「徳川は亡びるとも、日本は断じて亡びてはならぬ」
函館で最後の一戦をともにしようと誘いに来た榎本武揚に、沼津の元幕臣はそう言って諫めました。あなたの航海の学問は新しい日本のために使うべきだ、と。彗星のように光る偉人ではなく、北極星のように静かに輝き続けた人。政治家、キリスト者、教育者として明治大正を生きた江原素六(えばら そろく)の生涯です。
偉人の型
偉人にもいろいろあります。風雲に乗じて一躍社会の彗星として現れるものもあれば、時流に抗して不遇、後代になってはじめてその真価を認められるものもあります。だがそれとはまた別に、おもむろに中庸を執ってはなはだ穏健、大衆のひとしく理想とするところをそのまま体現しているといった風なものもあります。今、前者を動的な傑士・英雄といいうるとしたならば、後者はしたがって静的な賢人・君子といえるでしょう。人おのおの好むところがあり、また「すべてのものに時あり」の名言どおり、各様の偉人は各様の時代の子ですから、これを一律にいうことはできませんが、しかし静・動いずれの型の英雄君子も、ともに偉人であることに変わりはないのです。
江原素六は、その静的な君子として、まさしく代表的な偉人の一人というべきです。政治家として、宗教家として、また教育家としての彼の生涯を見る者は、誰も彼を伊藤博文に、また内村鑑三に比べる愚はしません。しかもなお彼が、明治大正を通じてのすぐれた政治家、宗教家、教育家であったことは、まぎれもない事実です。彼の偉大さは、光芒眼を射る彗星のそれではなく、万古不易の北極星のそれのごとき、静かな輝きを放っているところにあります。

貧窮を越えて
明治の人材は多く下層武士のあいだから現れました。江原素六もまた、幕府小普請組、津田美濃守配下の名もない足軽、江原源吾の子として、天保十三年(1842年)一月、江戸淀橋角筈に生まれました。父源吾の俸禄は一年玄米四十俵でした。一俵三斗五升の定めでしたから、わずかに十四石にすぎず、底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和の初めの計算でいえば、月二十四、五円に相当するでしょう。家族七名の江原家が極端な貧困状態にあったことは、これでも分かります。素六が寺子屋に入るときなども、入門金と入門挨拶に出す煎餅料の都合がつかなかったので、しばらく入門を延期しなければならなかったほどでした。その入門金は二銭で、煎餅料というのはわずかに一銭だったのです。
寺子屋を非常な好成績で出るとすぐ、嘉永二年(1849年)に、家計の援助のため奉公に出ました。八歳のときです。当時の慣例によって、十六歳に達すると独立生活に入るのを許されたので、この秀才は房楊枝磨きの手内職をしながら、片時も書物を手離さずに懸命に本を読みました。そのかいがあって、幕府の学問所昌平黌の試験にみごとパスして、丹波縞二反を拝領するような名誉を得ることができました。母方の祖母の妹婿にあたる浅野従兵衛はこの貧しい秀才を愛して彼を鞭撻し、その蔵書一切を自由に読ませ、必要の書籍は買ってやりました。まもなく津田美濃守に認められるようになって、外国船に備える幕府の警備隊に編入されました。彼の職務に対する熱心さは驚くばかりでしたが、こうして多少の余裕ができると、彼の向学心はいよいよ盛んになり、幕府直属の講習所に入って洋式訓練を学び、ただちに講武所教授方に抜擢され、兼ねて田安邸警備に任命されました。この多忙のあいだにも、彼は蟻川賢之助の門に入って洋書を学んでいました。
当時は、井伊大老がアメリカ、ロシア、イギリス、フランスなどの諸国と開港条約を結んで以来、攘夷主義者の激しい怒りをかき立て、文字どおり物情騒然とした時代でした。これを弾圧しようとして、幕府は橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らの志士を続々処刑する。それに対して、井伊大老が桜田門外に屠られる。高輪のイギリス公使館が浪士らの襲撃に遭い、外国人が斬られる。というわけで、異変が続発し、そのたびに幕府の運命は一歩一歩断崖の縁に押しやられていきました。

幕吏の転向
彼は生来の環境によって幕吏の一員でしたが、時代の渦巻きがいかなる意味を持っているのかを判断する明晰な頭脳がありました。もし彼に係累がなく、多くの恩人がなかったならば、いやそればかりでなく、彼に厚い恩愛の情がなかったなら、彼もまた、あるいは志士の一人として身を逆流に投じたかもしれません。彼はこうした条件のなかにあって、たとえ消極的のそしりを受けようとも、なお彼には彼の道があると信じて、いつ、いかなるときにも必要な、職務に関する実際的な知識の会得と学問的向上のため、一日も怠ることはなかったのです。慶応二年(1866年)には、彼は歩兵指図役頭並に任じられました。
ついに天下の形勢は定まりました。幕府はついに解散することになりました。しかしこれにあきたらぬ幕臣たちは、奮然として兵を挙げました。当時、歩兵指図役頭並、撒兵(さっぺい)隊長であった彼は平和主義者であり、幕府解散の全的な支持者で、しばしば天下の趨勢を説きましたが、同僚部下はこれを聞かず、ついに上総に脱走して兵を挙げたのです。彼は部下のためにやむをえず、上総に走って官軍と戦い負傷しましたが、最後の諫言を試みて罵詈讒謗を浴びるや、意を決して江戸に帰り、一先輩を訪ねました。折悪しく不在だったので、「慷慨して死に就くは易く、従容として道に従うは難し」の句を机上に残して去りました。入れ違いに帰宅した先輩は、彼の自殺の決意を知って驚き、彼を追ってその決意をひるがえさせ、しばらく身を安全に隠すことを勧めたのです。あるときは野宿し、あるときは櫃のなかに身をひそめ、幾度も変名して、知人をたよって官軍の探索の目をのがれ、静岡県沼津の西一里、金岡村に身を落ち着けました。
突然、潜伏中の彼に静岡藩から出頭命令が届けられました。それは明治元年(1868年)十月のことでした。潔く死を決して出頭すると、思いもよらず、藩は彼を少参事(藩の幹部職)に任じ、沼津兵学校の設立を命じたのです。彼の新生涯の幕は切って落とされ、彼の幕吏としての前半生はここに終わりました。あるとき、ひそかに榎本武揚が彼と面接して、最後の一戦を試みるために彼の加盟を乞いましたが、彼は言葉を尽くして榎本を諫め、徳川は亡びるとも日本は断じて亡びてはならぬと言い、榎本の航海に関する蘊蓄を傾けて新日本のために貢献すべきことを極力説きました。榎本が彼と訣別して単身函館に兵を挙げたのは、それからまもなくでした。

内的充実のために
彼は明治四年(1871年)四月、選ばれて欧米視察の途に上りました。そして親しく先進国アメリカの驚くべき偉容を見て同年十二月に帰朝すると、新日本の発展のためには産業の隆盛と、それに必要な知識の向上普及が緊急の問題であると信じて、まず先駆的な牧畜業をはじめ、さらに製茶輸出業、回漕運輸業、製靴業などを起こしたのでした。そのあいだ、彼は静岡県学区取締として県内の教育施設の整備に努め、あるいは静岡師範学校校長、あるいは沼津中学校校長として、直接青少年の教育にあたりました。
彼はこうした産業、教育の実際的方面に力を尽くすうちに、一つの結論を得ました。それは、新時代は新時代的精神によってはじめてその実を得るということであって、さもなくば、滔々として人心を席巻しつつある個人主義の風潮によってその文明もついに形だけの文明に終わると信じたのです。こうした彼の要求の前に現れたのが、欧米文化とともに流入してきたキリスト教の思想でした。明治十一年(1878年)、カナダ・メソジスト教会派遣の宣教師によって洗礼を受け、クリスチャンとなりました。それによって宗教的に洗練され、生来の忠実無比な精進ぶりと相まって、彼の珠のような人格は人々の尊敬を集めました。推されて県会議員となり、続いて駿東郡郡長に挙げられましたが、中庸を持して乱れぬ政治的手腕には何人も心服したものです。彼の後年の政治的活動の第一歩は、ここに端を発したと見るべきでしょう。明治十四年、大いに感じるところがあって再度洗礼を受け、キリスト教伝道を開始しましたが、真摯な彼は板垣退助らの自由党の進歩的な政治意見に感じてその一行に加わり、自由民権のためにも戦いました。
このような彼の政治、教育、宗教の三部門にわたる活動は、もとよりこの短文の尽くすところではありませんが、その清浄な人格は死の瞬間に至るまで一日も休むときはありませんでした。大正十一年(1922年)五月、脳溢血で倒れるまで、衆議院議員に選挙されること七回、自由党評議員、同政務委員、憲政会総務委員、政友会総務委員、同協議委員長、貴族院議員などの要務に就いたとともに、東洋英和学校幹事、のちに校長、麻布中学の設立とその校長、高等教育会議員、家庭学校理事などとして活躍し、また会堂福音士となって絶えずキリスト教伝道を怠らず、キリスト教青年会理事長、メソジスト日曜学校局長、鉄道青年会会長、白十字会会長などの、宗教ならびに宗教的社会事業に貢献するところ多大なものがありました。彼の公生涯を見るとき、そこに何らの私的野心なく、権謀術数なく、常に彼の信じる愛と謙譲の精神によって、一意専心、国民の福利を悲願として国の内的充実のために尽くしたのでした。
入門金二銭が払えなかった足軽の子が、牛を飼い、茶を売り、学校を建て、七回代議士に選ばれ、日曜学校を率いました。彗星ではなく北極星。派手な話はひとつもないのに、この人を北極星と呼んだ人々は、暗い夜にどこを見ればよいかを知っていたのです。


