が斬られ……」
「何っ」
忠雄の顔色がさっと変わりました。忠雄がことのほか目をかけていた渡辺源太夫は、その晩、病気気味で一人家に臥せっていました。それが、河合半左衛門(かわい はんざえもん)の子・又五郎に斬り殺されたのです。
すぐさま追っ手が八方へ飛びました。刀の鞘まで捨てたまま夜の闇にまぎれて逃げた又五郎は、一時は縁のある者のもとに身を隠していましたが、危険を感じて、ついに江戸まで逃げ、旗本の安藤治右衛門(あんどう じえもん)の屋敷にかくまわれました。
なぜ安藤は又五郎をかくまったのでしょうか。そのいきさつは、かなり入り組んでいました。
もともと又五郎の父・河合半左衛門は、安藤右京進重長(あんどう うきょうのしん しげなが)の家来でした。ところが同じ家中の伊能五郎左衛門(いのう ごろうざえもん)を斬り、逃げて池田忠雄の登城の行列に駆け込み、保護を願ったのです。忠雄はただちに承知し、安藤家からの使者にも言葉を濁して河合を渡さず、そのままなし崩しに家臣にしてしまいました。その安藤家が、安藤治右衛門の本家にあたっていたのです。
一つには、この昔からの恨みを晴らすため。もう一つには、旗本たちの積もり積もった不満です。三河以来、徳川氏と苦労をともにしてきた譜代(ふだい)の旗本たちには、大大名への反感がありました。大名たちは、家康や秀忠とともに豊臣の家臣だった時代の「同僚意識」を、今なお徳川将軍に対して抱いている。それが旗本たちには面白くない。「目にもの見せてくれん」と、かっと燃え上がったのです。この二つが、安藤治右衛門をはじめ、阿部四郎五郎・久世三四郎・長坂血槍九郎(ながさか ちやりくろう)ら荒くれ者たちが又五郎をかばう動機になったのでした。

仇討
こうなると、事はすんなり運ぶはずがありません。池田家は再三、又五郎の引き渡しを求めましたが、はねつけられます。相手の言い分を受け入れて又五郎の父・半左衛門を引き渡したときも、まんまと計略にかかって取られたきりになり、護送にあたった者は切腹して果てました。
池田家は、意地でも三十一万石を棒に振っても又五郎を取る、と言います。旗本は旗本で、刀にかけても渡さぬと頑張る。旗本一同はものものしく動き、池田一門は縁続きの伊達忠宗(だて ただむね:伊達政宗の子)まで渦中に巻き込んで、騒然とした情勢になってきました。
これは天下の大事だ、と老中のあいだでも議論が重ねられます。そのなかで、知恵伊豆こと松平信綱(まつだいら のぶつな)はついに意を決し、幕府の典医(てんい:幕府お抱えの医師)にひそかに命じて、池田忠雄を毒殺せねばならない羽目になった——底本はそう記しています。
「む、無念じゃ。読経などはいらぬぞ。墓の前に、きっと又五郎の首を……」
そう言いながら、忠雄は悶死(もんし:苦しみもだえて死ぬこと)したといいます。
上意討ち(じょういうち:主君の命による討伐)のため岡山を発った源太夫の兄・渡辺数馬は、寛永九年(1632年)、郡山へやって来ました。そして、ちょうど門弟に稽古をつけていた姉婿の荒木又右衛門に会い、助太刀を頼んだのです。

武士道
又右衛門は武士道のために助太刀を快く引き受け、郡山の松平侯に暇を願い出て、寛永十年(1633年)の春、数馬とともに、武右衛門と孫右衛門を連れて江戸へ下りました。
そのとき師の柳生宗矩に会い、柳生の高弟として、寛永十一年(1634年)九月二十二日、あの吹上御殿の上覧試合に出ます。二天一流の祖・宮本武蔵の養子・宮本八五郎と華々しく勝負して相打ちとなり、神技ともいうべき剣技で満場を揺るがした——と底本は記しています。

まもなく、又五郎が旗本たちの手で西国へ落とされたと聞き、又右衛門たちはふたたび摂津へ帰ってきました。京阪一帯を探し回り、奈良へ来て、思いがけず又五郎の隠れ家を突き止めます。そして彼らがまた江戸へ下ろうとする道を伊賀越で待ち伏せ、ついに長年の本懐を遂げたのでした。
幕府は、この事件の処分を上野の領主・藤堂家に任せました。ところが池田家は、この又五郎事件のために岡山から鳥取へ国替えになったほどですから、数馬の帰藩と又右衛門の召し抱えを強く申し出ます。すると郡山の松平家も、伊賀越の武者ぶりで天下に剣名をうたわれるようになった荒木を手放す気になれず、ぜひ当方へ戻してくれと言い出しました。この三家の三つ巴のいざこざのために、又右衛門たちは足かけ五年も上野に留め置かれることになったのです。
ようやく寛永十五年(1638年)、池田家の知恵者・荒尾志摩(あらお しま:鳥取藩家老の荒尾成利)の働きかけが幕府を動かしました。又右衛門はともかく数馬の道中を守って鳥取まで送り届け、そのあと松平家へ戻るべし、ということになります。
又右衛門は鳥取に着くと、すぐ郡山へ帰ろうとしました。しかし池田家は、頑として帰そうとしません。帰らなければ自分の武士道が立たない——又右衛門の苦しみは深いものでした。彼は鳥取へ来て二十日足らずのうちに亡くなります。憤死したともいわれています。
鳥取市の玄忠寺(げんちゅうじ)にある彼の墓の石面には、「寛永十五年寅暦八月廿八日」「伊州阿拝郡荒木村住 荒木又右衛門保和 生年四十歳」とあります。





