慶長四年(一五九九年)の冬のある日、井伊兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)直政(なおまさ)のもとに、家来の一人が罷り出て、手をついて申し上げました。
「弁之助(べんのすけ)様が盗賊を追われ、賊が山へ逃げ上りましたところを、太腿(ふともも)を斬って落とされてございます」
「うむ、そうか。では、北の座敷にとどめておけ」
直政は次男の弁之助を呼び出し、北に向いた座敷の、雪の降り込む場所に、じっと坐らせておくのでした。降りしきる雪は畳を埋めつくしました。けれども弁之助は、じっとして、少しも動きませんでした。
十一歳の冬のことです。母の身分が低かったために、城の外の農家に預けられ、まことに恵まれない幼い日々を送っていました。この弁之助が、のちの井伊掃部頭(かもんのかみ)直孝(なおたか)。徳川幕府の中枢に立ち、下の者をあわれみ、驕らず、よく忍び、二百六十年の太平の礎を築く一人となった人でした。
艱難己れを珠にす
直孝は母の身分が低かったために、城の外の農家に預けられ、まことに恵まれない幼い日々を送りました。
けれども、この幼いころの不遇と苦労が、のちに大きな財産になります。徳川幕府の中枢の要職に就いたとき、下の者をあわれみ、人情に通じ、ぜいたくを戒めて質素を旨とし、上に立っても驕らず、事に当たってはよく耐える。あっぱれな為政者として太平の礎を築く一人となる、その尊い土台がここで作られたのです。
底本がこの章に掲げた小見出しは、雪の座敷の少年の姿をそのまま言い当てています。

花も実もあり
直孝が、病弱な兄の直勝(なおかつ)に代わって軍勢を率い、大坂の役に出陣したのは二十六歳のときでした。
彼は部下をよく愛しました。あるとき、敵の様子を探る兵を二人出したところ、雨に濡れて帰ってきます。報告を聞き取ったうえで、「これを着よ」と、自分の着ていた小袖を二枚とも脱いで与えました。
こういう大将のもとで、直孝の軍勢は目覚ましく奮戦し、軍功を立てます。この戦いで直孝は、木村長門守(きむら ながとのかみ:木村重成)、内藤新十郎、山口左馬助(やまぐち さまのすけ)をはじめ、三百十五の首を挙げました。
東西の和睦のあと、将軍秀忠(ひでただ)は直孝を呼び出し、兄に代わって父の家を継がせようとします。けれども彼は、兄を退けて父の家を継ぐのは望むところではない、と固く辞退しました。安藤直次(あんどう なおつぐ)を通じて重ねて辞退を申し上げましたが、それでも許されず、やむを得ず命を受けたのです。
こんな話もあります。長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)を処刑するときのことです。守護の者が、山折敷(やまおしき:木の皮つきの粗末な角盆)に玄米の飯をうず高く盛り、赤鰯(あかいわし:塩漬けの鰯)のたぐいを添えて、盛親の前に据えました。盛親は涙を流して言います。
「名のある大将がこのような姿になることは、昔から例が多い。だから恥とは思わぬ。だが、お前たちのような下郎と同じ食べ物を与えるとは、あまりの仕打ちである。この膳は何事か。食うには及ばぬ。早々に首を刎ねよ」
そう言って、悲しみと怒りに身を震わせたのです。
直孝はその側を通りかかり、これを聞くと、守護の者を呼んでひどく叱りつけました。
「手厚い料理をこしらえて座敷に通し、縄を解いてもてなし申せ」
守護の者はあわてて台所に知らせ、盛親を座敷に入れ、料理を整えて歓待します。「直孝殿のお計らい、かたじけなく存ずる」と、盛親はたいへん喜んだといいます。

勤倹身を持す
直孝が彦根領十五万石を拝領し、初めて領国に入ろうとしたときのことです。老臣たちは家中がぜいたくに流れるのを心配して、禁止令を出すよう願い出ました。すると直孝は言いました。
「我らは倹約を尊び、費えを節して、家臣たちを率いているのである。けれども人の心はそれぞれ違うから、いちいちこれを禁ずるなら、罪を得る者が必ず多いに違いない。それに法というものは、煩わしいものを排し、要点だけを採って、人が守りやすいようにしなければならぬ。奢侈を禁ずるのは、まず我が身から先にするがよい」
そして自ら木綿の着物をまとい、家老をはじめ身分の高い者たちにも、手ずから布子(ぬのこ:綿入れの木綿の着物)や羽織を与えました。領国に入ると、国じゅうの武士がみな道に出て迎えます。ところが自分たちの服はきわめて華やかなのに、直孝と従者は一様に木綿を着ている。みな恥じ入りました。これで、ぜいたくの風はたちまち改まったのです。
その後、城の濠を広げ、石垣を築き直したときには、若侍たちに、とくに粗末な服を着るよう言いつけました。それでも決まりを守らず美しい服を着た者が多かったので、目付に命じて、不意に濠の泥を塗りつけさせました。
石川弾正大弼廉勝(いしかわ だんじょうのたいひつ かどかつ)が、「貴殿は大名なのに、道中に台所荷物というものがないのは、どうしたわけですか」と尋ねたとき、直孝はこう答えています。
「某(それがし)は台所荷物などと申して持たせたことがない。なぜなら、料理人を十人も召し連れれば、十人の両袖だけでも二十になる。ふだんでさえ栄華がましいことはしないのだ。まして道中などは、不自由なほうがかえって面白い。もっとも、某のように小身から成り上がって下々の苦楽をよく知っている者の風流であって、貴殿のように大名の子として生い立たれた方には、ちと勝手が違うかもしれぬがな」

直言
大坂の役のあと間もなく、秀忠は諸大名を集めて、来年は家光(いえみつ)に将軍の座を譲ると申し渡しました。誰もが「おめでたく存じます」と答えて退出するなか、直孝ひとりが何か思うところのある様子です。土井利勝(どい としかつ)が彼を白書院(しろしょいん:江戸城の対面所)へ連れて行き、どうしたのかと尋ねると、直孝は答えました。
「いまは大坂の陣からまだ日も浅く、江戸城の総石垣の普請、駿府城の普請、そのほか各地の御手伝い普請で、天下の大名も小名も一方ならず困窮しております。そこへまた来年ご隠居あそばされ、将軍家のご祝儀や将軍宣下(せんげ:天皇が将軍に任じる儀式)の能などを興行すれば、いよいよ疲れ果て、やむを得ず下から剥ぎ取り、民を苦しめるほかなくなります。そうなれば万民の嘆きとなり、乱のもととなる。少しもめでたいこととは存じません」
利勝はうなずき、彼と連れ立って秀忠の前に出て、このことを申し上げました。秀忠は聞いて言います。
「もっともではあるが、この件はもう諸大名にも触れを出し、承知も済んだことゆえ、そのとおりにしておくよりほかあるまい。だが、このたびの言葉は取り上げずとも、次は聞くから、何事によらず申せ」
利勝は「ありがたし、と申し上げよ」と横から促しました。しかし直孝は、頑として動きません。ついに秀忠も折れて、翌日、利勝を通じて、翌年の隠居取りやめを諸大名に申し渡したのです。
正保二年(一六四五年)、直孝は正四位上・右近衛中将となり、加増を受けて三十万石を領しました。

明暦三年(一六五七年)正月、江戸に大火がありました。商家も武家屋敷も盛んに燃え、死傷者は十余万人にのぼります。直孝が登城すると、松平信綱(まつだいら のぶつな)が言いました。「これは結局、油断から起こるものですから、火を出した者にはきっと仕置きを申しつけるように、老中の間で意見をまとめましたが」
すると直孝は言いました。
「これはまた言語道断。出火というものは不慮のことである。もしも御三家、あるいは御連枝(ごれんし:将軍の兄弟)の方々から出火があった場合はどうなさるか。上はそのまま差し置き、下々ばかりに罪を問われるようでは、御政道が立ちますまいが」
信綱も、自分たちの失態の恥が露見せずに済んだと礼を述べたといいます。

油断大敵
永井信濃守尚政(ながい しなののかみ なおまさ)が要職に登用されたとき、直孝のもとを訪ねて、日ごろの心得になることを教わりたいと願いました。直孝は言います。「それは奇特なことである。が、これは軽々しい問題ではないから、十分に身を清められたのち、そのうえで」。そして日を指定しました。
尚政がその日に麻上下(あさかみしも:正装)で行くと、直孝も麻上下で迎え、奥の間に伴い、静かに座ってから、こう言いました。
「油断大敵、と申すことをご存じか。この言葉こそ、直孝が貴殿に申し伝えたい一言でござる。二六時中、お忘れなきよう」
厳かにそう言うと、熨斗鮑(のしあわび:祝いの席の肴)などを出してもてなし、帰したのです。
また直孝は、国もとの老臣がいつも「国中静謐(せいひつ:穏やかに治まっていること)」とばかり言ってよこすのを、たえず戒めました。
「昔から、どれほどの名将であっても、よく治まるものではない。大聖人であっても、たいていのことでは治まるまい。徳というものは、ただ人形を据え置いたようなものではなく、知恵をもって責めつけ、厳しく正しい政道を行うことを徳というのである。三十万石という大きな領地が、罪人もなく静かに治まっているのなら、それほど大慶至極なことはない。だが、うかうかして乱に遭い、にわかに驚き騒ぐようでは、まことに見苦しい。各々油断なく政道に励むことこそ、第一とせられよ」
そして毎日、足軽や小者を一人ずつ交代で江戸と彦根のあいだを往復させ、二つの土地の連絡を絶やさなかったのです。

非常の人
家綱(いえつな)が四代将軍の座を継いだころ、直孝は幕府の大儒・林羅山(はやし らざん)を招いて、幼い主君を補佐する道を問いました。羅山は和漢の故事を引いて答えます。ところが直孝の行うところは、学問を修めたわけでもないのに、おのずから正しい道筋にかない、その論もきわめて非凡でした。羅山はいつも直孝を「まことに非常の人」と讃えてやまなかったといいます。
万治二年(一六五九年)に亡くなりました。享年七十。大正六年(一九一七年)、従三位を贈られています。




