「野に軍の伏すときは飛雁列を破る」
後三年の役、金沢の柵を攻めていた八幡太郎義家は、田に下りようとした雁の群れが急に列を乱して飛び去るのを見て馬をとどめました。かつて都の学者から聞いた教えを思い出したのです。搦め手を回して討てと命じると、果たして三百余騎が伏せていました。その学者の名は大江匡房(おおえの まさふさ)。四歳で書を読み、十一歳で詩を作り、藤原一門の世に学問ひとつで中納言まで上り、そして大宰府へ左遷された人です。
才気闊達
「この春より詩を作りおりまする」
信濃権守成衡朝臣は、そばに控えたわが子の匡房を得意げに顧みました。成衡にしてみれば、なにしろ四歳のときに書を読みはじめ、早くも八歳にして史記漢書にも通じるというほど穎悟(えいご:賢いこと)たぐいない匡房のことですから、父として鼻を高めたいのも道理でした。しかし相手の土御門右府師房には、長久二年(1041年)に生まれてその年わずかに十一歳である匡房がさほどまで学力があるとは思えません。そこで「雪裏見松貞(せつりにしょうていをみる)」という題を出して詩を作らせてみました。すると匡房は抄物も切韻も何らの準備もなしに、立ちどころに筆を染めてさらさらと書きしたためたので、師房も目を丸くして感嘆し、まさに神童を発見したことに大得意で、参内の節ただちにこの詩を帝の叡覧に供えたてまつり、帝はご感あって学問料を賜るに至りました。匡房は禁中の作法見習いとして「童殿上(わらわてんじょう)」しましたが、あるとき殿中をさまよっていました。するとまだ幼いものですから女房たちが見くびって、ちょっとからかうつもりか、「これを弾きたまえ」と、簾の際から和琴(六絃の琴、あずまごと)を差し出しました。
あふ坂の関のあなたもまだ見ねばあづまのことは知られざりけり
匡房はけろりとしてこう詠んだので、女房は顔を桜に染めてぐっと詰まりこみました。
永承七年(1052年)、関白藤原頼通は宇治に豪華宏壮なおのれの別邸を造営してこれを平等院と名づけ、この世をばわが世とぞ思う藤原一門の栄華権勢を誇りましたが、それを建立しようとするにあたり、彼は土御門師房とともに宇治に行って地を相しました。見ると、東は川、南は山、西をうしろとした地なので、大門を開くのは北よりほかにありませんでした。で、頼通は「およそ寺門で北に向かっているものの例があるか」とたずねましたが、師房は返答することができず、ちょうど彼と同車にて来ていた十二歳の匡房に助け舟とすがりつき、この者は故事をよく覚えておりますから試みに尋ねてみます、と匡房にたずねました。すると匡房はすぐ、「漢土にては西明寺、天竺にては那蘭陀寺、日本にては空也上人建立の六波羅蜜寺、ともにみな北向きであります」と答えたので、平等院は北向きに門を開かれることになりました。これより頼通は匡房に眼をつけ、稽古の力、有職の才、この者に超えたるものはあるべからず、のち必ず大位に至るべし、と言いました。
匡房が十六歳のときに作った『秋日閑居賦』は大学頭明衡の大いに嘆賞するところとなり、彼は十七歳にて文章得業生に補せられ、いよいよ詩文の道に入って孜々(しし)とつとめました。康平三年(1060年)、二十歳にて治部少丞に任じられ、式部少丞に移り、従五位下に叙せられました。こうして彼は累進して東宮学士に任じ、蔵人に補せられ、左衛門権佐に移り、右少弁を兼ねました。後三条帝は深く藤原一門の専横を憎まれ、何とかして王佐の才ある者を挙げ、摂政関白の威を奪おうと思し召し、諸臣の賢愚をうかがっておられましたが、すなわち匡房のほかに任に堪えるべき者なしとされ、ここに匡房は厚く親任されるところとなったのです。後三条帝は御位を太子に譲られてのちも院中に記録所をおいて政をしろしめされていましたが、ついに延久五年(1073年)崩御になりました。匡房は「誰か我を用いん」と痛く悲しみ、世を憤って山林に跡をくらまし、世をのがれようとしましたが、時を待つべしと藤原経任に慰められて、じっと唇をかみました。

能文博識
承暦四年(1080年)夏、高麗王が病重く、わが国に名医ありと聞き伝えて大宰府に牒状を送り、その医者を迎えたいと求めました。大宰府からは京都に注進して、いかにすべきかと奏しました。が、その状中にあった聖旨の字が旧例に違い失礼であるとて、医師を遣わさないことに決しました。その返牒を草したのが、時の大儒たる匡房でした。その草するところは名文をきわめ、ことに「変魚なお達しがたし風池の波、扁鵲なんぞ得ん鶏林の雲に入るを」の対句はとくに秀逸であるとて、高麗の国人までもほめたたえたといいます。
博学多識の匡房は、また兵法をもきわめていました。前九年の役ののち、宇治殿へ参上した八幡太郎義家は戦いの様などを物語っていました。それを聞いた匡房は、「器量すぐれた武士にはあれど、まだ軍法を知らぬよ」と独り言しました。これを階下からもれ聞いた郎党は、戦場をも見たことなき生公卿め、と義家が出てきたときに、匡房卿がかようなことを言いましたと告げました。義家は、それはさだめし故あることであろうと、車に乗ろうとする匡房のところへ進み出て、会釈して教えを乞いました。のち、清原武衡の乱(後三年の役)のとき、義家は金沢の城を攻めていましたが、折しも空を飛び来った一行の雁が田面に下りようとしてにわかに驚き、列を乱して飛び去りました。馬の轡をおさえた義家は、
「大江の卿の先年教えたまいしに、野に軍の伏すときは飛雁列を破ると。この野には必ず敵あるに相違ない。搦め手を回して撃つべし」
と下知して、兵卒どもを分かって四方から取り囲むと、果たして三百余騎が隠れていました。この戦いに勝ちえたのは匡房のおかげと、義家も感謝したといいます。
敷島の道にも秀でた匡房は、顕季、通俊、経信、俊頼、基俊、顕仲などの名匠とも常に交わりを結び、花鳥の情を交わしていました。そしてついにはその道の判者とも仰がれ、清涼殿にて催される和歌御会においても彼の出題を待たれるようになり、悠紀主基の祝言も彼の言葉にて定まるに至りました。されば後鳥羽院もただ匡房一人こそ天下に並びなき判者と仰せられ、通俊さえもただ深く恐るべきは匡房あるのみと述懐するほどの有様でした。したがって堀河院に百首召されたときはまず作者の一人にとられ、天養に詞花集の撰ばれたときはことに巻頭の座を占めました。その歌にいいます。
氷ゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く

「江家次第」撰録
寛治のころ、匡房は後二条関白師通の命を受けて『江家次第(ごうけしだい)』を撰びました。これは年中の恒例、臨時の公事をはじめ、神仏の礼、冠婚の式をももらさず書きのせた有職故実の名著です。それ以前にも西宮高明の『西宮記』や大納言公任の『北山抄』などの書があったのですが、ともに法とするに足りませんでした。そこへ才学はるかに前二者をしのぐ匡房の『江家次第』が出たので、朝家の故実が明らかになり、諸式そのよりどころを得るに至りました。ゆえに匡房の書は後世にまで用いられて、令式の儀注として尊ばれたのです。
『江家次第』は全部で二十一巻ですが、そのうち巻十六と巻二十一は伝わりません。これは早く失せたものと見えて、この二つの巻を引用したものは見当たりません。ただし仁和寺書籍目録に二十一巻とあるから、目録作成当時には全部そろっていたものと思われます。この原本は六条坊門の北、西洞院の東の千草殿に蔵められていましたが、仁平三年(1153年)、火災のために焼失してしまいました。千草殿はもと具平親王の邸であったのを匡房が伝領して校倉を営み、自家相伝の書をことごとく蔵めていたところでした。あるとき人がいさめて、「京中は人家が稠密だから常に火災が多い。洛外に置かれるのが長久の計でありましょう」。すると匡房は答えて言いました。
「我が家の書籍は朝家の盛衰に関わるべければ、この国失せずばこの文失すべからず。何ぞ火災を恐れん」
こうして原本は焼失しましたが、他家に写し伝わるものが世に残っています。

時勢に容れられず
匡房は承保元年(1074年)美作守に任じ、従四位下に叙せられ、防鴨河使、備中介、東宮学士はもとのごとくでした。およそ学士三度の例は彼にはじまるといわれています。ついで翌年正四位下に叙し、同四年左中弁に遷りました。越えて永保元年、正官に移り、同三年式部権大輔、備前権守を兼ね、左大弁に転じました。応徳二年、勘解由長官を兼ね、東宮学士をば離れました。こうして従三位に進み、寛治元年式部大輔に転じ、同二年正三位に叙し、周防権守を兼ね、参議に昇り、陣座の政につきました。その後寛治六年越前権守を兼ね、同八年(1094年)正三位の権中納言に進み、勅授帯剣しました。ときに年五十四歳でした。こうして嘉保二年従二位に進められましたが、飛ぶ鳥も落とす藤原氏一門の権勢のため、永長二年(1097年)、大宰権帥(だざいのごんのそち)を兼ね、承徳二年秋、筑前に下向しなければなりませんでした。
宰府に着任した匡房はもっぱら心を政務にとどめ、正善を賞し、濫悪を罰し、大いに治政につとめたので、九州の民衆はみな彼を景慕しました。「大宰権帥」。都を離れてはるか西の果てに幾つもの春秋を寂しく送る匡房の脳裏にまざまざと浮かぶものは、それより二百年をさかのぼる時代に同じ地にあった菅原道真の姿でした。秀才(文章得業生)から出身して彼のごとき大位を踏むことは前例も多からず、実に儒風の競わざるを興し、かねては家の面目をも輝かした学識並ぶ者なき天才児の匡房でした。しかし門閥万能、藤原一門のほしいままに権を振るう世界に身を置き、愚陋惰弱の四囲を見つめていた彼にとって、たまたま奇しくも相似た境遇に生き、同じく西海の果ての筑紫に左遷され、ついに延喜三年寂しく散った道真こそは、まことにまたとない知己であったに相違ありません。匡房は宰府にあるや、康和三年(1101年)、はじめて道真の霊を安楽寺に祀り、僚官社司を率いて盛んな祭典を行いました。彼は康和四年正二位に進み、嘉承中、中納言を罷めてふたたび大宰権帥となりましたが、足疾をもって任地に赴かず、ためにその府務の停滞をそしるものが世にありました。天永二年、大蔵卿に任じ、ほどなくその秋の初めから患い、ついに同天永二年(1111年)十一月五日、七十一歳をもって没しました。
四歳で本を読んだ神童は、関白の前で寺の門の故事を即答し、高麗の国人がうなる返書を書き、義家に兵法を授け、有職故実の規範を残して、藤原の世に押し出されるように筑紫へ下りました。そこで二百年前の道真の霊を祀ったこの人は、火事を恐れるなと言った自分の書庫が燃えても、書いたものは写しとなって残ると知っていたのでしょう。





