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伊東巳代治の生涯|語学力と実務能力で国家の危機を救った「憲法の番人」

伊東巳代治の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「ああ、そうか」

警視総監が「そんなことを言うならおれは辞める」とすごんだとき、相手の若い官僚はそう言って、あっさり辞表を受け取りました。伊藤博文が驚いたこの人の名は、伊東巳代治(いとう みよじ)。長崎で英語を身につけ、伊藤の右腕として明治の国家を支え、のちに自ら「憲法の番人」をもって任じた人です。

 

英語を学ぶ

伊東巳代治(1857〜1934年)は、安政四年(1857年)、長崎に生まれました。伊豆の伊東から流れて没落した旧家で、父は地位の低い地役人(じやくにん:現地採用の下級役人)でした。巳代治は八歳のとき聖堂に漢学を学び、フルベッキについてみっちり英語を教わります。のちにこの英語は、終始彼の立身の鍵となったのです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』はフルベッキを「イギリス人」としていますが、フルベッキはオランダ生まれのアメリカ人宣教師です。

 

そのころ一家は、維新で士族を削られ家禄を没収されたので、父祖伝来の陶器や書画の類を売りながら質素に生活を支えていました。フルベッキが東京へ移ってからは、代わりにアメリカ人の宣教師スタウトについています。そして彼が十四歳のときには、立派に英文が書け、自由に会話を消化するに至っていました。長崎新町の広運館という中等程度の学校へスタウトが招かれて入ったとき、その勧めで彼も勤めに入りました。そこには英語の先生もいましたが、会話がだめでスタウトと語ることができないため、そのつど巳代治が引っぱり出されて通訳の労をとっていたといいます。

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立身第一歩

明けて明治五年(1872年)、彼は十五歳でした。東京から工部省の電信頭で洋行帰りの石丸が、同省の留学生を募集に長崎へ来ました。彼はさっそく試験を受け、答案はもとより全部英語で応対し、上々の首尾で合格するとともに、大いに石丸から嘱望(しょくぼう)されます。こうして父母の許可を得て上京しましたが、海路横浜に到着すると、まずおびただしい人力車の往来にびっくりしました。ついで品川まで汽車に乗りましたが、はじめてなので、大いに文明の機械がうれしかったといいます。

さて工部省へ出仕して外国語の電報を取り扱っていましたが、洋行の目的はなかなかはかどりそうもありません。石丸へ英文で不平を訴えると、もう少し待てという。が、彼はついに癇癪(かんしゃく)を起こして、同じ年の十二月に無理に職を辞し、大阪の兄を訪れました。すると兄貴はかんかんになってそのわがままを責めましたが、今さらしかたがないので、神戸で発行していた外国人経営の新聞『兵庫神戸ヘラルド』へ入社の斡旋(あっせん)をしてくれました。ここでも主筆クルッチャーの試験がありましたが、和文英訳のみごとなのに敬服され、月給三十円を支給すると申し渡されます。それは底本が書かれた昭和の初めの三百円くらいにも当たるでしょうか。巳代治はすっかり面食らってしまいました。明治六年(1873年)、彼が十六歳のときのことです。仕事というのは日本字新聞の翻訳でしたが、クルッチャーが法律専攻の人だけに主として法理上の問題、訴訟などの記事が多く、その刺激で彼も法律問題に興味を持ち、ゆくゆくは代言人(だいげんにん:今の弁護士)になるつもりでした。

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神田孝平に見出さる

あるとき、土地貸借の契約内容について、文章の解釈から居留外国人と県庁とのあいだに面倒な紛争が起こりました。それを、通訳に頼まれた彼が有利かつあざやかに取り決めたのが縁で、兵庫県令・神田孝平(かんだ たかひら)の見いだすところとなり、県庁の翻訳課詰めになりました。神田は年少の彼に非常に目をかけましたが、漢学の素養が浅いので、手を取るようにして毎日自分で教えたものです。だがそのやり方は、たとえば平仮名だらけの近松の『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』を一週間のうちに漢訳したまえというような風で、巳代治はかなり汗を流したらしい。後年彼が漢文漢詩を作れるようになったのは、神田孝平の薫陶(くんとう)が基礎となったのです。彼は学問と出世の上に、これらのよい環境と条件が多い人でした。

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県庁の乱闘と領事の仲裁

神田が東京へ赴任すると、かねて庁内にくすぶっていた役人同士の派閥が公然と対立してきました。ある日とうとう爆発し、双方入り乱れて闘い、ガラス窓から器具調度から一切原形をとどめないまでに破壊して、各国領事の仲裁でやっと収まりましたが、その一方の大将が伊東巳代治でした。これはすぐ東京に聞こえずにはいません。神田から上京をうながされたので、行くとすっかり叱られ、しばらく神田の邸で謹慎していました。

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方向転換をなす

そのしょげているとき、桂太郎の先輩だった静間謙助(しずま けんすけ)が神田の留守にやって来て、彼を慰めると同時に代言人志望を一笑に付し、役人になれ、役人になれと勧めて、工部卿・伊藤博文に紹介しました。博文はそこでアメリカ政府へ送る外交文書の要領を話し、その場で書かせて試験してみたのです。と、彼は草稿も作らずにすぐまとめてしまったので、博文は彼の学才と大胆さにやや呆れたそうです。翌明治十年(1877年)正月、工部省権大録(ごんだいろく:翻訳課長)の椅子が与えられました。明治十一年(1878年)に大久保内務卿の暗殺があり、博文がそのあとを継いだので、一緒に内務省へ移っています。

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彼の精力

その後は内外多端な時局に処して、常に博文を助け、努力を惜しみませんでした。明治十二年(1879年)に起こった琉球の所属の問題には、清国政府との折衝に、また東洋視察に来たアメリカ大統領グラントとの交渉に縁の下の活躍をやって、日本の領土たることを確認させました。十五年にヨーロッパへ憲法調査に博文が出かけたときには、随員の一人として、旅費のことから雑用まで一人で切り回し、行く先々の憲法学者に会って意見を筆記しています。また天津条約の際には、李鴻章全権との一問一答の公文書を不眠不休四日間で翻訳し、うっかりしていた博文の手落ちを補ったこともあります。ふつう二、三人で十日はたっぷりかかる仕事です。彼の学才もすぐれていたでしょうが、精力の強いことがずば抜けていました。

 

※ 天津条約は明治十八年(1885年)四月に結ばれました。底本は「明治十七年」としています。

 

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その性格と大津事件

剛愎(ごうふく:強情で人に従わないこと)専制をもって有名な警視総監・三島通庸(みしま みちつね)が保安条例で自由党員を弾圧したころ、党員の帝都立ち退きを命令すると同時に捕縛するというような無茶を発揮しました。それには博文も閉口し、巳代治に交渉させると、さっそく喧嘩になってしまいました。

「自由党の奴らなぞ、どう取り扱おうと構やせん」

「そんな野蛮な話ってあるものじゃない。やはり法律に準拠して取り締まるのでなきゃいかん。考えたまえ」

「そんなこと言うならおれは辞める」

「ああ、そうか」

と巳代治は簡単に辞表を受理し、伊藤を驚かせたことがあります。理義を重んじるとともに、負けず嫌いな人でした。

伊藤が枢密院議長になると、彼はその書記官長に任じられました。そして明治二十四年(1891年)の大津事件(巡査がロシアの皇太子に斬りつけた事件)で閣僚や元老は色を失いましたが、巳代治は泰然として善後処置を提案し、勅書の草案を作成して、穏やかに切り抜けることに力があったのです。

 

※ 伊藤が枢密院議長に、巳代治がその書記官長になったのは、枢密院が設けられた明治二十一年(1888年)四月のことです。底本は「明治二十年」としています。

 

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三国干渉前後

日清戦争後、彼は批准交換の全権弁理大臣を命じられました。そのときすでに三国干渉が表面化していました。すなわちロシア・ドイツ・フランスの三国が、講和条件の遼東半島割譲は東洋の平和に害があるとして、その放棄を勧告してきたのです。広島の御前会議に書記官長の身で参列を命じられ、議題の前にしんとして声の出ないとき、巳代治は意見を述べました。

「残念ながら、三国の要求に応じるよりほかありますまい。清国と戦って疲れている矢先、今またこの三大国を向こうに回して戦うことを考えるのは無謀である。要求を容れることは決して不名誉でない。いったんは応じ、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、他日の謀をめぐらすべきである。今日の場合は忍ぶべからざるを忍んで、あっさりこれを承認してはいかが」

外相の陸奥宗光は舞子で持病を療養していたので伊藤がたずねると、いちおう反対しましたが、結局、清国には一歩も譲らず三国の勧告には従うこととし、全権の任命となりました。こうして巳代治が旅順の本営に赴くと、川上操六(かわかみ そうろく)が待っていました。

「自分は文官で軍のことは知らぬが、現在三国の軍艦は十四万トンから結集している。もし批准交換に故障が入って三国と戦わねばならぬような場合には、疲れた破れ船でも必要になってくるから、自分は丸腰で木造船で行く。何も軍艦で行かねばならぬというのではないゆえ、木の船を一つたのむ」

と覚悟のほどを見せ、川上を感激させました。そして芝罘(チーフー)の談判に乗りこみ、伍廷芳(ごていほう)全権と、一流の押しで無事批准の交換を終えたのです。その功で男爵を授けられ、のち伯爵に昇りました。枢密顧問官として自ら憲法の番人をもって任じ、帝室制度審議会副総裁、臨時御歴代史実考査委員会総裁として、皇室の規範や皇統の闡明(せんめい:明らかにすること)に尽くすところが多かったのですが、昭和九年(1934年)二月十九日、胃潰瘍のため七十八歳で永眠しました。

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趣味

彼の趣味は第一に盆栽で、幾百種も集め、すべて自ら手を入れ、一鉢ごとに手入れの年月日を木札に記していたほどの熱心さでした。なお刀剣、硯(すずり)にも鑑識眼を持ち、この方面でも屈指の一人でした。終わりに、ややユーモラスに思われるのは、新聞記者の大嫌いな彼が、東京日日新聞の社長をやったことです。しかもそのときは農商務大臣とかけ持ちだったというから、ほかにちょっと類がないでしょう。なんでも編集などに対して一家の見識を持ち、なかなかやかましかったといいます。自信が強かったのです。

没落した家の子が、長崎で覚えた英語ひとつを足がかりに、憲法調査の随員から全権大臣にまで上りました。総監の辞表を「ああ、そうか」と受け取った人は、三国の軍艦を前にしても「木の船を一つたのむ」と言えたのです。

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