慶長十九年(1614年)、紀伊の九度山。
罪人として蟄居させられている一人の武将のもとへ、叔父が使いにやって来ました。
徳川家康からの申し出です。
「信濃国で三万石をやるから、徳川へ参れと申しておる。もちろん、以前の罪は赦し、優遇するそうじゃ」
返事は、一言でした。
「厭(いや)でござる!」
辛抱強い家康は、せり上げてきます。
「では、信濃一国では」
——それでも、答えは変わりませんでした。
「たとえ日本国中くだされようとも、厭と言ったら厭でござる!」
彼の名は真田幸村(さなだゆきむら)。義を貫き、徳川を震え上がらせた日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)。義のために命を燃やした、一人の男の凄烈な生き様に迫ります。
大軍を阻む上田の小城
慶長三年、豊太閤秀吉が薨(こう:身分の高い人が亡くなる)ずると、たちまち天下は二つに割れてぐらつき始めました。
「天下は徳川内府のものであろうが、あの狸親爺に逆らって、一泡吹かせてやるのも面白いわい」
「義のため、武門のため——真田の弓矢のほどを、少し見せてやりましょうか」
顔を見合わせて微笑していたのは、信州上田の城主・真田昌幸と、その子・幸村でした。
真田氏は清和天皇の皇子・貞元親王(さだもとしんのう)から出て、代々信濃に住み、弓矢の誉れ高い家柄です。
初めは武田氏へ仕えていましたが、ついで織田信長に帰し、豊臣秀吉に属しました。
なかでも豊臣家から受けた恩は深く、昌幸父子は秀吉の自由で大らか、そして優れた英雄としての人柄に、深い尊敬と憧れの気持ちを抱いていたのです。
従って、徳川家康とは氷炭相容れず(ひょうたんあいいれず:性質が正反対で決して共存・調和できないこと)、慶長五年、関ヶ原の役が勃発すると、直ちに西軍に応ずることとなりました。
「西軍敗るれば、ただ死あるのみ。西に死し東に生きず、これが丈夫の本懐だ」
幸村の兄・信之は徳川氏に味方しましたが、昌幸はそう言い放ち、幸村と共に豊臣家のために起ちます。
元亀元年(1570年)生まれの幸村は、当時三十一歳でした。
天下分け目の関ヶ原——家康に率いられた東軍七万五千は、東海道を一路、西へ進撃していきました。
けれども家康よりも先発した秀忠の軍四万は、東山道から西上しようとします。
その秀忠の軍を、信州上田でぴたりと喰い止めてしまったのが、真田昌幸・幸村の父子でした。
秀忠から再三、使いを遣(つかわ)し服従するよう勧告しましたが、返事は例のとおり。
「厭でござる!」
昌幸と幸村は城中で、父子して悠々と碁をうっていました。
秀忠は憤慨して軍を進め、遮二無二、四万の兵をもって攻め立ててみたけれども、上田の小城は容易に落とせません。
東軍は散々に翻弄されて苦戦苦闘すること十五日間、ただ無駄に多くの兵士を失うばかりでした。
困り果てた秀忠は、ようやく森忠政と仙石忠俊を川中島・小諸に留めて真田父子に備えおき、ひた走りに家康のもとへ赴こうとします。
——だが、間に合いませんでした。
妻籠(つまごめ)に到ると、すでに関ヶ原の戦いは済んだという報(しら)せを耳にするのです。

大阪入城
関ヶ原の役の後、家康はもちろん昌幸父子の首をはねようとしました。
が、兄・信之の助命願いによって死罪だけは免れ、高野山の九度山(くどやま)へ追放されます。
昌幸は慶長十六年に亡くなりました。
慶長十九年、東西の風雲がいよいよ急を告げてきます。
大阪にあっては豊臣秀頼が諸国の浪人を召し抱え、城の固めを厳重にしだしました。
徳川方では、種々方策を講じては言い掛かりをつけ、開戦の火蓋を一日も早く切らせようとかかっているのですから、思う壺です。
しかし——と、家康は戦いの雰囲気を間近に感じてくると、あの信州上田の小城で秀忠の四万を喰い止めた真田幸村のことが気にかかります。
そこで、幸村の叔父で徳川に仕えている真田隠岐守信尹(のぶただ)を呼びました。
——冒頭の場面です。
「厭(いや)でござる!」
これを聞いた家康は、歯軋(はぎし)りしてみたが仕様がありません。
この上は、幸村をきっと大阪方には取らすまいぞ、と、紀伊の浅野但馬守や、高野山の門主ならびに衆徒、橋本・峠村近辺の百姓たちにまで厳しく命じ、幸村の動きを周囲から完全に監視させました。
百も承知していた幸村は、同年十月、豊臣家からの招聘が来ると、一計を案じます。
父・昌幸の法会を営むからと、高野山から僧を迎え、九度山近辺、橋本、峠、下橋辺の庄屋、年寄、百姓ら数百人を屋敷に招いて、大振舞をやったのです。
「まあ一杯、いや何の、まあお呑み下され!」
下戸も上戸も、只より安いものはないと、終日、呑み、食い、果てはみなすっかり酔いつぶれて、前後も分からず寝てしまいました。
「それ!」
幸村が、百姓姿に扮している一族郎党の者に目配せすると、かねて整えられていた荷物が運び出されます。
百姓たちの乗って来た馬はたちまち軍馬と化し、銃・鎗・長刀を閃めかしつつ、隊は威風堂々と紀伊川を渡り、峠を越え、河内に入って、大阪城へ向かって行ってしまいました。

——さて、こちらは大阪の大野治長の屋敷です。
その玄関を訪れた一人の山伏がありましたが、取次に「殿はご登城中だから、しばらく待たれよ」と言われて、番所の脇で待っていました。
すると、そこで十人ばかりの若侍が刀・脇差の目利きをやっていて、山伏に「貴殿の刀・脇差も見せられよ」と言います。
「見せるようなものではござらぬが、お慰みに」
差し出すのをすらりと抜いて見れば、刃の匂い、刀身の輝き——得も言われぬ業物(わざもの)です。
一同、目を丸くして銘を抜いてみると、何と脇差は貞宗、太刀は正宗。
若侍たちが尻の冷たくなる思いで後退(あとずさ)りしていると、治長が帰って来ました。
そして山伏を見るなり、驚いて叫びます。
「これは真田殿!何としてまた、斯様(かよう)な——」
書院に案内し、早々の入城を感謝しました。
その後、若侍たちに逢うと、幸村がすぐ「刀の目利きは」と言うので、皆々、頭を掻いたといいます。

冬の陣
大阪城内には幸村をはじめ、長曾我部盛親(ちょうそかべ もりちか)、後藤又兵衛、塙団右衛門(ばん だんえもん)、木村重成、薄田兼相(すすきだ かねすけ)、大野治長(おおの はるなが)、織田有楽斎(おだ うらくさい)、渡辺糺(ただす)らの諸将が集まり、総勢十万と聞こえました。
これに采配を振って軍師として臨む人は、無論、真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村です。
軍議評定の冒頭において、彼は言いました。
「軍は機先を制するを第一とする。必勝の軍略は、まず関東・北国の兵がいまだ京に入らざる前に、秀頼公自ら旗を天王寺に立てられ、それがし自身および森勝永を先鋒とし、長曾我部、後藤をして大和路を攻めしめ、伏見城を落として京都に火を放ち、宇治と瀬田に陣を構えて敵を迎え撃つが最善なり」
後藤らは直ちにこれに賛同しました。
が、淀殿や秀頼公を危険な戦場に出すことを望まぬ秀頼の近臣らのために阻まれ、ついに彼の策は行われず、籠城と決します。
幸村はこの時すでに、城内の空気を察し、関東の間者(かんじゃ:スパイ)らの動きを見抜いていたため、もはやこれまで、と覚悟を決めたといいます。
幸村は、玉造口(たまつくりぐち)の南に「真田丸」という出城を構築し、これに兵六千を率いて立てこもりました。
十月二十三日、京都に着して二条城に入った家康の二十万の大軍は、十一月中旬から徐々に大阪城に迫って来ます。
十二月四日、篠山(ささやま)をとった前田利常の軍勢は、幸村の守備する真田丸に迫って粉砕され、多くの死傷を出しました。
井伊直孝と松平忠直も、その左の八丁目口を攻めて、また散々な目に遭わされます。

茶臼山に本営を移した家康は、またもや真田信尹に命じて、俸禄を餌に幸村を釣りにかかりました。
しかし、そんな餌に喰いつくような浅ましい魚ではありませんでした。
「何を、埒もない!」
幸村に冷笑される位が落ちでした。
ひしひしと包囲軍が詰めかけます。
が、名にしおう難攻不落の大阪城。そのうえ名軍師・幸村の総指揮です。そう容易に落ちようはずがありません。
ここに至って、老巧なる家康は、これではいくら攻め立てても兵を損ずるばかりで不利であると考え、一策を案じました。
城に向かって、一斉射撃をやらせたのです。
その弾丸が天守の柱に砕け、千畳敷にも命中したので、女達は悲鳴を挙げ、たちまち弱気になってしまいます。
とうとう淀君たちの「修理(しゅり:大野治長)、早う早う和睦を!」という泣くような声がすべてを決し、ついに慶長十九年十二月二十二日、双方の誓書(せいしょ)が交換されて和議が成立しました。
幸村は、家康の心中までとうに見透していたので、和議の成立した二十二日に謀ります。
「即刻、家康の本営を夜襲して、彼の白髪首を獲ろう」
——だが、淀君らの反対で果たせませんでした。
翌二十三日に城の中から見下ろすと、家康に命じられた諸藩の兵が、盛んに外濠を埋めています。
淀君たちは慌てふためき、和睦を結んだのに、そのような話ではなかった、と抗議してみたところで馬耳東風(ばじとうふう:どこ吹く風)。さっさと埋めていって、本丸の濠まで埋めてしまいました。
こうして大阪方の手足を捥(も)いでしまった家康は、ちょっと一服といったように、駿府へ引き揚げていったのです。

元和元年五月七日
和議は三、四か月で破れ、翌元和(げんな)元年の春には、早くも麾下(きか:直属の臣下)を率いた家康が大阪に向かって発しました。
京都に勢揃いした関東軍十五万は、大和口より三万四千、河内口より五万五千、家康麾下一万五千、秀忠麾下二万、義直・頼宣の麾下合わせて二万二千——
手も足も捥(も)ぎとった大阪など一揉みと、押し寄せて来ます。
大阪方の将士は、よく戦いました。
後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだ かねすけ)らの戦死した天王寺口の血戦など、華々しいものでした。
この戦は、幸村・又兵衛・兼相が訣別の盃を交わして打って出た一戦だったのです。
「家康、秀忠の首をとるか、我ら三人が討死するか、二つのうち、ひとつだ」
——だが濃霧のために、惜しくも幸村の到着が遅れ、ついに勝機を逃してしまいました。
続いて木村重成も、若江において討死。
諸手の軍は破れ破れて、大阪落城の運命も刻々に迫ります。
決死の覚悟を極めた幸村は、最後の一戦を試みるべく、五月七日、茶臼山に陣を布きました。
そして本多忠朝(ほんだ ただとも)を先鋒として茶臼山ならびに天王寺口に向かう家康の軍中に、突入します。
命懸けの戦いを幾度となく繰り返し、家康のもとへ迫る幸村。
松平忠直の越前兵を破り、一文字に家康の旗本に侵入し、その馬印まで打ち倒しました。
——が、波のように何度も、もり返す敵の新手に対し、ついに、安居天神において、鹿の角を打った真田家代々の兜を血に染め、斃れました。
時に元和元年(1615年)五月七日、幸村四十六歳。
明くる五月八日は、大阪落城の日でした。
彼の一子・大助幸昌(だいすけゆきまさ)も、燃え上がる炎の中に、十六歳のうら若い身を主君・秀頼に殉じて散っています。

——三万石でも、信濃一国でも、日本国中でも、厭でござる。
そう言い切った男が、最後に手にしたのは、家康の本陣まで届いた数えきれない命懸けの血戦と、それきりの命でした。
割に合う話ではありません。
けれども四百年後の今も、この男の名を知らない日本人は、ほとんどいないのです。

