「真実の秘法とてこのほかにはない。真の神力を得るためには、心を正しくして仏法を学ばねばならぬ」
三百日修行しても神通力が得られない、本当の秘法を隠しているのだろうと迫る弟子に、山の行者はそう答えました。邪心を抱いて浄行を修めないから神力を得られないのだ、と。恨んだ弟子の讒言によって、行者は伊豆の大島に流されます。役行者(えんのぎょうじゃ)。空を飛び、鬼神を使ったと伝えられる、修験道の開祖の物語です。
修験道の創始者
仏教がはじめてわが国に伝来したのは欽明天皇の十三年(552年)とされますが、その後ほどなく聖徳太子が出現して仏法興隆のために尽力されたので、仏教はようやくわが国の文化の上に大きな影響を与えるようになり、飛鳥・奈良時代に入ってはすでに政教一致の域にまで進み、法隆寺、四天王寺、飛鳥寺などの諸大寺を中心として、日本仏教はますます発展の一路をたどりました。
しかしこの時代の仏教は寺院を中心として行われ、主として公家諸族のあいだに伝導された貴族的な仏教でした。このとき、これら寺院中心の貴族的な仏教に対して民衆的な仏教を唱道したものこそ、修験道の開祖、役行者小角(おづぬ)でした。もちろんそのころにはすでに三論宗、法相宗などの宗派が伝えられていて仏教の哲学的な研究も行われていましたが、それは都の寺院のなかの学僧たちのことでした。一般の人々にとっての仏教は、延命長寿を願ったり災難を排除したりすることを目的とするものであって、仏教はそうした人間の力の及ばないものを動かす、神変不可思議な力であると信じられていたのです。
役行者の開いた修験道はこうした傾向を多分に持つもので、その生涯のごときは、伝説によればまったく超人間的な神力を行使することに終始しています。彼は一種の幻術を会得していて、その神通力によってあるときは瀕死の重病人を治し、あるときは自由に空中を飛行し、またあるときは山の神を駆使したなどと伝えられています。仏教の本義からいえばむしろ邪道ともいうべきものであると底本は見ていますが、しかし当時のこうした貴族的、寺院中心的な仏教に対抗して、民衆的な仏教を唱導し、独自な立場に立って仏教を民間に普及した彼の行蹟と、三十余年のあいだ山にこもってひたすら仏道修行に精進した真面目な求道者としての態度は、容易にほかの人の追従を許さないものがあり、その日本仏教史上に及ぼした甚大な影響は、十分に認めなければならないでしょう。

葛城山に入る
役行者は名を小角といい、聖徳太子の薨去に遅れること十三年、舒明天皇の六年(634年)に大和国葛木上郡茅原(ちはら)の里に生まれました。生来学を好み、才智また人にすぐれていて、一度教われば必ずこれを会得しました。幼少のときから仏法尊崇の志がきわめて篤く、叔父の願行にしたがって仏の道を学びましたが、どのように難しい学問も、果実を拾ってはこれを仏前に供えて仏を供養し、魚や鳥の肉を食わず、酒をしりぞけ、その日常の生活においては深く戒律を守り、遊戯するにも花を摘み、歩行するにも虫を踏まず、身をつつしんでひたすら浄行を修しました。七歳のころからは慈救の呪文を唱えること日々十万遍に及び、もっぱら意を仏道に傾けて日夜修行を怠りませんでした。彼はこうしたひたむきの仏道修行によって、ついに一種の霊妙な幻術を体得しえたと伝えられますが、その神力によってあるいは人の病を医し、あるいは人の苦難を救いなどしたので、彼の名声はようやく四方に広がり、来てその救護を乞う者は数知れない有様でした。
しかしながら彼はその神力に満足せず、さらに修行を励んで一切衆生を化度しようと思い立ち、三十二歳のとき母の許しを請うて、ここにいよいよ出家することとなりました。こうして家を捨てた彼は、悟りを求めて山中にこもって修行をしようと思い、足には一尺二寸の木履(ぼくり)を履き、手には錫杖(しゃくじょう)を持ち、頭には烏帽子をかぶって、独り飄然と葛城の山に登りました。険しい岩をよじ、道を閉ざす荊棘(いばら)をかき分け、樹木が鬱蒼として昼なお暗い深山に分け入った彼は、蔦葛を伝ってようやく山頂にたどりつき、そこにささやかな草庵を結んで修行することになりました。もとより前人未踏の深山のことですから、訪うものといっては狐狸の類ばかりであり、聞こえるものはただ松柏を吹く風の音ばかりでした。彼はこうした静寂の山中にあって藤葛をまとって衣服とし、木の実や草の根を採ってこれを食い、仙人のような生活を続けながら、終日終夜「孔雀明王の神呪」を誦し、あるいは「不動明王の真言」を誦しつつ、専心仏道の修行に精進しました。

諸山を開く
こうして山中の修行は前後三十年間怠りなく続けられました。その結果、ついに彼は神変不可思議な神通力を得たということです。そしてやがて葛城山を去り、それ以来、吉野の金峰山、大峰山をはじめとして高野山、牛滝山、神峰山、箕面山などの大和と紀伊とのあいだの諸山を跋渉し、荊棘のあいだに道路を開き、あるいは金峰山に転輪寺、大黒寺の二か寺を草創し、あるいは摂津箕面山に瀧安寺、吉祥院などの仏刹を建立するなど、もっぱら山岳仏教の普及、発展のために努力したのです。彼の神秘的な行動は当時の民衆を引きつけずにはおきませんでした。人々は彼の超人間的な奇蹟を慕い、彼に帰依する者や、その門に投じて教えを学ぼうとする者は日とともに多くなりました。

伊豆に流さる
その門下の一人に韓国連広足(からくにのむらじ ひろたり)という者がありました。彼は心邪まな人物で、自分も役行者のような幻術を体得して人々の信仰を受け、豊富な財物を得たいと考えて、役行者の門に入ったのです。そして行者から呪術を授かり、優婆塞(うばそく)の戒を持って日夜修行すること三百日に及びましたが、いっこうにその効験が現れませんでした。そこで、これは行者が真実の秘法を授けてくれないからに違いないと考えた彼は、あるとき行者に向かって言いました。
「私は教えられたとおりに戒を持ち、修行を励むこと三百日に及びますが、いっこうに神力を会得することができません。なにとぞ私に真実の秘法をお授けくださいますように」
すると行者は広足に答えて言いました。
「真実の秘法とてこのほかにはない。真の神力を得るためには、心を正しくして仏法を学ばねばならぬ。日常の生活においては肉食を禁じ、婦女子を近づけず、もっぱら衆生の済度をのみ念じて、自分の栄達を願うてはならぬ。こうして浄行を修めれば、誰人も神力を得ることができる。しかるにお前はただ身の安堵をのみ願い、邪心を抱いて浄行を修めぬから、神力を得ることができないのだ」
これを聞いた広足は大いに憤り、即時行者のもとを去って行者を悪く言って歩きました。が、行者に絶対的な信頼を持つ人々は、かえって広足の厚顔無恥を嘲笑うばかりでした。そこで彼はこの上は官の力によって行者をおとしいれようと思い、
「役行者は幻術を弄して百姓を惑わし、鬼神を駆使して神国を魔界たらしめようとするものである」
と讒訴したのです。捕吏はただちに行者のもとに派遣されましたが、彼は自由に空中を飛行するので、これを捕縛することができなかったといいます。そこで捕吏は彼の母を捕らえて獄に投じました。もとより孝心に厚い彼は、獄中に呻吟する母のことを聞くに及んで、ついに自ら名乗って出たのです。こうして文武天皇の三年(699年)、彼は謀反を企てた逆徒としての冤罪をこうむって伊豆の大島に流されました。ときに彼の齢まさに六十六歳でした。
この役行者の流罪については、有名な伝説があります。それによると、役行者は葛城山と金峰山とのあいだに石橋を架けるべく、その工事を山神たちに命じました。ところがその架設工事が遅々として進まないので、彼が山神に詰問すると、「葛城山の一言主神(ひとことぬしのかみ)がその貌の醜いことを恥じて昼は出てこない。そして夜だけ工事をやるので思うように進まないのだ」という。そこで行者は一言主神を呼んで昼夜を分かたず工事を進めるように命じましたが、一言主神はその命に応じようとしません。行者は怒ってこれを深山に呪縛しました。そこで一言主神は官人の夢枕に立って、「役行者は謀反を企てている」と告げたというのです。

修験道の再興
ともかく彼は伊豆の大島に流されましたが、配所の月を見ること三年、文武天皇の大宝元年(701年)に赦されて都に帰りました。伝説によれば、昼はその禁を守って配所に蟄居していますが、夜になると空中を飛行して富士山に登り、暁に至って隼のような速さで空を飛んで島に帰るのを常としたといいます。また相模、常陸方面へも自由に出遊したと伝えられています。彼は罪を赦されてのちは、諸国を遍歴して未開の諸山を踏破し、その足跡は遠く九州豊前の彦山にまで及びましたが、のち、その母を奉じて唐土に渡ったと伝えられています。寛政十一年(1799年)、光格天皇から神変大菩薩の諡号を賜りました。
役行者によって始められた修験道は、のちに聖宝理源大師によって再興されました。理源大師は法相、三論、律、倶舎、華厳、真言などの七宗の長者と仰がれ、真言宗小野流の祖ですが、しかもなお役行者の行履を深く憧憬し、役行者によって修験道が開かれてから百八十年ののち、宇多天皇の勅を奉じてこれを再興しました。それ以来この教えを奉じる者は、頭には頭巾(ときん)をいただき、結袈裟をかけ、法螺、斧などの法器を携えて山に入り、水を汲み薪を拾って修道の修行にいそしみました。いわゆる山伏と称するものは、すなわちこの修験道の行者です。宗教家としての小角は、当時の文化の低さのために極度に伝説化されているので、その真の姿を十分に知ることはできませんが、いずれにせよ彼は、そうした伝説が生み出されるほどに当時の民衆から尊崇され、何らかの影響を与えていたのでしょう、と底本は結んでいます。坪内逍遥博士はかつて『続日本紀』『元亨釈書』『扶桑皇統紀』などから材を取って象徴劇『役の行者』(のちに「行者と女魔」と改題された)を書き、それはフランス語に訳されて、かの地の批評家から賞賛されました。
史料に残るのは、讒言で島に流されたという一行だけです。その一行のまわりに、空を飛び、鬼神を使い、母のために自ら縛についた行者の物語が育ちました。千三百年のあいだ、山伏たちが法螺を吹いて山に入るたびに、この人の伝説はまた一つ、生き直してきたのです。


