「季さんが来てよ!」
誰かがそう告げると、その家の大勢の子どもたちは、みんな彼のまわりに駆け集まってきました。このあいだの話の続きをしてくれ、とせがむのです。季さんは当時十六歳。学校の教科書にあるグリムやアンデルセンの童話を、上手な身ぶりをまじえて話して聞かせました。この子どもたちこそ、のちに日本中の少年少女が熱狂した「小波のおじさん」、巖谷小波(いわや さざなみ)のいちばん早いファンでした。
初恋とお伽噺(とぎばなし)
「季さんが来てよ!」
と誰かが報告すると、この家の大勢の子どもたちは、みんな彼の周囲に駆け集まってきました。そして、このあいだの話の続きをしてくれと、彼にせがむのでした。季さんは当時十六歳です。独逸協会学校に通学していて、学校の教科書のなかからグリムやアンデルセンの童話を話して聞かせるのでしたが、それが上手な身ぶりなどをまじえて非常に面白く、巧みに子どもたちの心をとらえ、それを夢にまで見るほどに、ここの家の子どもたちはもちろん、近所の子どもたちまでが熱中させられていたのです。つまりこの子どもたちは、ひところ日本全国の少年が熱狂していた「小波のおじさん」の、いちばん早いファンだったのです。
さて、この小さいお伽噺の大家は、当時恋をしていました。十六の少年にふさわしく、彼のこの初恋の対象となっていたのは、その家の十一歳の少女でした。後年彼が発表した小説『五月鯉』を読めば、少年がなぜあれほど熱心にその家の子どもたちにお話を聞かせていたかという謎が解けます。この初恋は、彼の胸から生涯消えることがありませんでした。彼が「小波のおじさん」として生涯子どもの友となり、生涯お伽噺を捨てることがなかったのは、いつまでも彼の胸の内にこの初恋の思い出がひそんでいたからだというのは、おそらく思い過ごしでしょうが、しかしこのひそかな恋が彼の天才を導き出し、彼に日本の少年文学の創始者としての偉業をなさしめる動機となったことは事実なのです。
さて、その後、彼が成人してから、彼は自分の恋愛を父に打ち明けました。むろんその少女も、そのころは立派な娘になっていました。彼の父は息子の純な心に動かされ、人を介して縁談が申しこまれましたが、彼女の父親は承知しなかったのです。なぜなら、当時彼は小説家として世に出はじめていましたが、そのころはまだこの国では文学というものの価値がさらに理解されておらず、小説家といえばあたかもいやしい芸人であるかのように考えられていたからでした。

朗らかな自殺未遂
巖谷家は江州水口(みなくち)藩で代々典医として禄を食んでいました。小波の父・一六居士は、明治維新の新政府に入って教育制度を大成する上に非常な功労があり、のちに貴族院議員に列せられた人で、底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和の初めにも、書家としてその名が広く知られていました。小波は明治三年(1870年)、その三男として生まれ、季雄(すえお)と名づけられました。一六居士は息子たちの誰か一人を医者にして、先祖代々家に伝えられている「家業大切」という軸を譲り渡したいと思っていました。しかし長男も次男も、二人ともそれを希望しませんでした(二人ともにのちに工学士となります)。それで三男の季雄に望みをかけて、まず独逸協会学校に入学させてドイツ語を勉強させたのでした。けれども季雄もまた、それを欲しませんでした。いよいよそこを卒業して神田明神下の医学予備校に入校させられましたが、どうしても医者になることがいやで、ついに椿(つばき)の実を煎じて飲んで自殺をはかったのです。多少腹を痛めただけで命には別条なく、未遂に終わりましたが、しかし寛大な父一六居士から、医者にならなくてもよいという許可を得ることには成功しました。彼はわが事成れりと、たちまちはしゃぎ出したといいます。
だが、ドイツ語を学んだことは、のちに非常に彼の役に立ちました。明治三十三年(1900年)、ベルリン大学から日本語の講師を求めてきたとき、ドイツ語に堪能な彼が選ばれて派遣されたのです。
彼のドイツ滞在はわずかに二年間でしたが、グリムやハウフの故郷であって世界の童話の宝庫たるドイツにおけるこの短期間の生活は、彼の生涯の仕事に非常な助けとなりました。またアンデルセンの生まれたデンマークはすぐ隣でしたから、この童話の天才を研究するよい機会も与えられました。小波の生涯のもっとも大きな仕事は、実に多方面にさまざまな業績を残した彼ではありましたが、やはり何といっても『世界お伽噺』および『日本お伽噺』に集成された少年文学の偉業でした。「小波のおじさん」の名は、おそらく永久に日本の少年少女の口から消えることがないでしょう。彼がこの仕事をなしとげる基礎の一半は、もちろん彼が幼時に川田剛(かわだ たけし)や杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)の家塾で学んだ漢文学や国文学、とくに江戸文学の深い研究と造詣から成るものですが、他の一半は、彼のこのドイツ童話の研究から成っているのです。このように彼の生涯の偉業は、失恋に終わった初恋に動機づけられ、失敗に終わった医者としての勉強によって大成されたのでした。ここにも彼の融通自在の才能が明らかに現れていて、興味の深いことです。

「小波のおじさん」
小波が本腰になって少年文学の仕事をはじめたのは、明治二十八年(1895年)一月、博文館で『少年世界』が創刊され、当時『京都日の出新聞』の記者をしていた彼がその主筆として招聘(しょうへい)されてからのことです。彼はそのころ、尾崎紅葉、川上眉山、石橋思案らと硯友社(けんゆうしゃ)という作家の団体を作り、まだ近代的な小説を書く人が少なかったそのころの文壇に華々しく活動していました。しかし当時の文壇では、紅葉・露伴の二大家をはじめ、坪内逍遙、森鷗外、広津柳浪、泉鏡花その他の人々の名に圧倒されていて、小波はどうしても第二流の作家だったのです。だが小波が、まったく誰も手をつけなかった少年文学の処女地を開拓し、新しい旗印を樹立してから、その領域では何人もその塁を摩する(るいをまする:肩を並べる)者なく、まったく独り舞台となりました。小波は二十六歳でした。
瀟洒(しょうしゃ)たる貴公子で、しかも八面玲瓏(はちめんれいろう:誰に対しても心にわだかまりがないこと)、円満無礙(えんまんむげ:まるくて何にもさまたげられないこと)という性格でしたから、誰にも親しまれ、博文館編集局の人気者となりました。彼はハイカラな背広か、または紋付に白足袋という身なりで、反り身になって、足早に社内を歩き回っていました。姿が見えなくなったかと思うと、近所の子どもたちと一緒に付近の町内の祭りの太鼓をたたいている、という風でした。そして非常な社交家で、どんな種類の人々とも心おきなく交際していたから、編集室には絶えず電話がかかってきました。この博文館当時の彼は、晩年の彼のそのままの縮図であったということです。
『小波身上噺』に、「僕は性質として、干渉というものが、受けることも、為すことも嫌いだ」と書いてあります。そのとおりで、彼は同僚と喧嘩したこともなければ、後輩を叱ったこともありませんでした。また家庭においてもそうでした。家族がひどい失敗をしでかしたときでも、彼はただ苦笑しながら洒落(しゃれ)を言うだけで、すぐ忘れてしまいました。彼を怒らせることは不可能でした。だから彼を知る人々はみな彼に親しみましたが、彼はまたそれらの人々を親身になって世話していました。わずか百円ほどの月給をもらっていた時代でも、月末になるとその少なくとも半分は、窮状にある友人や後輩のために、常に為替に組まれていました。が、彼は「小遣いには困らないが、大遣いには困るよ」と洒落て、そのために自分が困ることは少しも気にしませんでした。彼は自分の家を「楽天居」と称していましたが、それはまったく彼の家にふさわしい名でした。
そして彼は「反努力主義」を標榜していました。しかし常人がいかに努力してもなしえないことを、常に楽々とやっていたのです。朝は早朝に起きて家を出、夜は十二時ごろに帰宅しましたが、家には常に山のような郵便物が彼を待っていました。彼はそれにいちいち返信を書いて、どんなに遅くなっても、その夜のうちに投函される習慣を生涯守っていました。しかもその返信は事務的なものではなく、俳句あり、絵ありで、ことごとく興味深いものであったということも、その一つです。また原稿なども、人と話をしたり冗談を言ったりしながら、快刀乱麻を断つ敏捷さでどしどし達筆を振るい、流れるように書いていきました。ほとんど年中講演旅行をしていて席の暖まる暇もありませんでしたが、その旅行中の汽車のなかでも原稿を書いていました。こうして『大語園』二十四巻をはじめ、ページ数にすれば数万ページ以上に上る非常に多くの著述を残したことも、その一つです。
このように「反努力主義」の彼によってなされた仕事は、少年文学の創始ということ以外に、各方面にわたって非常に大きなものでした。第一、俳人としての彼の名声は少年文学のそれに次ぐものですが、若いころ紅葉らと句会をはじめて以来、日々に作っていた句も無数であり、また『俳諧通』その他古俳句の翻刻出版も非常な数にのぼり、彼と句作上の意見を異にする虚子、碧梧桐らも、古俳句については彼に教えを乞うたほど、彼の造詣は深く、俳壇に尽くした功績も大きなものでした。それから、日本に水彩画を盛んにさせた功績も彼に帰します。彼がドイツから帰って、かの地で学んだ水彩画を盛んに描き、和田英作、中沢弘光、三宅克己らと写生会を起こして以来、これが日本に流行しはじめたのです。また絵葉書を流行させたのも彼でした。なお、童話にちなんで童話劇、家庭劇を創始し、玩具の発達に寄与し、講演話術を発達させるなど、彼の業績はいちいちこれを挙げるにいとまがありません。
昭和八年(1933年)九月五日、
極楽の乗物や是桐一葉
の辞世を残して逝きました。享年六十四。
「小波おじさん」のお葬式には、青山の斎場への沿道が交通遮断となったほど会葬者が多かったといいます。なお童話の父アンデルセンの故国デンマークの政府は、日本のおじさんに勲二等を贈ってきました。
十六歳の少年が、好きな女の子の家の子どもたちにお話を聞かせた。その続きを、この人は一生やり続けたのです。怒らず、干渉せず、月給の半分を人にやり、汽車のなかで原稿を書く。「反努力主義」と笑っていた人の葬式に、道が通れなくなるほどの人が集まりました。


