「自分は生来、琴というような楽器を手にしたことはないが、たっての御所望であるから、幼少のころ母が弾いていたのを見よう見まねで憶えているから、一曲お耳を汚して責をふさぎたい」
伊豆の田舎代官に琴など弾けまいと、恥をかかせるつもりで水戸公が差し出した琴を、その代官は立派に弾いてのけました。江川太郎左衛門英龍(えがわ たろうざえもん ひでたつ)。書画詩文に通じ、洋式砲術の一派を開き、反射炉を築き、日本ではじめてパンを焼き、「世直し江川大明神」と領民に拝まれた人です。
江川流砲術の創始者
幕末のころ、わが国に洋式砲術を伝えて「江川流」と称する一派を創出して名を知られた坦庵(たんあん)江川太郎左衛門英龍は、伊豆韮山の豪家江川家の第三十六代の主人で、光格天皇の享和元年(1801年)五月十三日の生まれです。家は代々の代官職でした。彼は幼少のころから学問を好み、武芸を修め、書画をよくして、早くから英才の誉れが高いものでした。書を市川米庵に、画を谷文晁に、剣は江戸の剣客岡田十松に、読書詩文は父のひざもとに授けられました。彼はのちに砲術家として名声を博したばかりでなく、多芸に秀でて書画詩文の道においてもまた一家を成したのですが、その素質はすでに少年時代から見えていたのです。

母の教えと多芸
これは彼が後年幕府の勘定吟味役に昇進して幕政に参与していたころの話です。水戸公がある会議の催しがあったのちに、彼を招いて一夕の宴を張りました。その折、悪戯好きの公が、「江川は多芸に通じる才子だと聞いているが、今宵の興を助ける意味で何か一曲弾いてみないか」と勧めて、近侍に琴を取り出させました。水戸公の肚では、伊豆の田舎代官にすぎない彼に琴を奏でるような風流事はよもやできまいと高をくくって、恥をかかせようと謀ったのです。もちろん江川は再三辞退しましたが許されませんでした。そばの近臣たちも公の肚を知っていたので、無理往生に江川を説き伏せてしまいました。彼はもはや辞退すべくもないので、
「自分は生来、琴というような楽器を手にしたことはないが、たっての御所望であるから、幼少のころ母が弾いていたのを見よう見まねで憶えているから、一曲お耳を汚して責をふさぎたい」
と言って琴を引き寄せ、立派に弾奏してのけたので、水戸公をはじめ列席の人々はびっくりしてしまって、さすがの水戸公もこれには一言もありませんでした。彼の母はまれな女丈夫で、子女の教育にはとくに心を砕いた人でした。あるとき彼が騎馬の練習中、誤って馬から落ちて腕に負傷したことがありました。彼は母が心配して大変に怒るだろうと思いましたが、「何事によらず修業中には過ちや怪我をすることが多いのだから、以後はよく気をつけなさい」と諭しただけで、一言の小言もなく薬を出して与えたのです。

世直し江川大明神
彼が父の職を継いで代官になったのが天保六年(1835年)五月、三十五歳のときでした。そしてその翌年には甲州の農民が動揺して一揆を起こす騒ぎがありました。彼の管内の相模地方も、甲州と境を接している関係から同地方の農民にも影響して動揺を免れませんでした。その形勢を知るや、彼はただちに同地方に赴いてつぶさに民情を視察し、管民を説得して未然に事を防ぎました。当時、幕末の乱世と人心の不安に乗じて各所に悪徒が横行して良民の生活を脅かしたので、彼はそういう徒輩を厳重に取り締まるとともに、管民の怠惰を戒め、奢侈を禁じ、耕作を励ますなど、大いに善政に意を用いました。そのために管内の人民から崇拝され、彼の徳を崇める結果、「世直し江川大明神」と大書した紙幟などを神社に納める者などが出る有様でした。彼は代官としては、まことに理想的な善政を管内に施した人物でした。彼は安政二年(1855年)正月十六日、江戸本所の屋敷に没したのですが、喪を秘して遺骸を棺にして長持に入れ韮山へ送り出したところ、途中それを悟った伊豆の人々が数珠をつまぐり、涙ながらに迎えました。かほどに彼の徳は、伊豆の人々から長いあいだ慕われたのです。
しかしながら彼の代官としての本禄は、わずか百五十俵にすぎませんでした。これだけでは一家の衣食に足るだけのものでしたが、彼は材を愛し、士を待つことはなはだ厚く、わずかな扶持米を割いて蘭学者を抱えて砲術兵学の調査を行わせ、あるいは刀鍛冶に大砲鋳造の技術を習得させるなど、時世に活眼を開いて多くの人材を養成したのです。だから彼の門下からは、幾多の俊才が輩出しています。彼もまた早くから蘭学を志し、数学、測量、軍学などに通じていたので、代官在任中、幕府に重んじられて相模湾、江戸湾の防御取り調べの巡視を命じられたこともありました。また伊豆七島および八丈島を巡回して、交通不便な島への施政方針を立てて功績を現しました。

戸田の洋式船とパン
安政元年(1854年)十一月の大地震には、下田港に津波が襲来して死傷算なく、繁華な町も一朝にして荒蕪と化しました。このとき下田港に停泊していたロシア艦が破損沈没したので、伊豆戸田(へだ)港において新船を製作することになり、提督プチャーチンのもと、わが国の大工を用いてスクーナー一艘を竣工しました。これがわが国における洋式船製作のはじめで、このとき雇われた大工の手によって今日の西洋型船が伝えられたのです。そしてこの新船の製作にあたってあらゆる利便を提供し、実質的に工事監督の任にあたったのが江川太郎左衛門でした。このように彼は、行くところとして可ならざるはなき、多方面の才能を発揮したのです。
彼の多能を語る逸話として、パンの製造があります。彼は一般に有益なことと認めるや、必ずそれを試みないということはありませんでした。多能でもありましたが、また精力も絶倫でした。彼はかねがね日本人の常食としている米飯が、夏になると腐りやすく、そして毎日炊かなければならない不便を痛感していました。そしてこんな風な食糧では戦時の際にはことに不便を感じるので、欧米人の常食としているパンを見てその製造を思い立ったのです。彼はいったん決心すると、それをやりとげないではおきませんでした。彼はあらゆる苦心を重ねて、書物を読み、人に問い、研究に研究を重ねて、ついにパンの製造に成功したのです。そして彼は自分のこしらえたパンを銃猟の際などに用いて、重宝がっていました。

大砲の鋳造
彼が長崎の砲術家高島秋帆の門に入ったのが天保十二年(1841年)、四十一歳のときでした。彼は常に人に対して、「敵に備えようと欲せば、まず敵情を知らざるべからず。今もし外寇に備えるをもって国家の急務となさば、外情に通じるをもって、また国家の急務とせざるべからず」と説いて、自己のモットーとしていました。洋式砲術の恐るべき威力を知るや、彼は率先して秋帆の門下となって砲術兵学の秘法をきわめたのです。彼の才学はもとより優秀非凡ですから理解判断力も強く、加えるに蘭学の素養が十分であったから、秋帆の門下となってわずか五、六か月にして、秋帆が多年オランダ人について苦心した砲術銃陣をことごとくきわめ尽くしたといわれています。彼の洋式砲術は秋帆から出たものですが、のちに幾多の新工夫を凝らして別に一派を立てました。世に「江川流」と呼ばれているそれです。
いったい秋帆は兵式訓練をするときに、洋服に近い形の着物を用い、その号令にもオランダ語を用いました。しかし当時の人々はそれを嫌ったので、江川は筒袖にたっつけ袴を用い、帽子の代わりに韮山笠といって、紙撚(こより)製の笠の外面を黒くし内面を赤くしたものを用いました。号令も日本語にして、「剣を鉄砲に着けろ」とか「鉄砲をかつげ」とか言っては動作が不揃いになり、また機敏を欠くとの心配から、「着けい剣」「肩へ銃」とか「取れい剣」「立てい銃」とかいうように、動詞を先にし名詞をあとにする号令を発明しました。すでに彼は砲術兵練をもって一家を成したので、幕府の許可を受けて芝新銭座に教場を設けて四方から篤学の士を募りました。このとき先頭第一に入学したのが、佐久間象山でした。以来、門籍に列する者二十六藩に及びました。江川は幕府の鉄砲方に任じられ、大いに名声を広めました。彼の門に教えを受けてのちに名を挙げた者は、本多忠徳、川路聖謨、大槻磐渓、桂小五郎、橋本左内、黒田清隆、大山巌、伊東祐麿、杉孫三郎らの俊傑です。
嘉永六年(1853年)、ペリー渡来ののち、幕府で江戸湾の防御法を講じたとき、江川は第一の防御砲台を観音崎と富津洲ならびにその中間の浅瀬に設け、第二は今の横浜の本牧岬とその対岸に築き、第三は羽田、第四は品川に造る計画を建議しました。しかるに当時幕府は財政困難のために、もっとも効力の少ない品川のみに築きました。それで佐久間象山、勝安芳、井伊直弼らが品川砲台を非難し「単に気休めの砲台にすぎず」と批評したのですが、これは江川の本意ではありませんでした。

反射炉と最期
彼の晩年の大事業としては、大砲の鋳造があります。彼は幕府の許可を得て故郷韮山に帰り、天城山麓の梨本から粘土を取り寄せて耐火煉瓦を造り、反射炉の築造にかかりました。だが当時のことですから参考にすべき実物がなかったので、工夫に工夫を重ねて研究に没頭しました。だがせっかくの苦心もいっこうに報いられるところがなく、失敗に失敗を重ねました。彼はついに私費を投じて門人を長崎に派して、オランダ人から直接炉の製法や鉄の溶解法を学ばせ、二か年の惨憺たる苦心ののちに、現在も韮山に残っている反射炉の完成に成功したと底本はいいます。そして銃砲の製造にあたり、年々各藩からも多数の大砲鋳造の依頼を受けました。
この大砲の鋳造に関連する逸話があります。彼が文政四年(1821年)、二十一歳で兄秀虎を失ったとき、彼は大変に落胆失望して悲しみました。けれどあまり自分が悲嘆しては父母の感傷を増すと考えて、独り仏間にこもって経典を写し、それから一個の仏像を鋳て、亡兄の冥福を祈ったということです。晩年に大砲を鋳造した彼は、すでに二十一歳のときに仏像を鋳る業を自得していたのです。彼の多才多能、まことに驚くべきものがあります。彼は病中幕府から呼び出されたので、押して江戸に上り、本所の屋敷に着きましたが、そのまま病が重くなり、安政二年(1855年)正月十六日、五十五歳で没しました。明治三十六年(1903年)十一月、正四位を追贈されました。
琴を弾き、仏像を鋳て、パンを焼き、大砲を造り、領民に大明神と拝まれた百五十俵の代官。この人が着工した炉は死後に完成し、百六十年たって世界遺産になりました。「敵に備えるにはまず敵を知れ」と言い続けた人が、いちばんよく知っていたのは、自分の領地で生きる人々のことだったのかもしれません。


