嘉禎二年(1236年)九月一日、東大寺の大仏殿を荘厳して、一人の僧が本尊盧舎那仏の前で、師を持たずに自ら戒を受けました。乱れきった戒律を立て直すには、自分で誓って自分で受けるほかないと決めたのです。叡尊(えいそん)、三十六歳。この人はその後、牢屋の囚人を風呂に入れ、差別された人々に食事をふるまい、遊女や海女に戒を授け、生涯に八万六千人余りに戒を授けて、九十歳まで旅のなかに生きました。
戒律復興の提唱
鎌倉時代は日本仏教の黄金時代でした。平安末期における貴族化した形式主義的な仏教にあきたらない当時の真面目な仏教者たちは、在来の仏教とはまったく宗風を異にする新宗派を打ち建てました。浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などの新宗派の樹立がそれですが、うち続く悪政と戦乱によって極度に厭世的な気持ちを抱いていた当時の人々はこれらの新宗派の樹立を喜び迎えたために、これら新興諸宗派は非常な勢いで発展したのです。こうした新宗派の台頭に刺激されて、一方においてはまた在来の仏教の復興運動も活発に行われるに至りましたが、かかる仏教界の潮流に乗じて、南都奈良にあって戒律復興の叫びを上げた二人の傑僧がありました。それは唐招提寺の大悲菩薩覚盛(かくじょう)と、西大寺の興正菩薩叡尊とでした。覚盛は律宗の教義に華厳の円宗を加味し、叡尊は律宗に加えるに真言密教をもってしたのですが、ともに衰頽の極にあった戒律に新生命を吹きこみ、その布教のために全生涯を捧げて尽力したのでした。
ことに叡尊は新たな真言律宗の建設を企ててこれを大成したのですが、戒律の真精神を社会的に実践、普及するためには、戒律の束縛を受けて世俗との縁を断ち、超世間的な隠遁生活を送ってはならない、個人的な修行に満足することなく進んで社会救済のために尽くすことこそ菩薩行であるとの主張のもとに、自身は厳格な戒律を守りながら自ら進んで社会教化のために努力し、ついには鎌倉時代における三大社会事業家の一人として、後世にまでもその名をうたわれるに至ったのです。まことに叡尊こそ、鎌倉時代における戒律復興運動の主唱者であり、新戒律運動の実践として広汎な社会事業を行い、貴族化した旧仏教によってはまったく顧みられなかった仏教の社会化を企図し、その全生涯を社会教化のために捧げたのでした。

仏道の修行
叡尊は建仁元年(1201年)五月、大和国添上郡箕田(みのだ)の里に生まれました。俗姓は源氏で、父は興福寺の学僧慶玄といい、母は藤原氏の出でした。生家はきわめて貧しかったうえに、叡尊の七歳のとき母は五歳と三歳の弟妹を残して世を去ったために、父は三児を抱えてまったく途方に暮れ、その翌年ついに叡尊は醍醐寺の西、大道の小坂御子の家にやられることになりました。このように彼の幼時はまことに悲惨な環境のなかに育てられたのですが、こうした家庭的な悲境こそ実に、後年彼をすぐれた社会事業家たらしめる温床であったものです。
十一歳のとき彼は醍醐寺の叡賢の室に入って仏道を修し、ついで西谷の慧操にしたがって菩提心論、悉曇(しったん)字義、倶舎などを学びました。十七歳の年に円明阿闍梨について剃髪得度し、それ以来もっぱら密教の研究を続け、のち、元仁元年(1224年)の春には高野山に登って信恵に参じ、醍醐寺、長岳寺などに随行して真言密教の奥義を探りましたが、安貞元年(1227年)、二十七歳にして具支灌頂を受けました。こうして『大日経』を読破し、弘法大師の遺著を研鑽するにしたがってますます戒律の重要なことを痛感した彼は、それ以来日夜専心求道の業を励み、仏道を成ぜんがために粉骨砕身の努力を続けましたが、大悲菩薩覚盛に会うに及んで、いよいよ戒律の復興を決意したのでした。
それは建暦二年一月のことであったと底本の『日本英雄伝』はいいます。興福寺の僧覚盛が長谷寺に詣で、途中雨にあったために、とある古社に雨を避けたことがありました。そのとき覚盛は種々仏道の妙義を論じるうちに、話はたまたま戒律のことに及び、
「戒律は仏道修行の要諦であるが、今日においてはまったく頽廃の極に達している。自分はいかにもしてこの戒律を復興したいと思っているが、この念願を成就するためにはどうしても自誓自受するほかはない」
と語りました。このとき座にいた叡尊はこれを聞いて大いに喜び、深く共鳴するところがあり、ここにはじめて戒律復興の志を固めたのです。
のち、嘉禎元年(1235年)、三十五歳のとき、東大寺の戒壇院において興福寺の円晴から『四分律行事鈔』の講義を聞くに及んで深く感じるところあり、ますます求法修学の志を強くし、それ以来「身命を捨てて稽古さらに倦むことなく」、ひたすら研学修行に余念もなかったのです。こうして翌二年九月一日、東大寺大仏殿を厳飾し、本尊盧舎那仏の相好を観じてまず優婆塞戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒を禁じる五戒)を自受し、翌二日さらに沙弥の守るべき十戒を自受し、越えて四日には覚盛とともに登壇の式を行い、ここに比丘の戒律たる具足戒を自受したのでした。こうしてのち、海龍王寺に住し、ついで西大寺に移って戒律思想の民衆化のために大いに力を尽くし、赫々たるその戒徳はたちまち四方に広がり、その徳を慕って叡尊の門に投じる者はその数を知らない有様でした。

社会事業上の事蹟
叡尊は、戒律を実践するためには社会福利の増進をはかり、下層民の救済にあたらなければならないと考え、ひたすら興法利生のために意を用い、その生涯をほとんど旅に送ったのですが、そうした彼の社会的な活動はほぼ四十歳のころからはじまりました。彼の社会事業上の事蹟は、刑務教誨(きょうかい)、非人救護、遊女・海女の教化、禁酒運動、動物愛護運動など、きわめて広汎な範囲にわたっています。
今その代表的な二、三の事蹟を挙げれば、仁治三年(1242年)四十二歳の年に、当時京都にあって東獄、西獄の囚人を入浴させ、これに飲食を与えて授戒した事実があり、寛元二年(1244年)四十四歳の年には、今里野において仮屋を作り、付近の諸部落に散在する一千余人の非人を集めて斎(とき)を供養し、のちさらに摂津の広田で「所々の非人はみなすべてご教化にあずかったが、我々のみはその恩恵に漏れている。願わくは我々に対しても平等の慈悲を垂れられたい」という意味の非人の起請を受け、文永十二年(1275年)八月には、三千三百三十五人の非人に対しておのおのに銭三十文を施し、さらに広く放生を行い、名僧百人を請じて布施を行ったりしました。また叡尊は遊女や海女に対しても救済の手をさしのべました。すなわち弘安八年(1285年)八十五歳の年には、播州の法華山からの帰途兵庫に立ち寄り、この付近の遊女や海女九百七十二人に菩薩戒を授けています。遊女を教化した人には浄土宗の開祖たる法然上人の事蹟が伝えられていますが、叡尊もまたその一人でした。こうした彼の感化を受けた遊女や海女は、喜んで仏道の精進を誓い、殺生禁断状を捧げる者や毎月持斎する者はおびただしい数に上ったといいます。
こうして四十歳のころから齢九十にして没するまで、衆生救済のために南船北馬、諸国遍歴の旅を続けて席の暖まる暇もなく、その社会事業的な事蹟は枚挙にいとまのないほどです。叡尊のこうした事業は、もとより彼の菩薩行の実践という宗教的良心から出発したものであることは否めませんが、平安朝における社会事業家行基菩薩の行履を憧憬し、さらに当時仏教界にみなぎっていた「和国の教主」といわれる聖徳太子崇拝の傾向もまた与って大いに力あるものでした。それはのちに行基の誕生地たる和泉の家原寺に詣でて如法別受菩薩戒を修したり、河内の聖徳太子の御廟に参籠して一夜不断に如意輪大呪を誦して祈請をこらしたりした彼の事蹟によって明らかに知られるところですが、まことに彼の社会教化のための生涯は、聖徳太子や行基菩薩の歩みにも勝るとも劣らないものでした。

晩年の叡尊
このように叡尊はもっぱら救済事業のために力を尽くしたのですが、文永年間に蒙古が牒状を送ってきたときには、大神宮に詣でて異国調伏の祈祷を修していますし、弘安二年(1279年)には後深草上皇の御召しを受けて梵網経を講じ、亀山上皇に大戒を授け、公卿以下五十九人に戒を授けています。のち、後宇多天皇も戒を受けたまい、伏見天皇も受戒したまいましたが、こうした事蹟によって見れば、叡尊がいかに皇室の厚い信任を受けていたかがうかがわれます。弘安四年(1281年)七月、了意房行阿は叡尊に謁して、石清水において修行する夷狄退散の修法に衆僧を率いて参加されたいと請いました。当時叡尊は八十の坂を越えていたこととて、老衰その任に堪えずと辞退しましたが、再三の勧請を受けた彼はついに意を決し、ただちに諸寺に飛脚を遣わして五百六十余人の南都、京都の僧を集めて宝前に勤行し、彼らのために戒を説いたのでした。老いてなお盛んな彼の意気のほどがしのばれます。
こうして生涯をもっぱら利生事業のために捧げた叡尊は、正応三年(1290年)八月病を得、この月の二十五日、九十歳の高齢をもってその生涯を閉じました。没後十年を経て正安二年(1300年)、興正菩薩の号を贈られました。叡尊から戒を受けた者は八万六千百三十余人に及び、その門下もまた少なくありませんでしたが、信空は西大寺のあとを継ぎ、良観は鎌倉に至って極楽寺を開創し、叡尊にならって社会事業に尽くしました。叡尊の著書は数種ありますが、『梵網古迹文集』『表無表章文集』『感身学正記』などはその主なものです。
七歳で母を亡くし、よその家にやられた貧しい子は、師なしに自分で戒を受け、その戒を牢屋と野原と港に運びました。八万六千人に授けた戒のなかには、囚人と、村を追われた人々と、遊女と海女の名が入っています。戒律を守るとは、人を選ばずに人のそばへ行くことだと、この人は九十年かけて示しました。


