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大岡忠相の生涯|「大岡裁き」で知られる名奉行!江戸の平和を築いた至誠の政治家

大岡忠相の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「奴は小網町珠数屋の伝公じゃねえか。しかし四月まで珠数屋にいたあいつが、三月に放火とは変だなあ」

火付け盗賊の罪で町中を引き回され、小網町にさらされた男を見て、誰かがそうつぶやきました。ちらりと耳にはさんだ奉行は、さっそく与力を珠数屋に走らせ、火事の当日その時間に男が家にいたことを確かめて再審に付し、火あぶりの刑から救い、賞金ほしさに男を捕らえた手先を死罪にしました。名判官の代名詞、大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)。「大岡裁き」の人の生涯です。

 

※ 世に「大岡政談」として伝わる裁きの話には、底本の『日本英雄伝』自身が断っているとおり、後人の創作や脚色が多く含まれています。山田奉行時代の裁決で吉宗に見込まれたという話も伝説です。この記事は底本の語るところをそのまま伝えています。

 

快刀乱麻

正徳のころまで、山田町と松坂町とのあいだは境界のことで揉め続けていました。これを真っ直ぐに裁判すれば当然山田方の勝ちとなるのですが、そう裁くと松坂町が紀州侯の領地なのでその怨みがこちらへ飛ぶのを恐れ、代々の山田奉行はその問題を有耶無耶にしたまま過ごしていました。だから奉行の代わり目ごとに必ず訴訟が起こりました。正徳二年(1712年)正月、奉行の更迭に際して、またもやこれが白洲に持ち出されました。と、果然。

「何とてこの非理を裁かざりしや。憎みても余りある奴ばらは松坂方の者ども。紀州殿の御威光を笠に着たるこの暴状、所払いにせんと思えども、かくては向後の見せしめとならず。即刻、頭取三人を打ち首に申しつくべし!」

と、一日にしてこの長年の難訴訟に快刀乱麻の裁断を下した新奉行は、同月十一日に江戸から赴任して来たばかりの大岡忠相でした。当時、越前守年三十六。富貴におもねらず、権勢に屈せず、断固として下したこの裁決は、当時まだ紀州にあった吉宗に聞こえ、「あっぱれ千里の駒の器量よ」と称えられ、やがて吉宗が徳川八代将軍となるや、越前守を抜擢して重用するに至る端緒となりました。

越前守は延宝五年(1677年)正月元旦、大岡忠高の四男に生まれ、幼名を求馬、のちに市十郎、通称を忠右衛門といいました。十歳のとき同族忠真の養子となり、元禄十五年、二十六歳当時に御書院番となり、相次いで御徒士頭に進み、御使番に移り、御目付を経て、正徳元年、三十五歳にして、当時幕府最高の裁判所であった評定所出仕となりました。この今日における最高裁判所にも比すべき評定所は、早くから認められていた越前守の偉才をますます輝かせ、ついに一躍、山田奉行の重職に就かせることになりました。ここにとどまること五年にして、享保元年(1716年)、御普請奉行に栄転し、翌享保二年、かねて彼の才幹に注目していた将軍吉宗に抜擢されて江戸町奉行となり、名判官越前守としていよいよ異彩を放つことになったのです。

 

※ 底本は江戸町奉行への抜擢を普請奉行と同じ「その年」としていますが、南町奉行就任は享保二年(1717年)二月です。

 

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大岡裁判

越前守といえばただちに名判官の代名詞となり、明治以降に至ってもなお「大岡裁判」なる用語が生命を持っています。その彼の偉大さは、事にあたるに際しての至誠と人間味から湧き出たものにほかなりませんでした。世に『大岡政談』とて彼の事蹟を伝えたものは真に枚挙にいとまがないほどですが、その一、二を眺めても彼の風貌がほぼ想見されるでしょう。

ある日、無商売で相当に暮らしている者がある、という訴えがありました。越前守はその者を呼び出し、

「その方は地捜(じさがし)か」

「さようにござりまする」

「許してやれ」

越前守は座を立ちました。また近くの寺院へ女犯の手引きをするとて、肴売りを訴えたものがありました。と、

「その方は南向きか、北向きか。南向きならば大目に見てつかわそうが、北向きならば許さぬぞ」

「南向きにござりまする」

「うむ、立て!」

と放免しました。あとで与力が、どういうことでござりまするか、と聞くと、「さようなことで町与力が勤まるか。南向きとは僧の肴を食うこと、北向きとは女犯のことぞ」と言いました。また地捜とは夜中に道路に落ちているものを拾い、それを売って生活を立てている者のことでした。このように越前守は、町の裏の暮らしや隠語まで心得ていたばかりでなく、人情の機微に通じ、民事に属する訴訟出入筋なども、これを判決に待たず、原被両者自ら反省のうえ和解の方法をとらせるのを独特の長所としました。

享保中、下谷の肴町からあたりの寺院に対する肴代請求の訴えが出たとき、彼は寺僧どもを呼び出して夕方まで待たせておきました。退屈した彼らは代わる代わる厠へ行きました。すると壁に墨黒々と張り紙があり、いちいち寺の名を挙げて肴代滞り金何両と書き立ててあります。やがて用人が出てきて「今日は越前守殿ご不快につき、ひとまず引き取られよ」と伝えたので、僧たちはあわてて飛び帰って肴代の滞りを支払いました。また紀州邸における薪代の滞り千二百両請求を薪屋が訴訟した際は、越前守は紀州邸の勝手役人を呼び寄せ、薪屋に帳面を出させたのち、紀州邸役人の面前で、「これはその方の損失じゃわい」と帳面に墨棒を引きました。紀州邸の役人はこの旨を帰って語りました。すると、それは捨て置けぬとあって、滞り金は全部支払われたのです。

越前守が至誠をもって事にあたった一例としては、杢右衛門事伝兵衛の事件があります。享保十年(1725年)にこの男が火付け盗賊の罪名で捕らえられ、町中を引き回しのうえ一日小網町にさらされました。そのとき、「奴は小網町珠数屋の伝公じゃねえか。しかし四月まで珠数屋にいたあいつが、三月に放火とは変だなあ」と誰か見知りの者が言っているのをちらり耳にはさんだ越前守は、さっそく与力を珠数屋にやって取り調べ、火事のあった当日その時間に家にいた旨を確かめさせ、改めて再審に付して伝兵衛を火あぶりの刑から救い、賞金ほしさに彼を逮捕した手先を死罪に処しました。このように越前守は、天性の英才に加えるに赤心と愛情をもって政務にあたり、しかもなお処断を誤ることを恐れて、常に瞑目して顎髭を抜きつつ、じっと心を静めて断獄しました。彼の裁きにかかるものとして今に喧伝される天一坊事件、白子屋お熊、煙草屋喜八、村井長庵、直助権兵衛、越後伝吉、傾城瀬川、畦倉重四郎、小間物屋彦兵衛、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋一件、雲切仁左衛門、津の国屋お菊、水呑村九助などの諸事件中には、あるいは後人の偽作にかかり、あるいは古今の事例からの翻案、あるいは事実の誇大歪曲などのものもありますが、しかしかくまでも世道人心に反響を与え、かくも並ぶ者なき名判官ぶりをうたわれるに至るには、そこに動かすべからざる越前守の偉大さを認めなければなりません。

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巨大なる治績と貢献

越前守は単に司法官として偉大であったのみならず、また行政官としても経世家としても文化人としても、巨大な治績と貢献とを残しています。彼が江戸町奉行として市民に貢献した一つは消防でした。当時江戸市中における火災は実に惨烈をきわめ、慶長以来の諸大名の邸宅および町家を一朝にして灰燼に帰せしめ、全市の大半を焼き尽くした明暦の大火をはじめ、頻々として惨害の絶えるときなく、万治三年(1660年)などは正月から三月末までに百五回の火事を見たと底本はいいます。越前守は江戸の火災根絶策を種々講じ、あるいは飛び火を防ぐために明き地を設け、あるいは屋根の瓦葺きを奨励し、あるいは板葺きに土を塗らせ、ついに享保三年(1718年)、一町内ごとに消防人足を定めて、後世のいわゆるいろは組の濫觴をなしました。

ついで彼の着手したものは私娼退治でした。享保年間における江戸の人口約七十五万人中、女子はその三分の一にすぎませんでした。この女人払底状態は必然的に私娼跋扈となりました。越前守も欲求に対する唯一の安全弁たる吉原をやむをえずと認め、私娼を撲滅して公娼を保護する政策をとりました。そしてその取り締まりが厳重をきわめたので、享保九年ごろにはほとんど私娼がその跡を絶ちました。彼はまた風紀取り締まりのため出版法の制定をなし、出版に関する成文法の先駆をなしました。また札差(ふださし:旗本・御家人の米の換金を扱う商人)が一種の金融機関として暴利をむさぼるのを防ぐために札差の株を限定し、大阪に米相場所を設立し、米の売買管理によって米価の調節をはかり、あるいは有志を募り部下を派遣して水利土木の大工事を起こさせ、土地を開墾してその地に移民を送り、よくこれを保護して発展させるなどの方面にも多くの力を用いました。彼の支配のもとに開墾された田地のなかでもっとも顕著なものには、武蔵野新田八十二か村があります。さらに特記すべきものは、青木昆陽を起用して甘藷を栽培させたことです。彼は昆陽をして今の小石川植物園内に甘藷を植えつけさせ、同時に『蕃藷考』を出版させて、藷種とともに各地に頒布させました。それは享保十七年(1732年)に西日本を襲った大飢饉が多数の餓死者を出したことに、越前守が深く憂慮した結果に出たものでした。

越前守は町奉行を二十年間勤続ののち、元文元年(1736年)、寺社奉行に栄進しました。この地位にいて彼のしたことは、昆陽をしてなさしめた史料の編集であり、世に御定書百箇条という幕府の大法典『公事方御定書』の編纂でした。

 

※ 底本はこの法典を『科条類典』と記していますが、「御定書百箇条」と呼ばれる幕府の基本法典は『公事方御定書』です。『科条類典』は忠相らの編纂した別の判例集です。

 

徳川三百年のあいだ、制度備わり、産業振るい興り、上下泰平を謳歌した八代吉宗の時代、いわゆる「享保の治」を現出せしめたものは、吉宗の英明によるとともに、また輔弼の良臣の力に待つことが多いものでした。なかんずくそのもっとも力あった者は、わが大岡越前守忠相でした。施設経営、その世道に尽くし貢献すること実に五十年、宝暦元年(1751年)十二月十九日、七十五歳をもって卒去しましたが、その麗名は今なお芳しく、大正元年、従四位を贈られました。

顎髭を抜きながら判決を考えた奉行は、裁きの人であるより先に、町の人でした。火消しを組み、瓦屋根を勧め、米の値を見、芋を植え、法典を編む。講談が作り上げた名裁きの裏に、二十年間江戸の暮らしを支えた地味な行政がありました。大岡裁きが今も言葉として生きているのは、その土台があったからです。

大岡忠相の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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