明治のはじめ、蠣殻町(かきがらちょう:現在の東京都中央区日本橋)の松平三河守(みかわのかみ)の屋敷の中に、一軒の米屋が開きました。
店の主人は、自分で米を搗(つ)いていました。巨躯(きょく:大きな体)の男です。ついこのあいだまで、幕府の講武所(こうぶしょ:幕府が武術を教えた機関)で、水泳の指南役をしていた人でした。武士の気分がまだ消えきらない胸に、現実の悲哀を感じながら、臼を回していたのです。
その臼のまわりを、三つか四つの男の子がよちよち歩いて、うるさく遊びまわります。主人はこの子に邪魔されながら、ときどき抱き上げてやったりして、荒仕事を続けました。
のちにこの子が、彼の流儀の四代目の家元を継ぐことになります。何か因縁めいた話です。
彼の名は太田捨蔵(おおた すてぞう)。水戸に生まれ、講武所の三羽烏と謳われ、時代に取り残されて米屋になり、それでもふたたび水に戻って、日本の泳ぎの型を作った人でした。
水府流の達人
水府流(すいふりゅう)とは、元禄年間(一六八八〜一七〇四年)に水戸藩の島村孫左衛門(しまむら まござえもん)が始めた泳ぎの型です。
孫左衛門は多くの門下生を教えました。教える場所は那珂川(なかがわ)です。ところがこの川は、たいへんな急流でした。そこで特別な泳ぎ方を考えなければなりません。彼は「熨斗(のし)泳ぎ」という泳ぎ方を考え出し、水戸藩の子弟に教えました。こうして、関東における横泳ぎ・水府流の開祖となったのです。
孫左衛門の死後、その子・正広(まさひろ)が高弟の鳴海清一(なるみ せいいち)に伝え、それから二百年あまり、二十代にわたって受け継がれて今日に至っています。
水府流という名の由来はこうです。水戸の光圀(みつくに)が文武両道を奨励して弘道館(こうどうかん)を建てたとき、武芸の一つとして水泳を加え、島村孫左衛門の泳法を用いました。それで水府流と呼ばれるようになったのです。
明治の水泳師範・太田捨蔵は、この水府流の達人でした。
天保元年(一八三〇年)七月七日、水戸に生まれ、幼名を市太郎といいます。体格がよく、たいへん意志の強い男でした。幼いころから泳ぐのが好きで、弘道館に入って水府流を学びます。腕前はたちまち仲間を抜き、その抜きんでた技は、いつも同輩の賞賛の的になりました。
人に褒められるようになると、自分にも自信がついてきます。彼の胸には、ぜひとも水泳家として世に立ちたいという望みが、火のように燃え始めました。江戸に出たくてたまらない。江戸には幕府の講武所がある。それがしきりに彼のあこがれをかき立てたのです。
ついに江戸へ出た彼は、望みどおり幕府講武所の指南役になりました。ここでもその大きな体と優れた体力と技は、たちまち人々の絶賛を集め、ほかの二人の優れた先輩とともに「講武所の三羽烏」とまで謳われます。このころが、若い日の彼の得意の絶頂だったでしょう。
やがて彼は、時代の移り変わりとともに、落ちぶれる苦しみを味わわなければならなくなります。

落魄時代
維新の大業が成り、世は明治の新しい時代に移りました。幕府の講武所は、当然のように閉鎖されます。時代の移り変わりにしょんぼりと嘆いたのは、水泳家・太田捨蔵ひとりではありません。すべての武道はここで形を変え、武技で世に立っていた者は、あらためて別の暮らし方を探さなければならなくなったのです。
当時、剣道の達人として名高かった榊原鍵吉(さかきばら けんきち)のような人でさえ、衣食に困った末、ついに浅草の見世物師の仲間に身を投じたほどでした。法螺貝(ほらがい)を吹いて観衆を集め、飛び入り自由の試合を見せ、わずかな木戸銭で飢えをしのいだのです。
ところが太田捨蔵には、そんな真似もできません。思案に暮れた末、思いあまって米屋になりました。開いた場所は、冒頭に記した蠣殻町の松平三河守の屋敷内です。そして、まだ武士気分の抜けきらない心で現実の悲哀を噛みしめながら、自分で米を搗いたのでした。
底本が書かれた当時、水府流太田派の四代目の家元だった宇田川五郎(うだがわ ごろう)は、まだ三、四歳で、よちよち歩いてこの米屋に行き、臼のまわりをうるさく遊びまわったものだといいます。その子がのちに水府流太田派を継いだのですから、何か因縁めいた話です。

水泳所の開設
太田捨蔵がこうして落ちぶれていたころ、やはり水泳武芸の落ち武者だった向井流(むかいりゅう)の鈴木正家(すずき まさいえ)が、両国橋の近くに水泳所を開きました。これを見て、捨蔵は日夜あせります。昔取った杵柄(きねづか)で腕が鳴り、自分の将来がひしひしと思われたのです。
一度は思い切った水泳でした。しかし、もう一度それに将来を託そうと考え、ひたすら機が熟すのを待ちます。やがて機会は来ました。いや、自分から求めたのです。細川邸の前、いまの浜町公園のある場所に、ついに長年の念願だった水泳所を開きました。といっても当時は、葭簀(よしず)張りの上にわずかに幔幕(まんまく)を張りめぐらしただけの設備です。明治八、九年のころのことでした。
ところが、やっと念願を果たした水泳所の開設は、彼にあまりよい結果をもたらしませんでした。
先に水泳所を開いた鈴木正家の向井流は平泳ぎで、世間の目はこれに慣れていました。そのため、太田の水府流の横泳ぎを見ると、誰もが可笑しがって吹き出してしまうのです。この泳ぎ方の狙いや必要な理由を確かめようともせず、ただ「あれは田舎泳ぎという流儀だ」と、頭から嘲笑しました。もちろん商売敵ですから、向井流が中傷するところもあったでしょう。こうして彼の泳法は、世間からも他流からも、まったく異端扱いされたのです。
向井流に対する世間の評は、「向井流は敵前の泳法である。進んで行く前方を見つめて泳いでいる」というものでした。水府流に対しては、こうです。「太田の水府流は行く先を見ずに後ろ向きになって泳いでいくが、あれはいったい何の真似だ。体も横倒しじゃないか」
しかし太田捨蔵は、そんな冷たい評に耳を貸しませんでした。人の目に媚びず、迷わず、いつも超然として自分の本領を発揮し、研鑽(けんさん:学問や技を深めること)に努めます。こうして磨かれた彼の泳法には、やがて新しい境地が開けました。水の流れの勢いに応じて、その場その場で泳ぎ方を変えること。泳ぎの決まりを、一つの型のなかに固めてしまわなかったのです。

好評の時機来る
太田派の試験の方法は他流とはだいぶ違い、なかなか勇壮なものでした。隅田川の流れがもっとも激しいときに行い、大潮まわりの下げ潮に向かって、その急流に逆らい、雄々しくも柳橋まで遡って泳ぐのです。
こうするうちに、太田派の特徴はしだいに世に認められていきました。他流の水泳所がまた近くにでき始めましたが、太田派がその前を泳いで通っていくときには、みな水から上がって「そら、太田が始めた」と、陸から見物するようにさえなります。泳法はしだいに流行し、今まで排斥していた人々までが、ぽつぽつ太田派の真似をしてみるようになりました。
こうなればもう大丈夫だ。彼は他流に競泳を申し込みました。すると「当方では、他流試合はしない」と、どこでも断られます。負けを避けるためでした。他流がそれほど恐れるほど、太田捨蔵の技は妙技の域に達していたのです。
隅田川を、わずか十七かき——十七回手を動かしただけで横断したといいます。これはいっそう世間を驚かせました。一度手をかけば、三間(約五・五メートル)ほどすうっと体が滑っていく。水雷のような速さで、まったく他の追随を許さない非凡さでした。

日本最初の対外競泳
東京に敵がいなくなった太田派は、横浜の外国人のアマチュア倶楽部に競泳を申し込んでみました。すると、すぐに快諾されます。競泳は明治三十一年(一八九八年)八月、横浜のグランドホテルの沖で行われました。種目は百ヤード、四百四十ヤード、八百八十ヤードの三つ。双方から二人ずつ選手を出し、結果は二勝一敗で、見事に日本側の勝ちでした。
翌年は、向こうから申し込んできます。今度は隅田川で、言問(こととい)までの距離。これも二勝一敗で太田派の勝ちでした。このときの一敗も、太田派の選手の一人が心臓麻痺を起こしたためで、そうした故障がなければ、外国人の一団は惨敗していたかもしれません。
明治三十七、八年ごろ、大阪の築港から播州御影(はりま みかげ:現在の神戸市東灘区)まで、十マイル(約十六キロ)の競泳が行われました。それまで世間では「水府流は速いが、長距離には向かない」と言われていたので、この競泳では、太田派の選手は少しも体の形を変えず、横体で通したのです。
のちの外交官・杉村陽太郎(すぎむら ようたろう)は当時まだ大学生でしたが、はるばる東京からこの競泳に駆けつけ、水府流太田派の選手として出ました。この日の成績は素晴らしいものでした。飛び離れた第一着。第二着を一マイルあまり引き離し、最後の第六着に先立つこと、じつに三時間だったのです。
このときまで太田派の泳法は関西には知られていませんでしたが、この一挙で大いに評判となり、これをきっかけに、その後はしだいに全国を風靡するに至りました。
太田捨蔵は年を取ってからも、ブランデーを飲んでは水に入っていました。明治二十五年(一八九二年)、享年六十三で世を去ります。彼の創始した泳法は、現代日本型泳法の基準となっています。
「田舎泳ぎ」と笑われた横泳ぎを、彼は変えませんでした。変えたのは、流れに応じて泳ぎ方を選ぶという、型の中身のほうでした。
講武所の三羽烏から米屋へ。米屋から葭簀張りの水泳所へ。そこから隅田川を十七かきで渡る技へ。太田捨蔵。時代に取り残されても水を捨てず、自分の泳ぎを信じ続けた人でした。


