「もし、どうあっても社から二十円出すのが不可能ならば、自分のもらう二十五円の月給のなかから五円を割いて、中西のほうへ回すようにお手配願いたい」
国民新聞の若い記者が、友人を社に推薦したときの申し出です。社は十五円までしか出せない、友人は二十円なければ暮らせない。間に立った彼は、自分の月給を割いて差額を埋めると言いました。この人、内田魯庵(うちだ ろあん)。『罪と罰』を日本にはじめて訳し、丸善の顧問を三十年つとめ、「洋書博士」と呼ばれた人です。
明治・大正の洋書博士
維新後のすばらしい文化の飛躍は、進取の気象に富む国民性のしからしめたものであるかもしれませんが、一つには海外文学の移植が大きな刺激となり、肥料となったことも争えません。そういう意味の功労者として忘れられてならないのは、洋書博士の称があるくらい広く海外文学に通じ、これをいち早くわが国にもたらした内田魯庵です。二十二歳の夏、富士山麓の自然に親しんだとき、ドストエフスキーの『罪と罰』の原書を携えていき、語学の勉強のつもりで読み出すと、読むにつれて興はいよいよ深く、ロシア文学の持つ偉大な思想にすっかり感動させられてしまいました。小説に対する敬虔の情が起こるとともに、これを独占することに満足していてはならないと気がつきました。これが魯庵が翻訳家としての意義を見いだした、そもそもの動機でした。
その前から彼の趣味は元来文学にあって、当時全盛の翻訳家・井上勤とは親戚の間柄だったので、翻訳を主とした雑誌『文学の花』の編集に井上を助け、自分でもゲーテの『狐の裁判』を訳してみたりして、文筆生活に入る素地はできていたといってよいものでした。山田美妙の『夏木立』が出版されると、感嘆のあまりに長文の批評を美妙に送った彼でした。美妙はそれを『女学雑誌』に掲載して、彼の名はすでに文壇に印されました。やがて『国民之友』の寄稿家となるや、石橋忍月と肩を並べる批評家として確固たる地歩を占めるに至ったのです。
しかしそれがはじめからの志望であったわけではありません。彼はのちに大蔵省や地方の税務署の官吏となった旧幕臣を父に持って、明治元年(1868年)閏四月五日、東京に生まれ、築地の立教学校で英語を学び、東京専門学校英語部、東京大学予備門などに学びましたが、病身のうえに窮乏で、いずれも中途で退学してしまったのでした。彼は政治家たらんとして望みを失い、次に建築家を志し、さらに実業家を目ざすという風に、転々と思い惑ったものです。

月給を割く友情
明治二十三年(1890年)、徳富蘇峰によって国民新聞が創刊されると、その才幹を見こまれて、彼は編集の一員に招かれ、足かけ二年のあいだ、主として文学評論の筆を執りました。在社中に彼は友人の中西梅花をも社に推薦しましたが、社では月給を十五円までなら出そうということになりました。ところが本人に話してみると、どうしても二十円なければ衣食に差し支える都合でした。間に立った彼はそこで困ってしまいました。が、それを迷惑に思ってはいられませんでした。
「もし、どうあっても社から二十円出すのが不可能ならば、自分のもらう二十五円の月給のなかから五円を割いて、中西のほうへ回すようにお手配願いたい」
と申し出たものです。なんと厚い友情でしょう。皮相な親切ごかしでできることでは決してありません。この美しい話題を残して、わずか一年ばかりで職を辞するようになったのは、何もほかに理由があるのでなく、彼の性格が新聞の仕事には適任でないのをつくづく悟ったからでした。このころから交友はしだいに多く、文筆的な活躍もいよいよめざましさを加えました。文壇には硯友社派、民友社派、文学界派、のちに早稲田派、大学派などがあってたがいに対立していましたが、彼はそのいずれにもくみしませんでした。孤立して一人一党主義を堅く守り、しかも親愛と畏敬とのなかに身をおいたというのは、その博識とともに、超俗的な徳性の持ち主であったことをしのばせるに十分です。

文藝批評の先驅
翻訳家ないし海外文学の紹介者としての彼は、技量の老練に加えて選択がすぐれ、範囲の広汎なことといったら、イギリス、アメリカはもとより、ロシア、ドイツ、フランス、ポーランド、スペインにまで及びました。ことに彼の感動したロシア文学の紹介者としては、二葉亭や嵯峨の屋(二葉亭と同じ東京外国語学校露語科に学んだ作家)のツルゲーネフ紹介に対し、ドストエフスキーやトルストイを紹介して、文壇に大きく深刻な印象を与えました。『妻涙』を発表したのは明治二十六年、彼が二十六歳のときですが、それがおそらくはわが国一般読書人のトルストイに接した初めでしょう。明治文壇における批評界の先駆者としては、忍月のドイツ流に対するに英国流をもってしましたが、それは最初親しんだのが英文学だからでした。学識を積んでいって、文学の世界から社会、人生の問題に視野が広まっていくにしたがい、独特の文明批評となり、そこから音色も複雑に警世の鐘が鳴り響きました。洗練された風刺は彼の好んで用いた武器で、漱石をおいてその比を見ない風格と鋭さがありました。戯著『文学者となる法』は、当時の文壇の裏面をえぐった代表的なものです。こうした傾向が縁となって片山潜などとも交渉を持つようになり、社会問題を題材としたかなり尖鋭なものを『労働世界』に連載したりしました。それは中途で筆を投げて完成はしなかったけれども、その方面に関心を持つほどの純情さのあったことも察するに難くありません。

社会小説の提唱
明治二十六年(1893年)に早くもドストエフスキーの大作『罪と罰』を訳し、二十九年にはゾラの『戦塵』を紹介し、さらにトルストイの『復活』を訳しました。その高い識見と正しい社会認識のなかに成長した社会的良心が、社会小説の提唱となり、創作となったのに不思議はありません。そして社会小説が識者の問題になったのは、二十九年から三十年にかけてのころでした。論壇に高峰のような存在だった高山樗牛などは、その題材の方面を見て「社会道徳の不健全を代表する文学」と排斥したものですが、それはもちろん見当違いな批評であって、その間にも一種流行のような観をさえ呈して、海外の社会性ある文学が盛んに続々と紹介されました。文芸上の評論や感想を書いて一方の雄であった彼も、それを理解してくれるのはまだ少数で、生計を支えるには困難な時代でした。そこで世間の受け入れやすい小説をねらい、かねて自分の提唱する社会小説の本格的な作品として先鞭をつけるべく、三十一年三月の『新著月刊』に発表したのが『暮の二十八日』でしたが、非常なセンセーションを起こして、明治年代における社会小説としてはもっとも傑出したものの一つでした。その批判的で理想主義的な傾向は、硯友社一派の写実主義、通人主義を一蹴した形がありました。そして彼は、今日こそ政治小説を作るべき好時機である、と説きました。十年ばかり前に政治小説が流行したときは架空的とそしられたその内容が、そのまま実現していたという事実は、彼の説を裏書きしてあまりあるものといってよかったのです。
「今の小説家は常に社会を離るるがゆえに、まったく時代の精神を理解せず、政治・宗教・学術の社会は、彼らにとりて風馬牛のみ。さればその作は新聞紙の三面雑報を延長したるにすぎず。見よや、わが国の今日は、政治・宗教・倫理の上において、新旧思想の乖離はまさに来らんとする大衝突、大破裂を予告するにあらずや。日々の新聞紙を読むも感興百出、慨くべきもの、恐るべきもの、宛然維新前後の歴史を読むと同一の感あるにあらずや。翻って文芸倶楽部あるいは新小説をひもとけば、天下は太平無事になずみ、恋愛に狂し放蕩に労れたること宛として隔世のごとし」
と書いているのは、遊楽を事とする軽薄な文士のみならず、いわゆる純文学派に対する頂門の一針であり、底本の当時にも通用する卓見といわなければなりません。こうして、作家たる者は社会の実情を観察する便宜のある何らかの公生涯を作るべきであるとし、機会をとらえてできるだけ社会的活動に身を投じ、生きた問題を探ってその材料を豊富にし、単調きわまる恋愛小説を意義ある社会小説にと高揚することは、すなわち文壇そのものの革新でもあるという意見には、さきに一方的な見方から反対を唱えた樗牛も、その非を悟って大いに共鳴の意を表しました。彼の意気はますます燃えて、『薄紅』『かた翼』『血桜』『電影』『破垣』などの諸作を続けざまに発表するのでした。

丸善顧問の三十年
彼の文壇生活を大体に分けて五期とするならば、第一期はもっぱら批評家として、ことに文芸批評家として立った時代、第二期は翻訳に精進して外国文学の紹介に努めた時代、第三期は創作家として立とうと試みた時代、第四期は文明批評家、思想家として現れた時代、第五期は随筆家として、好古家として生きた時代、といえるでしょう。社会小説の問題を文壇に寄与したのち、明治三十四年(1901年)に丸善本社の顧問となり、その関係は晩年まで三十年のあいだ続きましたが、几帳面な粘り強さに敬服されるとともに、洋書輸入の選択者としての文化的貢献は決して小さなものではありませんでした。晩年の労作である随筆集『バクダン』『貘の舌』の二つは、その該博な趣味を語る名著です。多年の精神過労の結果、突如、失語症におちいり、臥床半歳、六十二歳で昭和四年(1929年)六月二十九日に逝去しました。
どの派にも属さず、一人一党で立ち、友人のために月給を割いた人。ドストエフスキーとトルストイを日本に紹介し、文士は社会を見よと説き、晩年は丸善の店先で洋書を選び続けました。「洋書博士」の三十年は、明治の日本が世界の本を読みはじめた三十年でもあります。





