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麻田剛立の生涯|日本で初めて地動説を唱えた天才天文学者の生涯

麻田剛立の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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宝暦三年(1753年)、豊後(現在の大分県)の杵築(きつき)の城下で、二十一歳の若者が不思議なことを言い始めました。

「来年、宝暦四年の暦には日蝕の記事がない。だが、九月の一日には必ず日蝕がある」

暦は幕府が作るものです。それに誤りがあると言い切る若者を、誰がまともに相手にしたでしょうか。

ところが翌年の九月一日、本当に日蝕が起こりました。人々はその的中に驚き、父の門人であった三浦梅園(みうら ばいえん)は、手紙を寄せて若者の才能をほめたたえたのです。

麻田剛立(あさだ ごうりゅう)。江戸時代の天文学の先駆者と呼ばれた人でした。

 

※注:この記事は昭和11年(1936年)刊の底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』)を訳したものです。底本は麻田剛立を「日本で初めて地動説を唱えた人」「望遠鏡を発明した人」と讃える立場で書かれ、小見出しもそのままにしてありますが、これらは現在の理解と異なります。地動説は麻田より前に長崎の通詞・本木良永が訳書で紹介しており、望遠鏡は十七世紀の初めに日本に伝わっています。それぞれの箇所に※注で断りました。底本には「支那」など当時の呼び方があり、この記事では現在の言い方に改めました。

 

天文学の先駆者

 

麻田剛立は、杉田玄白(すぎた げんぱく)より一年遅れて、享保十九年(1734年)に生まれました。豊後国杵築藩の儒者・綾部絅斎(あやべ けいさい)の次男です。

成長するにつれて天文の学問を好み、あわせて医学も修めました。そして二十一歳のとき、冒頭に書いた日蝕の予言で、人々を驚かせたのです。

明和の末、彼は藩の侍医に抜擢され、藩主に従って江戸へ行きました。そのとき、江戸の天文台も見学したようです。杵築に帰ると、天文の研究だけに打ち込みたいと決意し、しきりに辞めたいと申し出ました。しかし許されません。とうとうたまりかねて藩を抜け出し、大阪に隠れました。姓を麻田と改め、医者を生業にしながら、熱心に天文学の研究を続けたのです。二十八歳のときでした。

 

※注:剛立はもと綾部姓で、脱藩後に麻田と改めました。脱藩は安永元年(1772年)で、このとき剛立は三十九歳です。底本の「二十八歳」は、明和の末に侍医になったという記述とも合わず、誤りとみられます。宝暦四年(1754年)の日蝕の予言は、幕府の暦(宝暦暦)の不備を突いたもので、剛立の名を世に知らせた出来事として伝えられています。

 

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初めて地動説を唱ふ

 

大阪に出てからの剛立は、毎晩、自分で作った窺天鏡(きてんきょう:天をのぞく鏡、つまり望遠鏡)を手に庭に出て、寒さも暑さもいとわず、観測を続けました。それが九年におよびます。

まったくの独学です。それでも彼の非凡な才能はぐんぐん伸び、ついに天文と暦の学問を大成するにいたりました。名前が遠くまで知られるようになると、諸大名が礼を尽くして召し抱えようとします。しかし剛立は「杵築の藩主をさえ棄てて退去したほどだから」と言って、誰の招きにも応じませんでした。ひたすら自分の学問に打ち込んだのです。

こうして明和六年(1769年)、星々の動きの理を究めた彼は、大胆にも地動説を発表して世間を驚かせました。それから十年あまりして、中国語に訳された西洋の天文書が日本に入ってきましたが、その内容は剛立の説とまったく同じでした。日蝕の予言のとき以上に人々は驚き、大きな評判になったといいます。

当時のヨーロッパでは、地動説はすでに学界の定説でした。しかし日本には、まだこの新説は紹介されていません。そのころ西洋の文化を日本に伝えていたのは主にカトリックの宣教師たちで、彼らは古い天動説を守っていたのです。あるとき、やはり天文学に興味をもっていた三浦梅園が、天動説に疑問を抱いて剛立に尋ねたことがありました。そのときの剛立には、まだはっきり答えられるほどの自信がありませんでした。それが大阪に出て、一心に空を測り続けた結果、独自に地動説を唱えるまでの確信を得たのです。

 

※注:小見出しの「初めて地動説を唱ふ」は底本のものです。日本に地動説を初めて紹介したのは、安永三年(1774年)に『天地二球用法』を訳した長崎の通詞・本木良永とされ、志筑忠雄の『暦象新書』や司馬江漢の『和蘭天説』がこれに続きます。剛立が明和六年に独自に地動説に到達したという底本の記述は、確かな資料で裏づけられていません。剛立の学問上の功績は、実測にもとづいて暦の誤差を正す「消長法」を考え出したことや、惑星の公転周期と軌道の大きさの関係(ケプラーの第三法則にあたるもの)を独自に見出したことにあるとされています。

 

 

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幕府の聘を辞し、門弟を推す

 

剛立が大阪で天文を教え始めると、弟子入りする者が次々に現れました。なかでも高橋作左衛門(たかはし さくざえもん:至時)、間重富(はざま しげとみ)、山片蟠桃(やまがた ばんとう)は、のちに頭角を現した弟子たちです。

高橋は大阪定番同心という幕府の小役人でしたが、幼いころから暦の計算を好み、麻田の門で天文を学ぶうちに、当時の暦が寛政七年正月元日の日蝕を記していないことを残念に思い、改暦の必要を幕府に申し出ました。そこで幕府に、暦を改める議論が起こります。

ところが当時の天文台には、この大事業を担当できる人物がいません。幕府は麻田剛立を天文方として招こうとしました。しかし剛立はその役につくことを固く断り、弟子の作左衛門と間五郎兵衛(重富)の二人を推薦したのです。寛政七年(1795年)のことでした。それから三年後、この二人の手で新しい暦が完成します。これが「寛政暦」です。

 

※注:底本は間重富の名を「間大業」「間五郎兵衛(大業)」と記しています。五郎兵衛は通称で、諱(いみな)は重富です。高橋至時と間重富は寛政七年に幕府天文方に登用され、寛政暦は寛政九年(1797年)に完成、翌十年から施行されました。

 

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望遠鏡を発明す

 

剛立と同じころ、長崎の中野柳圃(なかの りゅうほ:志筑忠雄)が『暦象新書(れきしょうしんしょ)』という本を著し、その第三巻で宇宙の起源についての自説を述べました。それは一七九六年(寛政八年)にラプラスが初めて発表した星雲説と同じ根拠をもつ卓論だと評判になりましたが、柳圃はオランダの本をもとに書いたのですから、その学説にはよりどころがありました。三浦梅園も二度まで長崎へ行って、オランダの説を聞いています。

ところが剛立だけは、オランダの本にまったく頼らずに、同じ結論にたどり着いたのでした。しかもその学識は、新しく入ってきた西洋の学説とぴたりと一致していたのです。そのうえ彼は「曲折鏡」という天体観測の器械を発明しました。これが今日の望遠鏡の始まりです。

当時、蘭学は急速に進歩しつつありましたが、その中心は医学で、範囲はまだ狭いものでした。しかも蘭学は江戸と長崎を中心に発達したものです。麻田剛立は関西一の大都会・大阪の町なかに住み、江戸・長崎とは別の一派を形づくっていました。剛立の天文観測が、実験を重んじる蘭学の人々にとって心強い応援になったことは疑いありません。

剛立が当時流行の蘭学からまったく独立して、自分の力だけで学説を打ち立てたことは、中井蕉園(なかい しょうえん)の書いた碑文にもはっきり記されています。ただし晩年には、彼も西洋の学説を取り入れて、自分の学問を広げました。こうして、江戸と長崎を中心とし、剛立を祖とする大阪を別派として発達した江戸時代の科学は、やがて江戸の天文台や蕃書調所(ばんしょしらべしょ:幕府の洋学研究機関)に集められ、明治維新とともに東京大学・帝国大学となって現れます。出発の時点で一、二世紀の遅れがあった日本は、こうしてヨーロッパに追いついていったのです。

 

※注:小見出しの「望遠鏡を発明す」も底本のものです。望遠鏡は十七世紀初めにオランダで発明され、日本には慶長十八年(1613年)にイギリス使節が家康に献上したのが最初とされます。剛立が作った「曲折鏡」は反射望遠鏡の一種と考えられ、自分で望遠鏡を工夫したことは確かですが、望遠鏡そのものの創始者ではありません。中野柳圃は志筑忠雄の別名で、底本の「志築忠次郎」は通称です。中井蕉園は懐徳堂の中井竹山の子で、剛立の碑文を撰した儒者です。

 

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剛立の後継者

 

では、この非凡な学者・麻田剛立の地動説を受け継ぎ、広く世に紹介したのは誰だったのでしょうか。弟子の山片蟠桃です。

蟠桃はもと播州加古川(現在の兵庫県加古川市)の人でしたが、当時大阪で仙台藩など東北の大名に金銀を融通していた升屋(ますや)の番頭になり、のちに剛立の門に入って天文学と儒学の両方を学び、東西の学問を折衷した独特の実学者になりました。

蟠桃の著書『夢の代(ゆめのしろ)』は、剛立の説を紹介した本として天文学の世界に知られています。享和二年(1802年)の作で、「夏の日の昼寝の代わりに書いた随筆」だと本人は言っていますが、おそらく謙遜でしょう。でなければ、目くらましだったのかもしれません。というのも『夢の代』は、天文地理、神代、歴代の制度、経済、経書、雑書、異端、雑論と、じつに広い範囲を扱っているばかりでなく、言論の自由がほとんどなかった当時に、よくもここまで書けたと思うほど大胆で率直な意見を述べているからです。そして天文地理の部で、「当時は禁制だった地動説」を主張しているのです。

『夢の代』第一巻の天文学は、今日の学説から見れば言うに足りないものかもしれません。しかし当時は、一般の人々はもちろん、知識人の多くまでが「天地は瓢箪のようなものが三段に重なってできていて、天・地・迷界の三つになる」などと信じていた時代です。そのなかで地動説を論じ、恒星も太陽の仲間だという説を紹介し、引力を説き、潮の満ち引きの理を講じ、東西の暦法の長所短所を比べ、春分を元日とする新しい暦を自作した。これは抜群の学力と言わなければなりません。

一例を挙げましょう。蟠桃は『夢の代』の中でこう述べています。火星から見た地球は、地球から見た金星のようなものであり、金星から見た地球は、地球から見た火星のようなものである。互いに相手の動きを見るのだから、木星と火星、水星と金星の関係も同じように考えればよい——。そして西洋の新しい方法は、五つの惑星が回転するのを見て、天の回転は地球の回転から生じるとし、恒星は動かない火の球で太陽と同じだとする。歳差(さいさ:春分点がゆっくりずれる現象)は地軸の変動から生じ、地軸の変動は地球が南北に偏っていることから生じ、その偏りはまた回転から生じるとする。こうした観測の精密さを知るべきで、インド・中国そして日本の及ぶところではない、と記しているのです。

これによって私たちは、剛立の学問の一端を、間接にうかがい知ることができます。剛立自身も一七八六年に『実験録推歩』を著し、『消長求食』と名づけた著述も残していますが、今日ではほとんど伝わっていません。だから、山片蟠桃が麻田剛立の地動説を受け継いで世に紹介したのは、ニュートンが引力の法則の発見によって、コペルニクスが最初に唱えた地動説を揺るぎないものにしたのに似ているではありませんか。

このように、江戸時代の天文学の先駆者であり、独学で独創的に地動説を唱えた麻田剛立は、日本の科学史に欠かせない天才であるばかりか、世界の天文学史にも記されるべき人物でした。それなのに、その名はあまり知られていません。とくに海外では、彼の名を知る者はきわめてまれでしょう。まことに残念なことです。ともあれ、今から二世紀も前に、この東の海の島国で独自に地動説を唱えた者がいたと聞いたら、ヨーロッパの学界はあらためて驚きの目で日本を見るでしょう。日本ではさすがにその功績が認められ、大正五年(1916年)十二月、従四位を贈られました。この学界の偉人は、寛政十一年(1799年)、六十六歳で亡くなりました。

 

※注:山片蟠桃の『夢の代』の引用は、底本が引く原文の趣旨を現代の言葉に直したものです。剛立の没日は寛政十一年五月二十二日で、享年六十六は数え年です。「消長求食」は一般に「消長法」と呼ばれる剛立独自の暦法で、年によって太陽年の長さがわずかに変わると考えて暦の誤差を正そうとしたものです。月のクレーターの一つは、剛立の名をとって「アサダ」と命名されています。
【その後にわかったこと】剛立の名は、底本(昭和11年刊)の後、月の上に刻まれました。1976年(昭和51年)、国際天文学連合は月面のクレーターの一つに「Asada(アサダ)」の名を与え、剛立は月にその名を残す数少ない日本人の一人になりました。剛立が自作の望遠鏡で月の表面を観察し、そのスケッチを残したことにちなむ命名です。また、剛立の学統から弟子の高橋至時・間重富が出て、至時の弟子が伊能忠敬であることから、剛立は「伊能図の源流」としても語られるようになっています。

 

 

麻田剛立の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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