明治十七年(一八八四年)三月十日。芝の延遼館(えんりょうかん:現在の東京都港区にあった明治政府の迎賓館)で、天覧相撲(てんらんずもう:天皇がご覧になる相撲)が催されました。
御苑に向かって一段高いところに玉座があり、その後ろに侍従たち、両側に皇族・大臣・各国の公使が並びます。左右へ折り曲げて架け渡した二十三間(約四十メートル)の桟敷(さじき)には、紫縮緬(むらさきちりめん)に菊の御紋を染め出した幕の中に、各省の高官や華族が座り、東西の桟敷は前から年寄・行司の溜まりのあたりまで、見物の人であふれていました。
力士も行司も土俵に出るときは、まず玉座に向かって最敬礼をし、勝負が終わって退きます。午餐(ごさん:昼食)のあと、幕内力士の土俵入りがあり、続いていよいよ、この日の人気の頂点——横綱・梅ヶ谷藤太郎(うめがたに とうたろう)の土俵入りとなりました。
青竹で四つ目垣を結った花道から、しずしずと歩み出てきます。露払いは剣山(つるぎざん)、太刀持ちは大鳴門(おおなると)。紫の羅紗(らしゃ:厚手の毛織物)に白の亀甲繋ぎを縫いとった化粧廻しに横綱を張り、威風堂々、あたりを払うばかりでした。容貌も体格も技も、寛政の名力士・谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)の生まれ変わりと謳われた男です。
彼の名は梅ヶ谷藤太郎。大関になってから七年、本場所で一日も負けなかった「常勝将軍」であり、土俵を降りてからは雷権太夫(いかずち ごんだゆう)として、二十年にわたって相撲界を立て直した人です。その生涯に迫ります。
大絵巻
天覧相撲の当日、十六番目までの取組は行司が肩衣(かたぎぬ)で務め、その後は烏帽子(えぼし)に素袍(すおう)という正装に変わりました。
やがて番数も進み、いよいよ三役です。小結の剣山と大達(おおだて)、関脇の大鳴門と西ノ海、そして大関の梅ヶ谷と楯山(たてやま)。行司は木村庄之助。この勝負は、はたき込みで梅ヶ谷に軍配が上がりました。
力量は堅実そのもの。大関になってから七年、十数場所の本場所で一日も負けを見せなかった、常勝将軍・梅ヶ谷です。
この日、天皇がいちばん喜んだのは、お好みによる梅ヶ谷と大達の取組でした。はじめから四つに組んだ大勝負は、虚々実々、龍が躍り虎が搏(う)つような激しさで、水入りが二度におよび、ついに引き分けとなりました。
この天覧相撲は、もともと梅ヶ谷を中心に催されたものでした。その名声が四方にあまねく知られ、ついにこの晴れの相撲を任されたのです。梅ヶ谷にとっては、力士の最高の栄誉を描いた大絵巻として、忘れられない思い出になりました。

筑紫の梅
横綱境川(さかいがわ)のあとを受けて、明治を代表する名力士として十二代目横綱の栄誉を担った初代梅ヶ谷藤太郎。生まれは筑前国上座郡志波村(かみざぐん しわむら)の字(あざ)梅ヶ谷(現在の福岡県朝倉市)です。弘化二年(一八四五年)二月、小江藤左衛門(おえ とうざえもん)の二男として生まれました。
二歳のころから体が肥え太り、ただならぬ将来を予感させます。
「筑紫なる 梅ヶ谷村 きみにより 天が下にも 匂ひぬるかな」——底本は、久良岐(くらき)という人のこの歌を添えています。
力がめっぽう強いので、じつに扱いにくい子でした。ある日、挽き臼(ひきうす)につないでおいたから大丈夫だと思っていると、ゴソゴソ這ってきます。びっくりして見ると、この赤ん坊が大きな挽き臼をぐんぐん引きずってきているのでした。
「あいつは怪物だ。天狗の申し子だ」
そう言われるほどたくましく育った彼には、大きくなると大人もかないません。近くの田舎相撲に飛び出せば、来る相手も来る相手も、突き転がし、捻り倒します。
「相撲取りになるんだ」
人にも言われ、自分でもそう決めて、藤太郎は文久二年(一八六二年)、十八歳で大坂に出て、年寄・湊由良右衛門(みなと ゆらえもん)の弟子になりました。
力のある彼はとんとん拍子に頭角を現します。慶応元年(一八六五年)に東方の幕下に名が出て、同年五月に中段三枚目、慶応四年(明治元年)六月には西方の一枚目。明治二年には大きく飛躍して、陣幕(じんまく)・千年川(ちとせがわ)の両大関の下で東方の小結となり、続いて三年、二十四歳で東方の大関に昇りました。
ところが当時は天下が革新の時代で、大坂の相撲界も衰え、大関でさえ顧みられないありさまです。そこで梅ヶ谷はきっぱりと大関の地位を捨て、ひと思いに江戸へ出て、玉垣額之助(たまがき がくのすけ)の門に入りました。
当時、江戸の相撲界でにらみをきかせていたのは、東の大関・境川、関脇・両国、小結・綾瀬川、西の象ヶ鼻(ぞうがはな)、大纏(おおまとい)、小柳といった強豪です。梅ヶ谷は本中格(ほんちゅうかく:番付の下位の格)でその年の場所に出ました。もちろんそんな地位にとどまる男ではなく、次の場所には幕下十両に付け出されます。それでも彼の実力に見合う位置ではなく、悠々と幕内に並ぶ力がありました。しかし容易に幕内へ進めないのが、そのころの古い悪い習わしだったのです。
毎場所優勝しながら、やはり同じ幕下に、数年間、置きっぱなしにされました。
明治七年冬、ようやく幕内に進み、幕内の末から二番目に出されます。それからは一度も負けません。翌八年四月に前頭五枚目、九年冬に前頭筆頭、十年五月に三役に入って小結、同年十二月に関脇。この位置に二場所とどまり、翌十一年十二月、ついに朝日嶽(あさひだけ)のあとを襲って西方の大関に昇進しました。
こうして彼は前後七年間、一度も負けることなく華々しく土俵で活躍し、堂々たる「梅の黄金時代」を作り上げて、その名を国じゅうにとどろかせたのです。

角界の重鎮
明治十七年五月、梅ヶ谷は大達に敗れました。これを機に、明治四年から十八年までの本場所の戦績、勝ち二百二十四、引き分け二十一、預かり二という驚くべき記録を残して勇退し、雷権太夫を襲名して年寄となります。
そこには、彼の手を借りなければ成し遂げられない大きな仕事が待っていました。明治の相撲の盛衰を記すには、まず雷権太夫を縦糸とし、高砂浦五郎(たかさご うらごろう)を横糸としなければなりません。明治の相撲史は、この二家の伝記です。二家の伝記が、そのまま明治相撲史なのです。
では、そのころの相撲界はどうなっていたのでしょうか。明治初年の東京相撲界は、相変わらず玉垣・伊勢ノ海の両年寄の支配下にあり、江戸相撲時代の古い組織をそのまま引きずっていました。積もり積もった弊害は耐えがたいものでしたが、力士たちはただ黙って、うっぷんを抑えて日を送っていたのです。
ところが明治六年、古い弊害を打ち破ろうと立ち上がったのが、当時前頭筆頭だった高砂浦五郎でした。彼の言い分は、こうです。
——年に二度の回向院(えこういん)の勧進相撲(かんじんずもう:寺社への寄進を名目に興行される相撲)をはじめ、地方巡業でも、力士には一文の給料もなく、わずかに衣食を与えられるだけである。しかも儲けはみな年寄の手に収められ、幕下十両取りになって、はじめて少しばかりの小遣い銭が与えられるにすぎない。力士たちが、あるいは途中で相撲をやめ、あるいは無頼の徒になってしまうのも、みなこの酷い扱いのせいだ。そのうえ正副取締の座にある者は権威をふりかざして弱い者をしいたげ、金銭の出し入れにも不正が多い。年に二度の勧進元と称する者も名前を書くだけで、取締たちが勝手に振る舞い、収入が多いときは黙っているが、損失が出たときは他の年寄たちに分担させたりする——。
こんな積もった弊害は一日も早く改めなければ、相撲の隆盛は望めない。その任にあたるのは、我らをおいて誰があるか。
高砂を先頭に、小柳、綾瀬川、境川、響矢(ひびきや)らがまず動きました。高砂は百数十名の力士を率いて立ち上がり、「改正組」を組織して、相撲界に大波瀾を巻き起こします。
明治十一年五月にようやく調停が成り、改正組と東京相撲が合併すると、高砂の意見は着々と実行されていきました。年寄の数を八十五名に限って乱立を防ぐ。力士の身分に応じて収益を分ける方法を定める。相撲界は大きく変わります。その後まもなく玉垣・伊勢ノ海が引退したので、すべてが高砂の手に帰し、十六年にはついに東京大相撲協会の取締に推されました。
ところが、相撲界を完全に手中に収めた高砂は、しだいに傲慢で専横になっていきます。彼を非難し攻撃する声が高まってきました。そんな折に、勇退した梅ヶ谷が、年寄・雷権太夫として登場したのです。
年寄になった彼は、人々の期待を担って取締役となり、同じ取締役の高砂と向かい合って、相撲界のために大きな役割を果たしていきます。けれども高砂の勢力は根強いものでした。梅ヶ谷の引退後、横綱の名誉は高砂部屋の西ノ海、小錦(こにしき)が相次いで継ぎ、土俵の上の勢力も高砂部屋の独占です。このため、雷権太夫をいただく西方の力士は不平を爆発させ、明治二十九年一月、一月場所を休場してしまいました。
この事件で、高砂排斥の檄文(げきぶん:人々を奮い立たせる文書)を協会に出して処決を迫った西方力士を抑え、その矢面に立って問題の解決に力を尽くしたのが、雷でした。これから高砂はしだいに振るわなくなり、ついに協会の実権は雷権太夫が握るところとなったのです。
彼はそれから二十年、相撲協会の取締の任にあり、この道のためになすところがきわめて多く、相撲界の重鎮として内外の信望を集めました。

相撲中興
大正四年(一九一五年)、二代目梅ヶ谷が引退すると、彼は自分の年寄名を譲って相撲界を退きました。相撲協会はその功績を慕い、元老として遇します。
家にいるときの彼は、長火鉢をはさんで、昔なじみの女房と向かい合いながら、巨大な骨格と立派な容貌を静かに構えて、いたって無口だったといいます。
梅ヶ谷としての彼は、近世まれに見る名力士として、土俵の上に相撲の技の盛んなことを示しました。雷権太夫となっては、二十年の長きにわたって協会の内外を、徳望と信頼をもって統制し、改革しました。師としては、あの梅と常陸(ひたち)の対戦で全国を沸かせた二代目梅ヶ谷をはじめ、大関の剣山・大鳴門、関脇の鞆ノ平(とものひら)・谷ノ音(たにのおと)・玉椿(たまつばき)、以下、鬼ヶ谷、平ノ戸、鬼ヶ毛、小松山、梅ヶ崎など、多くの名力士を育てました。
まことに、不振に沈みつつあった相撲を中興する大業を成し遂げ、輝かしい功績をこの世界にとどめて、昭和三年(一九二八年)、八十八歳の高齢をもって惜しくも世を去りました。
挽き臼を引きずった赤ん坊は、七年間負けなしの大関になり、天皇の前で土俵入りをしました。それだけでも十分な生涯です。けれども彼の本当の仕事は、土俵を降りてからの二十年でした。力士に給料のなかった時代を終わらせようとした高砂の改革を受け継ぎ、その高砂が専横に傾いたときには、対抗して協会を立て直す。
梅ヶ谷藤太郎。土俵の上で「常勝将軍」と呼ばれ、土俵の外で無口な重鎮となって、明治の相撲を支えた人でした。


