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伊藤圭介の生涯|シーボルトに学び日本初の理学博士となった植物学者

伊藤圭介の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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文政九年(1826年)、長崎から江戸へ向かうシーボルトの一行を、道筋のあちこちで人々が待ちかまえていました。禁を破って藩を脱走し、数十里の道をわらじ履きでやって来た者さえいます。シーボルトは宿に泊まるたびに、夜を徹して彼らと語り合いました。そのなかに、名古屋の若い医師がいました。伊藤圭介(いとう けいすけ)、二十四歳。のちに日本で最初の理学博士となる人です。

 

日本の植物学と伊藤圭介

世界の歴史を見ると、どこの国の、いつの時代においても、その社会における文化の進展は、常に医学からはじまっています。まず遠い原始時代において、病人を治療するために、病気に効き目のある木の根や野の草を採集することが行われました。それがしだいに発達してきて、とくにその方法に精通した者が専門家としてそのことに従事するようになりましたが、彼はすなわち原始社会における医師であり、同時に植物学者であったのです。

わが国において、いわゆる「本草学(ほんぞうがく)」が発達した事情も同じでした。本草学、すなわち「薬の本となる草に関する学問」は、王朝時代にはすでに相当発達していました。その後の戦国時代は文化的に見てまったくの暗黒時代でしたから、この学問も衰えてしまいましたが、やがて徳川家康が天下を統一して世の中が平和になるとともに復興します。そしてこの時代になると、単に「薬の本になる」植物を研究するだけにとどまらず、進んで広く植物の世界そのものを研究し、それを分類し、系統づける学問、「植物学」が古来の本草学から独立して発展しはじめました。もちろんこれらの学問そのものは、わが国の学者が独自の力で発展させたわけではなく、常に中国の学者に手引きされつつ、発達してきたものです。しかし、その中国から輸入した学問によってわが国の山野に生えている植物を研究し、日本の本草学、日本の植物学をそこまで発展させた学者の苦心は、並々ならぬものでした。

西洋の自然科学がわが国に入ってきたのは、明治維新の前後になってからのことです。そこではじめて日本の植物学も「科学」としての面目を備えることになったのですが、この新しい日本の植物学というものは、昔の本草学者や植物学者が苦心惨憺(さんたん)して築き上げた古い本草学、植物学の土台の上に発展していったのでした。さて、ここで伊藤圭介の生涯を見ると、この植物学の発展の歴史が、九十九歳まで生きた彼の長い一生のなかにさながらに反映されていることが、はなはだ興味深いのです。

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シーボルトに会うまで

伊藤圭介は享和三年(1803年)、名古屋の医師・西山玄道(にしやま げんどう)の家に生まれ、二男であったので、早くから伊藤家の養子となりました。養家もまた医師でしたから、封建時代のこととて、彼は当然その家の業を継いで医師となるべく約束されたのです。当時はまだ西洋医学は一般化されていませんでしたから、医師といっても漢方医です。したがって、いわゆる「本草」の知識がその学問の主要部分になっていました。そこで彼は幼時から本草学の教育を受け、また水谷豊文(みずたに ほうぶん)について植物学も勉強しました。そして文政三年(1820年)には、年十八歳にして早くも一人前の漢方医となり、その家の門に看板を下げて診療所を開業するに至ったのです。

だが、当時の世相はどうだったでしょうか。西洋においてはすでに文明が高度に発達し、蒸気船によって大洋を縦横に航行しはじめています。イギリスからもロシアからも年々船がやって来て、幕府に開港と貿易を迫っています。だから幕府がいかに必死になって鎖国を続け、三百年来の旧態依然たる封建制度のもとに国民の体も心も押しこめておこうと努力しても、それは無駄でした。西洋の文化は幕府の厳重な封鎖を破って国内に入ってきます。医学の領域においても、杉田玄白が西洋医学を唱えはじめて以来、高野長英、伊東玄朴らの新人が出て、幕府の弾圧に屈せず、学問の自由と進歩のために闘っていました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は、玄白が西洋医学を唱えはじめた年を「宝暦八年」(1758年)としていますが、玄白らの『解体新書』が出たのは安永三年(1774年)です。

 

当時においても医学が新文化の先駆としての役割を担い、また医師が進歩的な思想運動の指導者となっていたことは、非常に興味深いことです。すなわち高野長英などは、西洋医学の進歩に驚嘆し、それを深くきわめるために蘭学に精進するうちに、おのずと西洋文明そのものに対して関心を持つに至り、ついに単に日本における医学の改革者たるにとどまらず、一歩を進めて、新文化運動の指導者、幕政の批判者となったのでした。社会の情勢はこのようであり、そして若い医師・伊藤圭介は、年十八にして堂々と医師の門戸を張りえたほどの才人です。彼がいつしか進歩思想を抱くに至ったのも当然でした。彼はいたずらに父祖の業を継いで一町医者たるに甘んじてはいられなくなったのです。それで、医師を開業してわずかに一年になるかならずに早くも門戸を閉ざし、その翌年、洋学研究のために京都に行きました。

長崎にシーボルトが来たのは、圭介が京都で研究している時代、すなわち文政六年(1823年)です。シーボルトは文政九年(1826年)、将軍に会うために江戸に上りました。彼はその旅行の途中、いたるところで洋学の研究家や進歩主義者に迎えられました。今日では想像もできないことですが、鎖国の当時では洋書の輸入されることも少なく、外国人がわが国に来ることも少なかったから、知識欲に飢え、海外の事情に興味を抱く人々は、この機会を逃すまいと、必死になってシーボルト一行が通る道筋を追って集まって来たのです。なかには彼とたった一度面会するために、禁を破って藩を脱走し、数十里の道をわらじ履きでやって来る人さえありました。だからシーボルトは、沿道の旅館に一泊するたびに、それらの人々と夜を徹して座談会を開いたのです。彼はのちに著した書物のなかで、当時の日本の進歩主義者の知識欲の旺盛なことを驚嘆しています。

伊藤圭介もまた、彼の東上の途中を待ち受けて座談会を開かせた人々の一人でした。その会において彼は非常に啓発され、シーボルトがやがて江戸から長崎に帰って出島の宿に落ち着くや、すぐに彼のもとに至り、その門下生となったのです。

 

※ 底本はシーボルトが「長崎に着くと、すぐに」江戸に上ったように書いていますが、来日は文政六年、江戸参府は文政九年です。圭介がシーボルトに会ったのはこの参府の途中(東海道の宮の宿)で、長崎で入門したのは翌文政十年(1827年)でした。

 

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日本最初の理学博士

前述のように、昔の医学の主要部分をなすものは本草学でした。伊藤圭介は漢方医たるべくこの学問を勉強しましたが、彼の興味はしだいに本草学より植物学そのものに向かっていきました。京都時代にも、彼は洋学を研究しつつ、この方面の研究を進めていたのです。それで、シーボルトのもとに入門したとき、彼はその研究における相当まとまった業績を持っていました。それはのちにシーボルトの手によってオランダのライデン博物館に蔵され、ミケルによって再研究されて広く世界の学界に紹介されましたが、これはまだ三十歳にもならぬ彼によってなされた、世界の植物学に対する最初の大きな貢献でした。

さて、彼はシーボルトから、はじめてもっとも新しい自然科学の教育を受けることができました。そして彼は、日本の植物学史上の一大記念塔となったところの大きな事業をなしとげます。それはトゥーンベルク(ツュンベリー)の『日本植物誌』の翻訳でした。ヨーロッパの学者たちは、日本がまだ鎖国の眠りをむさぼっている時代において、早くも学術研究隊を組織して日本の近海まで船を乗り入れて研究していましたから、日本の植物についての研究なども、当時すでに相当に進んでいたのです。彼はそれを『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』と題し、かつリンネの「植物分類式」をその付録として出版しました。これは宇田川榕庵(うだがわ ようあん)に次いでわが学界に近代自然科学としての植物学を伝えた先駆的なものであり、またその後の日本の生物学の発展の基礎となったものです。すなわちそれ以来、わが国の学者たちは西洋の自然科学の移入と理解に努め、その通俗教科書や講話などの翻訳書、抄訳書が洪水のように出現しはじめ、西洋の自然科学は急速に一般化したのでした。のち、明治十三年(1880年)にストックホルムの王立学士院が彼に銀杯を贈ってきたのは、彼がいち早くリンネの学説をわが国に移植した功績に報いるためであったと底本は伝えています。わが国の学者で海外からこのような名誉を与えられたのは、彼をもって最初とするのです。

さて、彼の名声はしだいに朝野に知られるようになり、文久元年(1861年)、幕府は彼を江戸に呼び寄せて蕃書調所(ばんしょしらべしょ:幕府の洋学研究機関)への出仕を命じました。ときに五十九歳です。蕃書調所はのちに東京大学に発展したもので、彼は新政府のもとに理科大学の教授となりました。彼のその後の業績のもっとも大きなものとしては、東京植物園の目録および図説を著したことがその一つです。東京植物園(小石川植物園)は寛永十五年(1638年)に将軍家光が薬草園として開いたもので、日本全国からはもちろん、年々海外諸国から輸入された植物までもが移植されて、明治になってそれが大学の所管に移された当時は、実に非常な種類の植物が繁茂していたのです。それを整理し記録する仕事は彼にしてはじめてなしえたことでしたが、それが学界に寄与したところはすこぶる大きいものでした。

政府は、明治二十一年(1888年)に学位制が定められるや、彼の多年の功績に報いるのに、日本最初の理学博士の名誉をもってしました。また彼は明治三十四年(1901年)、九十九歳の高齢で逝く少し前に、学問上の功労により男爵を授けられ、帝国大学名誉教授の称号をも贈られています。

江戸の初めに家光が開いた薬草園を、明治の大学で整理した人。その一生は、薬草を探す本草学から、分類し系統づける植物学への、日本の学問の歩みそのものでした。九十九年を生きた人が、二つの時代を一人でつないだのです。

伊藤圭介の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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