「拙者に向かって国賊呼ばわりとは面白い。拙者の船に乗ることが国賊の行為であるというならば、拙者は所有船のすべてを品川湾上に集め、公衆の眼前で微塵も残さず焼き捨てて見せよう」
自由党の論客から「国家の海運を私する国賊」と攻撃されたとき、海運王はそう怒号して応じました。岩崎弥太郎(いわさき やたろう)。土佐の貧しい地下浪人(じげろうにん:郷士の株を失った最下級の武士)の家に生まれ、三菱の基礎を築いた一代の風雲児です。
一代の風雲児
「国家の海運を私する奴! 岩崎弥太郎は憎むべき国賊だ!」
自由党と改進党とがもっとも激烈な抗争の火花を散らした当時、自由党の論客はこんなことを言って、しきりに岩崎弥太郎を攻撃しました。改進党の背後に海運王岩崎の勢力が控えていることを、憎みかねていたのです。だがこの極端な罵倒攻撃を浴びながらも、弥太郎は少しも屈する気色もなく、傲然(ごうぜん)とこれに怒号をもって応えました。
「拙者に向かって国賊呼ばわりとは面白い。拙者の船に乗ることが国賊の行為であるというならば、拙者は所有船のすべてを品川湾上に集め、公衆の眼前で微塵も残さず焼き捨てて見せよう。拙者の船を拙者が焼くのに、誰にも文句はあるまい。それをやってもなお国賊であるというならば、拙者は財産の全部を挙げて自由党を撲滅して見せる」
その当時の裏面における彼の画策や暗躍には、あるいは清廉を欠いているというような憶測をこうむらなければならない点もあったかもしれません。金権王国三菱の創建者岩崎弥太郎は、その五十二年の短い生涯を精細に検討するならば、実に功罪の点で毀誉褒貶(きよほうへん)紛々たるを免れない男だからです。だが、ともあれ当時の岩崎弥太郎の態度と気迫は、前述のように剛快であり、傲岸不屈の意気をもって貫かれていました。そしてこの不屈な面魂があったればこそ、彼は三菱王国を建設しえたのであり、ひいては日本の海運を洋上に雄飛させることができたのです。彼はまさに辣腕家でした。そしてその辣腕は、勢いあまって時には非難をこうむるような結果をも醸成したでしょう。だが数百年の鎖国攘夷のあとを受け、一朝にして世界の海運界に伍しうるほどの隆盛をわが国の海運にもたらした彼の業績は、すべてこれを偉業と称すべきでしょう。いやそれのみでなく、五反百姓(ごたんびゃくしょう:わずかな田畑しか持たない農民)同然の家の倅(せがれ)から身を起こし、財界の巨星として天下を睥睨(へいげい)する身となった岩崎弥太郎は、たしかに一代の風雲児でもありました。

賢母の訓育
岩崎弥太郎は天保五年(1834年)十二月、土佐の安芸川の流れに沿う井ノ口村の一部落、一の宮の地下浪人岩崎弥次郎の総領息子に生まれました。当時の父弥次郎は小鳥籠の骨を削っていたといいますから、家計ははなはだみすぼらしかったことでしょう。藩公山内家の家老五藤家に属する地下浪人ではありましたが、ほとんど見る影もない生活状態でした。しかも父の弥次郎はいっこうに家計上のことには無頓着で、しばしば同村の弘田某という人から援助を受けていたといいますから、弥太郎の幼時の生活はよほど気づまりな暗いものであったに違いありません。そのうえこの地方は非常に気風の狷介(けんかい:頑固で人と和合しない)なところで、数か村の農民は安芸川の灌漑(かんがい)のことで抗争の絶え間がなく、竹槍や鋤鍬(すきくわ)を携えて村と村との大乱闘を引き起こすことがまれではなく、したがって村民は気が荒かったのです。こうした村民のあいだに交じって、酒好きの父は家計の乏しいなかに年中酔いしれて太平楽を決めこんでいたのですから、弥太郎は実に気が気でない生い立ちをしたのです。
しかし弥太郎は、不如意な生計の暗鬱さにも屈せず、そして朴直な父弥次郎の性格にも染まらず、いやまるで正反対の性格に育っていきました。これは彼の生まれながらの性格でもあったでしょうが、しかしもっぱら彼の母の訓育がよろしきを得た結果であったと言えましょう。弥太郎の母は隣郷の安芸村の医者・小野敬蔵の二女で、美和(みわ)といいました。彼女は幼い弥太郎に向かって、常にこう言うのでした。
「父のようでは困る。しっかりした者になってくれよ」
弥太郎は物心つくころにはすでに母の手を助け、父の代わりにもなりして、世の辛酸をなめることを余儀なくされたのです。しかし彼は決して、世にいう温順な少年ではありませんでした。彼は非常な意地っ張りでした。これは日常母に諭され、父の行状を目撃しているところから来る反動でもあったでしょう。幼いころ小牧米山(こまき べいざん)に学んだのですが、手習い仲間は多く士分の者の倅で、彼は常に少なからず侮蔑と凌辱を受けていました。彼はひそかにこれに憤激を感じ、
「家柄や格式を離れては何ひとつできない、彼らのような意気地のない者が、わずかに土佐の片隅で侍だなどと威張ってみたって何になる。俺は自分の力で、今に日本一の大金持ちになって見せてやろう」
と大言壮語したのでした。むらむらと湧き上がる弥太郎の志気は、賢母の訓育のよろしきと相まって、すでにこの時分からその鋒鋩(ほうぼう:刃物のきっさき)を現していたのです。

発足
「志を得て業遂げ功成らずんば、再び郷里に帰りてこの山に登らず」
洋々たる土佐湾を脚下に見下ろす妙見山に登って、弥太郎は山上の星神社の扉にこう書きつけました。満腔の野望を抱いて江戸に上ろうとする、二十二歳のときのことです。
そして彼は江戸に上り、安積艮斎(あさか ごんさい)の門に学ぶこととなりました。親しく天下の趨向を察して自分が乗じるべき機会をとらえようと、彼は眈々(たんたん)と血眼でした。だがそれもわずかに数か月で、彼は急遽帰国の途につかなければなりませんでした。父の弥次郎が例の酒癖から村民たちと喧嘩をして、投獄の厄をこうむったのです。一片の急報が弥太郎の客舎を驚かせたとき、彼がしきりにふけりつつあった青雲の夢は、忽焉(こつえん)として破れました。母の心痛、弟妹の狼狽するさまが、まざまざと脳裏に浮かび上がってきます。弥太郎は万事をさしおいて、あわただしく帰路につきました。
そして奉行所に出頭して、父のため大いに弁じました。しかし事態は弥太郎が一途に冤罪だと思いこんでいるような次第ではなく、奉行所の役人はいっこうに彼の陳弁を受けつけようとはしません。弥太郎は役人たちのその態度から、彼らが賄賂を受けているために理非のいかんにかかわらず、いたずらに父を獄舎に囚えておくものと推測して、しきりに憤激しました。そしてある夜、奉行所の門柱に「官以賄賂成。獄因愛憎決(官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す)」と五言の対句で鮮やかな落書きをしたのです。たちまち役所中の問題となり、その筆跡から弥太郎の所業であることが判明し、役人を誹謗したというかどで、彼もまた投獄されました。しかし彼のそうした行為も、その衷情はひたすら父を救おうとする孝心の発露であることは明らかなので、彼はまもなく赦されて自由の身となりました。同時に彼は追放ということで、郷里の地に居住することができなくなったのです。彼は満腔の憤りと不平に心を燃やしながら、ただちに高知に出て城外の鴨田村に仮住まいし、ともかく謹慎の意を表していました。彼が土佐の俊傑・吉田東洋と相知ったのは、この鴨田村の仮住まい中でした。チャンスというものはどこに転がっているか分からないもので、この東洋との知遇は弥太郎にとって、彼のあの偉大な将来を築く大きな契機となったのです。

海上の王者
慶応三年(1867年)、弥太郎は東洋の甥である後藤象二郎の抜擢によって、土佐藩の勘定役として長崎に駐在し、物産貿易の事務をつかさどることとなりました。裸一貫の貧児が大藩の貿易係となったのは、まさに風雲の機会をとらええたことといえるでしょう。慶応三年、徳川幕府の大政奉還と同時に、岩崎弥太郎は土佐藩の産業機関・九十九(つくも)商会の全部を掌握しました。そして明治四年(1871年)、廃藩置県の機に会うや、彼は土佐藩の荷厄介にしていた九十九商会の事業を二十万円の負債と一緒に引き受け、同時に政治関係から身をひるがえし、断然海運業をもって起つことに決意を固めたのです。
このとき、すでに日本郵便汽船、太平洋汽船などが海運業に雄飛していたのですが、そこへ割りこんでいった弥太郎の三菱の旗を掲げた船舶は、南海、夕顔、若紫、兵庫、千歳、紅葉賀のわずか六隻にすぎませんでした。そしてたちまち激烈な競争が展開されます。大阪神戸間の運賃は、一人銀一枚から天保銭二枚まで引き下げられたといいます。群小の海運業者はこれによって見る見る将棋倒しになってしまい、弥太郎も同時に名状しがたい困難と戦わなければなりませんでした。だが開運の鍵は、戦う者に与えられました。明治七年(1874年)、台湾出兵が起こると、政府は三菱会社に軍事輸送の任にあたらせ、十三隻の汽船を購入して、同じく弥太郎を運輸監督の任にあたらせたのです。そして役が終わると、十三隻の汽船はそのまま三菱に交付されました。十三隻の精鋭を加えた三菱は、果然、太平洋汽船、郵便汽船などの競争相手をものの見事に駆逐してしまいました。
さらに機運は折り重なって到来しました。明治十年(1877年)の西南の役に際し、弥太郎はこのときこそ、堅固として永遠に抜くべからざる三菱王国の基礎を樹立してしまったのです。この際、軍需輸送の任にあたる船舶の所有者は三菱を除いてほかになく、弥太郎はいながらにして巨富を独占することができました。明治十年の役に弥太郎が国家に貢献したところも甚大であったでしょうが、同時に彼の富力の激増したことは、およそ世人の想像もつかないほど巨額なものであったといいます。その後、幾多の新会社が出現して弥太郎に競争を挑みましたが、彼にとってはものの数でもありませんでした。彼はそれらを見事に駆逐し、文字どおり海上の覇権を掌握したのです。そして明治十八年(1885年)、「自分の生涯は少なくとも東洋男子として恥ずかしからぬ奮闘を続けてきたつもりである」と微笑し、「東洋男子」と一声叫んで、静かに瞑目しました。まだ五十二歳の、惜しい齢でした。
酔いどれの父を持ち、侍の子にいじめられた少年は、「日本一の大金持ちになる」と言い放ち、そのとおりになりました。六隻から始めた船は日本の海を制し、国賊と呼ばれれば船を焼くと言い返した。功も罪も人一倍だったこの人の五十二年は、明治という時代の荒々しさそのものでした。


