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阿部正弘の生涯|黒船来航の危機から日本を救った20代の若き老中首座

阿部正弘の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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嘉永六年(1853年)六月三日、相模の浦賀。香港から沖縄を回って来たアメリカの軍艦四隻が、戦う準備を整えたまま、堂々と港に入って錨を下ろしました。

長いあいだ鎖国の夢のなかにいた人々は、突然あらわれた黒い軍艦の大きさに驚き、怪しみ、慌てふためくばかりでした。

幕府は諸藩にひそかに出兵の準備を命じます。ところが諸藩は、世論がどちらに転ぶか分からず、戦う気持ちを失って、ためらうありさまでした。江戸にいた藩主や旗本のなかには、あわてて荷物をまとめ、自分の領地へ避難する者もいます。その一方で、「国難が来た」とばかりに陣笠と火事羽織で身をかため、鉄砲や武器を品川へ運んで戦の支度に走り回る、血の気の多い志士や浪士が町を右往左往していました。天下は、蜂の巣をつついたような騒ぎになったのです。

このとき、いちばん難しい政治の中心に立たされ、昼も夜も頭を抱えていたのが、老中首座の阿部伊勢守でした。

阿部正弘(あべ まさひろ)。二十五歳で老中となり、三十九歳で世を去った、開国の時代の若い宰相でした。

 

※注:この記事は昭和11年(1936年)刊の底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』)を訳したものです。底本には「外夷」「えみし(蝦夷)」など、当時の攘夷論の言葉が引用として出てきます。この記事では正弘や家臣の言葉として残し、地の文では改めました。また底本の「先進資本主義国のために植民地化されんとする日本の危機」という表現は、底本が刊行された当時の歴史の見方で、そのまま訳したうえで※注を添えました。

 

国難来

 

寛永の鎖国以来、欧米の人々は何度も日本を訪れ、通商を求めてきました。しかしどれも成功していません。それでも欧米側はあきらめず、なんとしても要求を通そうとしていました。なかでも、もっとも熱心だったのがアメリカです。

では、アメリカはなぜ日本と通商を開きたかったのでしょうか。その理由は、太平洋、とくに日本近海を行き来する捕鯨船が遭難したときに、保護を受けられるようにしたかったこと。東洋への航路で、石炭を補給する港が必要だったこと。そして、貿易の利益を得たかったことです。

第十三代大統領ミラード・フィルモアの時代に、その必要はいよいよ切実になりました。そこで東洋艦隊の司令官、海軍少将マシュー・カルブレース・ペリーを日本に送り、通商条約を結ばせようとします。場合によっては、力ずくでも目的を果たせ——そう命じたのです。命令を受けたペリーは、香港にあった艦隊を沖縄に回して根拠地とし、みずから四隻を率いて、嘉永六年六月三日、浦賀に入港しました。

冒頭に記したとおり、天下は鼎(かなえ)が沸くような騒ぎになりました。一方では尊王か佐幕か、開港か攘夷かの議論がやかましく、アメリカ艦隊の来航をきっかけに、上も下もますます争いを重ねます。ところが幕府には、この国難にあたって、はっきりした方針を打ち出して人々の心を落ち着かせるだけの力がありませんでした。尊王の志士たちは各地で立ち上がり、この機会に幕府を倒して王政復古の流れをつくろうと走り回ります。幕府が何もできないことが明るみに出るばかりで、人々の動揺はとどまるところを知りませんでした。

浦賀のペリーは、幕府の態度がいつまでも煮え切らないのを見て、ついに艦隊を江戸湾へ回して力を見せつけ、大砲を放って威嚇しました。江戸の人々の慌てぶりは、いよいよひどくなったのです。

 

※注:ペリーが率いた四隻は蒸気船サスケハナ(Susquehanna)・ミシシッピと帆船サラトガ・プリマスです。底本の「大砲を放って威嚇」は、礼砲や号砲を江戸の人々が威嚇と受け取ったことをさすとみられます。琉球を根拠地としたペリー艦隊は、当時独立した王国であった琉球に対しても圧力をかけ、後に修好条約を結ばせました。

 

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苦心惨憺

 

阿部伊勢守正弘は、備後福山(現在の広島県福山市)十一万石の藩主です。天保十四年(1843年)、水野越前守忠邦が天保の改革に失敗して退いたあとを受けて、二十五歳で老中に抜擢された、若い政治家でした。

生まれは文政二年(1819年)十月十二日、江戸西丸下の藩邸です。父は前の老中・正精(まさきよ)で、正弘はその六番目の子。母は側室の高野具美子でした。幼いころから顔立ちがよく、行いも正しく、聡明でしたが、もともと跡取りではありません。他家へ養子に出る身分でした。ところが兄たちの多くが早く亡くなり、家を継いだ兄・正寧(まさやす)も病気がちだったので、正弘が家を継ぐことになったのです。

天保九年(1838年)九月、二十歳で奏者番(そうしゃばん:儀式の取り次ぎ役)を命じられたのが、幕府に出仕した始まりでした。次いで寺社奉行となり、水野が失脚したあとを継いで、一気に老中へ。のちに水野が返り咲いたときには一度退きましたが、間もなく水野がふたたび退けられたので、いよいよ老中首座となって、内も外も難題だらけの幕政を引き受けることになりました。正弘は水野の失政のあとを受け、厳しすぎた政治を大いに改めて人々の心をつかみます。ちょうどそこへ、ペリーがやって来たのです。

ペリーは、これまで何度も失敗してきたことを踏まえて、最初から強い態度に出ました。すぐにも兵を率いて上陸しようとします。そして幕府の使者である浦賀奉行に、こう言い放ちました。「すぐに江戸へ行って宰相に会い、大統領からの書翰(しょかん:手紙)を渡したい。場合によっては一戦も辞さずに条約の交渉を迫ることになろう。開戦のあと、もし急な用があれば白旗を立てて来い。そうすれば、ただちに砲撃をやめる」。そう言って、白旗二旒(りゅう:旗を数える語)を渡したというのです。

このとき奉行は、書翰を受け取るだけで交渉には入らない、と求めました。ペリーは、翌年の春にもう一度来て返事をもらう、と約束します。書翰の受取証を得ると、すぐに船を出して、根拠地の沖縄へ帰っていきました。

アメリカ艦隊が去ると、正弘はただちに、これまでの慣例を破って、広く諸藩主に意見を求めました。ところが集まった意見は拒絶論が多く、薩摩・長州・土佐・肥前のような大藩はほとんど鎖国を主張し、開国の方針を支える藩はまれでした。じつは正弘自身も、このころは強い攘夷論を持っていました。家臣に与えた歌に、こんなものがあります。

まことなきえみしのふねをうら安のはやきおきてに打返へさなむ

——誠意のない異国の船を、浦賀の海の速やかな掟によって追い返してしまいたい。

そして諸藩に対しては、日米の開戦は避けがたいと説き、防備を厳しくして義勇を蓄え、いざというときは上下が力を合わせて国の威信を汚さぬよう努めてほしい、という訓令を出しました。

しかし正弘の胸の内では、二つの考えがぶつかっていました。寛永以来の鎖国の方針は、国内の情勢からして、そう簡単には破れない。けれども外国と戦って勝てる見込みはない——その自覚です。この二つがせめぎ合って、深い苦しみとなり、悩みとなっていたのです。

 

※注:底本の生年「文政十二年(一八一九)」は年号と西暦が食い違っており、正弘の生年は文政二年(1819年)で、生まれた日も一般には十月十六日とされます。天保十四年に老中となった時、正弘は数えで二十五歳でした。「白旗二旒」の話は、ペリーが白旗を渡したという文書の真偽をめぐって現在も議論があり、確かな一次資料では裏づけられていません。諸藩主に意見を求めたことは、幕府が外交を独占してきた慣例を破るもので、雄藩の発言力を強め、幕末の政局を大きく変えることになりました。

 

 

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条約締結

 

浦賀を去ったペリーの艦隊は、琉球の那覇に向かいました。琉球の役人を威圧して艦隊の根拠地とし、石炭の貯蔵庫を設け、自由に売り買いを行い、一隻を送って小笠原を占領させ、日本再訪の準備を整えます。琉球にいるあいだに、ペリーはオランダ人から一つの知らせを受け取りました。前の将軍が亡くなり、新しい将軍が就いたので、幕府はアメリカ使節の再訪を延ばしてほしいと望んでいる、というものです。しかしペリーは、本国政府の命令だから計画は変えられない、と答えました。日本が要求に応じない場合に備えて、一隊の兵を琉球に残し、急いで出発したのです。

こうして安政元年(1854年)正月十日、ペリーの艦隊は伊豆沖に姿を見せました。数日のうちに九隻が前後して浦賀に入り、続いて本牧から神奈川沖に近づいて錨を下ろします。幕府は、林大学頭(だいがくのかみ)、町奉行の井戸覚弘(さとひろ)、浦賀奉行の伊沢政義、目付の鵜殿長鋭(ながとし)の四人に応対を命じました。国論の沸き立ちようも、人々の動揺も、前回の倍でした。

 

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ここで正弘は、外だけでなく内にも敵を抱えることになります。

正弘の家臣のなかにも攘夷論を唱える者が出て、主君のやり方を激しく責めました。正弘は抑えるのに困り、大久保忠寛(ただひろ)に会ったとき、藩士の石川和介たちを説いて開国論に変えさせてほしい、と頼んだほどです。大久保は頼まれたとおり説得を試みました。しかし彼らは、どうしても承服しません。それどころか、彼らの固い決心と主君を思う忠義に打たれて、説得に行ったほうが逆に説き伏せられそうになる始末でした。のちに大久保は正弘に会って、「彼らは見上げた立派な偉丈夫だ。ただの流行にかぶれて攘夷論のお先棒を担いでいるのではない」と感心して言ったといいます。

さらに、家臣の山岡八十郎が、正弘が開国論に傾いたことを憂えて諫死(かんし:命を捨てて主君を諫めること)する事件まで起きました。山岡はまれに見る熱情の人でした。外国の侵入に歯ぎしりし、藩邸を抜け出してアメリカの軍艦に飛び込み、ペリーを刺そうと企てたこともあります。友人に止められて、その志は果たせませんでした。そこで山岡は主君に上書して、攘夷の決行を願い出ます。正弘は「その志は嘉(よみ)するが、上書の採否は急ぐことではない」と言って、退けました。山岡は悲しみと憤りに耐えかね、最後の上書を残して腹を切って死んだのです。

藩の重役たちは、主君の命令によらず自殺したのは正気の沙汰ではないとみなし、藩の法によって家禄を没収しようとしました。しかし正弘はそれを許さず、家禄を跡継ぎに継がせています。正弘もまた、山岡の攘夷の志を知っていたからこそ、軽々しい処置を許せなかったのでした。

 

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では、世間はどう見ていたのでしょうか。正弘の外交が軟らかくなったと伝わると、悪口や中傷を込めた落首(らくしゅ:時事をからかう匿名の狂歌)が、あちこちで出回りました。「あべ川をペロリとなめて蒸気船」「日本をお茶にして来た蒸気船、たった四はいで夜もねられず」「阿部川は名物ほどの風味なし、蒸気船には下びたお茶菓子」——阿部の名を安倍川餅に、ペリーの名を「ペロリ」にかけて、幕府の弱腰をからかったのです。

正弘は、内からも外からも罵りの嵐を浴びていました。それでも敢然と、十二か条を決めて神奈川条約に調印します。下田と函館の二つの港を開き、薪や水、食糧などの必需品を土地の役人を通じて供給すること。下田と函館でアメリカ人の上陸を許し、アメリカの官吏を下田に駐在させること、などです。

 

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このときペリーは林大学頭に言いました。「貴国が国是(こくぜ:国の基本方針)を曲げて条約を結ばれたことは、感謝に堪えない。今後もし他国が貴国を侵すようなことがあれば、アメリカ政府は大いに援助して撃退する。同盟の証としてこれを差し上げる」。渡されたものを受けてみると、アメリカの国旗でした。ペリーは日本を属国扱いにしたのでしょう。

正弘が初め、寛永以来の幕府の憲法ともいえる鎖国の方針を固く守り、維持しようとしたことは事実でした。しかし実際にペリーたちと交渉にあたってみて、彼は悟ります。鎖国を固く守ることは国を危うくすることであり、開国して貿易することは止めようのない世界の流れなのだ、と。だからこそ彼は、断固として条約を結んだのです。

ただ、その間の正弘の苦しみは、想像を超えるものでした。条約調印の翌日、松平慶永(よしなが:春嶽)に送った手紙には、容易ならぬ時節で人々の意見もさまざまに分かれており、不肖の自分は本当に憂い悩んでいる、どうか察してほしい、という趣旨の言葉があります。それでも正弘は、崩れかけた徳川幕府の重い席にあって、進んだ資本主義の国々に植民地にされかねない日本の危機に直面し、世間の評価を気にせず、身をもって国の方針を誤らないよう努めたのでした。

安政三年(1856年)には堀田正睦(まさよし)を老中首座に置いて外交にあたらせ、自分は内政を受け持ちました。安政四年の三、四月ごろから胸の痛みを病み、同年六月十七日に亡くなります。三十九歳。開国の功労によって、大正四年(1915年)、従三位を贈られています。

 

※注:神奈川条約(日米和親条約)は嘉永七年三月三日(1854年3月31日)に調印され、この年の十一月に安政と改元されました。底本の「安政元年正月十日」はこの改元をさかのぼって用いたものです。ペリーが国旗を贈った話は底本の記述で、「属国扱い」という評価は底本の書き手のものです。「先進資本主義国のために植民地化されんとする日本の危機」という表現は、昭和初期の講座派的な歴史の見方によるもので、そのまま訳しました。正弘は安政の改革として海防の強化、講武所・長崎海軍伝習所・蕃書調所の設置、人材の登用(川路聖謨・岩瀬忠震・勝海舟ら)を進め、島津斉彬・徳川斉昭ら雄藩の藩主とも連携しました。底本はこの面には触れていません。享年三十九は数え年で、満三十七歳でした。

 

 

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井伊直弼の生涯|安政の大獄と桜田門外の変に散った孤独な大老
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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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