宝永六年(1709年)、江戸小石川の切支丹屋敷。禁を破って日本に入り、捕らえられた一人の異国の宣教師が、幕府の取り調べを受けていました。立ち会いの奉行が「寒そうだから着物をやろう」と言うと、宣教師は断ります。食べ物をいただいて国の恩をこうむることがすでに重いのに、そのうえ着る物までいただくのはあまりに冥加(みょうが:もったいないほどの恵み)に過ぎる、と。そして、なおお願いがあると言いました。
「私がはるばるお国へ参りましたのは、ありがたい天主の御教えを伝え、人をも世をも救うためです。自分から進んで参った者が、どうして逃げたりしましょう。しかし御規則がある以上、昼はともかく、この夜寒に警護の侍の方々にご苦労をかけるのは恐縮に堪えません。夜だけでも警護の方が安心してお休みになれるよう、どうか私に手枷足枷をして、獄に繋いでおいてください」
その真心は顔にあらわれ、奉行所の人々を感激させました。そのとき、取り調べにあたっていた儒者が、いきなり言い放ちます。
「このいつわり者!」
本心は、言うまでもなく、温かい思いやりを強い言葉で押し返したものだったのでしょう。宣教師は素直に恐れ入ったといいます。言葉の裏で二人の魂が溶け合った、劇的な場面が目に浮かぶようです。
新井白石(あらい はくせき)。六代将軍・家宣の侍講として幕政を動かし、『西洋紀聞』『折たく柴の記』を残した学者でした。
六代将軍の先生
新井白石は、江戸時代を代表する学者であり、政治家でもありました。三十七歳のとき、儒者の木下順庵(きのした じゅんあん)に学才を認められ、その推薦で甲府侯・綱豊(つなとよ:のちの家宣)の侍講(じこう:学問を講ずる役)になります。宝永六年(1709年)、五代将軍・綱吉が亡くなり、跡継ぎがいなかったので家宣が選ばれて将軍となりました。白石は何かと政治上の意見を問われることが多くなり、五十五歳で従五位下を賜り、筑後守に任じられます。翌年十月の将軍の死までの二十年と、次の家継の代の四年間、彼の献策が天下と後世に残した功績は、じつに大きなものでした。
たとえば貨幣制度の改善です。華美を競った元禄時代、政治家の誤った考えで貨幣の質が落とされたまま放置され、物価が上がり、上も下も経済が行き詰まっていました。それを救うために、貨幣の金の含有量を慶長のころと同じに戻して鋳造し直したのです。また、ようやく盛んになりかけた外国との貿易で、少なくない金銀銅が海外へ流れ出ていました。国全体の立場からそれではいけないと気づき、輸入の制限を献策したのも、白石の卓見でした。

では、この人はどんな子どもだったのでしょうか。白石が六、七歳のころ、両親と芝居を観に行きました。筋の運びから細かな所作まで一つひとつ記憶して、帰ってから人に話して聞かせると、少しも間違いがありません。「この子はふつうではない。みっちり学問をさせたら、どんな者になるか分からない。きっと新井家の名を挙げるだろう」と、父は驚嘆しました。文字を習い始めると、自分で日課を決め、毎日四千字を写し終えるまでやめません。夏はよいのですが、冬になって日が短くなると、夜になっても終わらないことがあります。眠くなると井戸端へ行き、裸になって冷たい水を一桶ざぶりと浴び、目を覚まして、必ず日課をやり遂げました。そんな調子ですから、九歳でもう父の代わりに手紙を書けます。十三歳で藩主のそばに仕え、いろいろな文書を代筆しましたが、とても少年の筆とは思えませんでした。読書がなにより好きでしたが、家が貧しくて本が買えない。人から借りて写し取っては、暇を盗んで読みふけりました。
当時の大富豪・河村瑞賢(かわむら ずいけん)——のちに幕府に仕えて安治川の浚渫(しゅんせつ:川底をさらうこと)や宇治川・淀川・中津川の治水に尽くした人——が、白石の才を見込んで、娘をやろうとしたことがあります。「あなたは将来大学者になる方だが、暮らしのために十分な学問ができないのは本当にお気の毒だ。もし娘をもらってくださるなら、三千両の宅地を差し上げたい」。白石はその場で断りました。「お心はありがたいのですが、昔話があります。ある山に住んでいた小蛇を、刀の先で一寸ばかり傷つけた人がありました。その蛇がやがて大蛇になって死んだとき、傷跡は一尺あまりになっていたそうです。いまどれほど苦しくても、恩を受けるのは潔くありません」。このときすでに、たくましい白石の気魄(きはく:気迫)がみなぎっていたのです。

政治家としての彼
白石の学問は古今にわたり、和漢に通じていました。それだけではありません。江戸時代でもっとも早く海外の事情を研究し、紹介した一人でもあるのです。当時、西洋のことに触れられる場所は、二か所しかありませんでした。長崎の出島と、江戸の切支丹屋敷です。白石は、布教のために日本へ来て捕らえられ、切支丹屋敷に閉じ込められている異国人を訪ねて、西洋の事情を聞きました。そうしてできたのが『西洋紀聞』と『采覧異言(さいらんいげん)』です。きっかけは宝永五年(1708年)、イタリアからはるばるやって来た宣教師シドッチを、幕府の命令で取り調べたことでした。もっとも、それ以前から深い関心を持っていたのは言うまでもありません。
キリスト教に対して、幕府は弾圧の一手でした。ところが白石はシドッチを調べて、まず「布教は国を奪うための策略だ」という俗説に、きっぱり反対します。とはいえ、禁を破って入ってきた異国人です。何らかの処分はしなければなりません。ここで白石の見識は、政治家としても曇りませんでした。彼は三つの策を立てて建言します。これまでの扱いでは、改宗すれば助け、しなければ殺すのが例でした。しかし異国人には異国人の習わしがあり、その教えが禁じられていることを知らないのだから、わが国の法を押しつけて何でも殺すのはよくない。かといって、改宗しない者を長く切支丹屋敷に閉じ込めておくのも意味がない。助けて国外へ追放するのが上策だ——というのです。いくら将軍に信頼されていたとはいえ、あの時代にそこまで言い切った良心と勇気には、敬服するほかありません。冒頭の「このいつわり者!」の場面は、この取り調べのときのことでした。

「火の子」火の性
白石、名は君美(きんみ)。江戸の大火で名高い明暦三年(1657年)正月の生まれです。先祖は上野の荒井から出たといいます。父は正済(まさなり)といい、上総久留里(くるり)の領主・土屋民部少輔の家臣でした。江戸大火の年の生まれということで、殿さまはよく冗談に、幼い白石を「火の子」「火の子」と呼んだそうです。それが火のような彼の性格に通じているのも面白いところです。のちに堀田家に仕えたとき、同僚に小滝という者がいて、いつも白石に向かってこう言ったと伝えられます。「自分は若いころ兵法を由井正雪から学んだが、貴公の不敵な人相は、あの正雪と実によく似ている」
そうした性格のせいかどうか、彼は長く不遇でした。運が開けたのは、前にも書いたとおり、師の順庵に推されて甲府侯の侍講になってからです。白石は学者であり政治家でしたが、武人の風格も備えていました。甲府侯に仕えていたころ、火事に遭って五十金を賜ります。すると彼は、それで住まいを飾ったところでまた火事に遭えばご恩を無にするだけだ、と言って、甲冑を一そろい作りました。五年後にふたたび火災に遭い、家具も道具もすっかり焼けましたが、甲冑だけは身につけて出たので無事だったのです。
それから九年、六代将軍、七代将軍と仕えました。八代将軍・吉宗が立つと、老齢を理由に職を退きます。その後は悠々自適、書物に親しんで暮らし、享保十年(1725年)十月十九日、江戸で亡くなりました。六十九歳。墓は現在、東京の高徳寺にあります。

著述挙げて百六十種
白石はじつに多くの本を書いた人で、著書は百六十種あまりにのぼります。歴史では、三百の大名家の伝記を集めた『藩翰譜(はんかんふ)』、日本史の出来事について意見を述べた『読史余論(とくしよろん)』。国語・漢文では、物の名前を解釈した『東雅(とうが)』、和漢古今の神代の歴史を研究した『古史通』、文字を考証した『同文通考』。シドッチを取り調べて得た『西洋紀聞』は、西洋の事情を伝えた文献としてもっともすぐれたものですし、それをさらに整理した『采覧異言』は、当時としては群を抜いた地理書です。
言語学にも深く通じていました。言葉を本当に知るには、社会のありさま全体を研究しなければならない——そう言って、梵語(サンスクリット)、宋や元の言葉、西洋の言葉の音が日本語に入ってきたことから、その音の変化まで調べています。『折たく柴の記』三巻は彼の自伝ともいうべきもので、白石という人を知るうえで見逃せない、名高い本です。




