承応三年(1654年)七月、明(みん)の国から一人の老僧が長崎に上陸しました。年は六十三。弟子たちは海難を恐れて何度も止めましたが、四度の招きを受けて、ついに海を渡ったのです。名は隠元隆琦(いんげん りゅうき)。この人が伝えた禅は、眠っていた日本の仏教界を揺り動かし、宇治の黄檗山万福寺(おうばくさん まんぷくじ)となって今に残ります。
隠元の渡来
徳川時代は統一的な封建政治の時代で、国民の活動はすべて徳川氏の武家政府の永続のために都合のよいように統制されていました。したがって仏教もその影響を受け、公家衆法度や武家諸法度と並んで諸大寺の法度が相次いで制定され、僧侶や寺院の活動は常に厳重な幕府の干渉を受けるに至りました。しかしその半面、仏教は徳川幕府によって過分の保護を受けていました。これは幕府が僧侶や寺院の強大な勢力をその政策に利用しようとしたもので、検死的な意味を含む葬式を制定したり、年忌法要を制度化したりする一方、寛永十四、五年の島原の乱以来は異教排撃の政策と結びついて、仏教をもって国教とし、僧侶に寺請(てらうけ)制度のもとで戸籍の役目を担わせたのでした。こうした徳川幕府の政策によってまったく御用宗教化した当時の仏教は、きわめて生気のない読経仏教に堕して、ひたすら目先の安逸をむさぼっていたのです。
このとき、この制度化された宗教に対して溌剌(はつらつ)とした生気を注ぎこむ、一つの新鋭な仏教集団がありました。それは、鎖国日本の唯一の「文化の窓」ともいうべき長崎の港市を中心として伝来した黄檗禅です。この黄檗禅を日本に伝え、いたずらに安逸の夢をむさぼっていた当時の仏教界に偉大な衝動を与えた者こそ、実に承応三年(1654年)、明から長崎に渡来した隠元でした。隠元が長崎に上陸して黄檗禅を提唱するや、仏教界の新鋭分子は競って隠元の門下に集まり、その薫陶(くんとう)を受けました。のちに一切経を開板した鉄眼(てつげん)や、仏教的な社会事業家として知られる了翁(りょうおう)などは、このとき隠元に法を聞いた門下中の俊足です。
こうして隠元の渡来は、沈滞の極にあった当時の日本仏教界に大きな波紋を投げかけるのに十分でした。隠元の名声はたちまち四方に広がり、来てその門に投じる者はその数を知らず、通訳によって聞かれる講演のどんな短い言葉も、新しい福音として当時の仏教徒を益し、啓発したのです。のち、隠元は山城国宇治に黄檗山万福寺を草創して日本黄檗宗を開きましたが、延宝元年(1673年)に八十二歳で倒れるまで各地を歩いて、その徳化は広く四方に及んだのでした。

黄檗山での修学
隠元は諱(いみな)を隆琦といい、神宗の万暦二十年(1592年)十一月四日、明の福州福清(ふくせい)に生まれました。林氏を姓とし、父を徳龍といい、母は龔(きょう)氏でした。もとより家計のあまり豊かでないうえに、隠元が六歳のとき父の徳龍が楚(そ)に行ったまま帰ってこないために家は赤貧洗うがごとくで、彼は勉学の余裕もなく、ようやく九歳のとき学についたもののそれも束の間で、翌年の冬からは学を廃してもっぱら農耕の業に従事し、貧しい家計を助けて母を養わなければなりませんでした。十六歳のころ、ある夜、蒼空を仰いで見て大自然の神秘に心打たれた彼は、仏を学び出家する志を固めましたが、二十歳のとき、妻をめとらせようとする母の勧めを辞して、父を尋ねて諸国遍歴の旅に上りました。他国の山を越え、見知らぬ河を渡り、あらゆる辛酸をなめながら二年ほどさまよい歩きましたが、父の消息はついに得られませんでした。失望と落胆とに打ちひしがれた彼は、ただこの上は仏の冥加(みょうが:ご加護)にすがるほかはないと考え、ある日飄然(ひょうぜん)として南海の普陀山(ふださん)に登り、観世音菩薩に祈願をこめて父の所在を求めたのですが、その後しばらくここに茶頭(ちゃとう:茶をつかさどる役)としてとどまることになりました。
ほどなく彼は山を下って故郷に母を見舞い、いくらもなくして母の死に遭うや、ふたたび彼は旅に出て、泰昌元年(1620年)、黄檗山で鑑源(かんげん)禅師を訪ね、その許しを得てここに剃髪得度するに至ったのです。出家後の彼は専心仏道の修学に余念もなく、朝には経巻を誦し、夕には難行を重ね、あるいは天下を遍歴して諸山の高僧に道を聞くなど、その精励刻苦はまことに涙ぐましいものがありました。ついで隠元は鑑源禅師のもとを辞して金粟山(きんぞくさん)の密雲(みつうん)和尚の門をたたき、前後六年間、血のにじむような修学を続けます。こうした彼の身命を惜しまない求道の努力はついに報いられ、当時密雲の門下に集まる僧侶は万余を数えられたなかで、彼は常にその高弟の地位を保っていました。費隠(ひいん)和尚が黄檗山の主となると、彼は選ばれて西堂(せいどう)となり、のちには費隠の衣鉢(いはつ)を継いで黄檗の主となりました。そのあいだに彼は臨済の正伝をきわめ尽くし、四十三歳のときにはついに印可(いんか:悟りの証明)を受けるに至ったのです。
のち、しばらく崇徳の福厳寺、長楽の龍泉寺などに転住して道を説いていましたが、ほどなくふたたび黄檗山に還って、大いに禅風を挙揚しました。ここにとどまること前後十七年、隠元の徳風はしだいに四方に薫ずるようになったのです。

日本黄檗宗の開創
そのころ、長崎の諸大寺の僧たちは、沈滞の極にある日本仏教の興隆をはかろうとして、しきりに明の名僧を招請しようと試みていました。そしてその白羽の矢はついに、当時徳風並ぶ者のない黄檗山の隠元に立てられたのです。隠元はすでに老齢で、弟子たちは師の身を危ぶみ、容易にその招請に応じようとしませんでした。先に崇福寺の招請に応じて来朝しようとした也懶(やらん)が渡航の途中、風波のために海上の藻屑(もくず)と消えたことなどを思えば、無理もありません。しかし興福寺の逸然(いつねん)らは隠元の東渡を請うてやまず、ついには自恕(じじょ)、古石(こせき)らの僧を遣わしてその渡来を切願したので、前後四回の招請に接した隠元はついに意を決し、黄檗山の法席を弟子の慧門(えもん)に譲って、いよいよ諸弟子とともに来朝することになりました。ときに日本の承応三年七月、隠元の齢(よわい)まさに六十三歳でした。
こうして海上つつがなく長崎に上陸した隠元は、まず興福寺に法席を開いて衆僧のために禅の奥義を講じ、翌明暦元年(1655年)崇福寺に移りましたが、明の師を渇仰してやまなかった諸大寺では競って隠元を招待して法を聴こうとし、隠元のもとを訪れて教えを問おうとする者はひきもきらない状態でした。そのとき隠元の座下に集まった僧たちのなかで主な者は、臨済宗の独照、曹洞宗の独本、鉄牛、鉄眼、潮音、了翁などでした。その年の秋、妙心寺の龍渓(りゅうけい)大徳の切なる招請を受けた隠元は、崇福寺を辞して摂津富田(とんだ)の普門寺に入り、居ること数年、もっぱら意を仏法弘通(ぐづう)、済民利生(さいみんりしょう:人々を救い利益を与えること)のために尽くしたので、隠元の名はにわかに遠近に響きわたりました。
ついで万治元年(1658年)冬、東上して湯島の麟祥院に入ります。隠元の盛徳を伝え聞いた将軍家綱はその年の十一月、隠元を城中に召しましたが、家綱は一見して隠元の人格、徳風の凡庸でないのを見抜いて大いにこれを寵遇し、万治三年、山城国宇治の地を隠元のために与えました。隠元は妙心寺の龍渓らと謀ってこの地に一宇の伽藍(がらん)を創建することとし、ただちに工事に取りかかります。伽藍の構造様式などはすべて明のそれを写したもので非常に宏壮優雅なものでしたが、幕府諸臣の寄付を得て工事は着々と進み、寛文元年(1661年)八月、無事その竣工を見ました。隠元はこの伽藍を黄檗山万福寺と名づけて日本黄檗宗開創の根基としたのです。その落慶記念の法会には諸宗の高僧知識がことごとく来集してその列に連なったといいますから、当時の隠元の徳望がいかに高かったかをうかがうことができます。

晩年の隠元
万福寺の創建以来もっぱらここにとどまって教化を施していた隠元は、寛文四年(1664年)九月、法席を弟子の木庵(もくあん)に譲って黄檗山の第二世とし、それ以来自らは松隠堂に隠れて老を養っていました。鉄眼が大蔵経を刊行したのはこのころのことで、ある日隠元を訪ねてその素志を述べて教えを乞うと、隠元は大いに喜んで、明から持ってきた大蔵経を鉄眼に与え、なおそのうえ山内の一部を割いて蔵版のための宝蔵院を建てさせたのです。
延宝元年(1673年)、隠元は病を得て床に臥すようになりました。隠元の病状が宮中に伝えられたとき、後水尾上皇は勅使を遣わしてその病を問い、四月二日、とくに大光普照国師の号を賜りました。翌三日、いよいよ終焉の期に至ったことを知った隠元は、突然がばと床の上に起き上がり、病床に集まる弟子たちに向かって「わしの臨終のときはすでに近づいている」と告げて黙然と座りました。「何かご遺偈(ゆいげ:高僧が死に臨んで残す詩)を賜りますように」と弟子たちが遺偈を請うと、隠元は筆硯を取り寄せて即座に、
西来の楖栗(しつりつ)雄風を振るい
檗山を幻出して功を宰(つかさど)らず
今日身心倶(とも)に放下(ほうげ)す
頓(とみ)に法界を超ゆ一真空
と鮮やかに書き終わり、そのまま眠るがごとくに往生しました。ときに齢まさに八十二、わが国に渡来して以来二十年後のことでした。大正六年(1917年)三月、真空大師の号を賜っています。この高徳な帰化僧の著書として知られるものは、『黄檗録』『黄檗山誌』『黄檗清規(しんぎ)』などです。
なお、インゲン豆の名は、隠元が中国から持ちこんだと伝えられることにちなむといわれます。ただし彼が伝えた豆は、現在関東でインゲンと呼んでいる豆とは別のフジマメであったとする説もあり、関西では今もフジマメをインゲンと呼ぶ地方があります。豆のほかにも、普茶(ふちゃ)料理、煎茶、木魚、明朝体の文字など、隠元とその一門が日本にもたらしたものは数多くあります。

煙草を嫌う
隠元は非常に煙草嫌いでした。あるとき一偈(いちげ:一首の詩)を作って言いました。
一管の狼煙(ろうえん)呑み復(ま)た吐く
恰(あたか)も炎口鬼神の身の如し
当年鹿苑(ろくおん)に此の艸(くさ)有らば
五辛を説かず六辛を説かん
管から煙を呑んでは吐くさまは、あたかも鬼神が口から火炎を吐くようなものだ。もし昔、釈尊が鹿野苑(ろくやおん)で説法されたころにこの煙草があったら、おそらく釈尊は五辛(ごしん:仏道修行者が食べてはならない、にんにく・らっきょう・にら・ねぎ・しょうがの五種)の上にさらに煙草を加えて、六辛を禁じられたであろう、というのです。煙草を「炎口鬼神の身の如し」と喝破したところに、いかにも禅僧らしい気迫が現れていて面白いところです。
父を探して二年さまよった貧しい農家の子が、六十三歳で海を渡り、二十年のあいだ日本の仏教を叩き起こしました。残したものは、宇治の伽藍と、大蔵経と、豆と茶と料理と、「身も心もともに放下す」と書いて眠るように逝った、最後の一枚の紙です。


