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宇田川榕庵の生涯|細胞や酸素の名付け親となった日本近代科学の開拓者

宇田川榕庵の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「いや沢山だ。私は上等なものは嫌いです。このひどい硯や筆や松板の机でこそ、私は数十巻の本を書いたのです」

立派な紫檀の机や端渓の硯を差し上げましょうと言われて、その学者は即座に手を振りました。粗末な机で書かれた数十巻の本のなかには、日本で最初に西洋の植物学を紹介した本と、最初の体系的な化学書がありました。「細胞」「酸素」「水素」といった言葉を日本語にしたこの人の名は、宇田川榕庵(うだがわ ようあん)といいます。

 

日本科学の先覚

昭和十年(1935年)は、日本の植物学、化学、昆虫学の先駆者であり、日本における国際文化の開拓者である宇田川榕庵の名著『植物啓原(しょくぶつけいげん)』が刊行されてからちょうど百年にあたるとして、牧野富太郎博士の主宰する東京植物同好会の主催で、その年の暮れ、早稲田の大隈講堂において盛んな記念講演会が催されました。そのときの講師の顔ぶれは、「植物学者としての榕庵」牧野博士、「蘭学者宇田川一門の追憶」平沼博士、「医者としての榕庵」富士川博士、「科学者としての榕庵」伊藤博士、「語学者としての榕庵」山岸博士、「榕庵と昆虫学」矢野氏、その他で、底本の『日本英雄伝』が書かれた前年の学界の権威者たちがずらりと勢ぞろいした形でした。また講演会と同時に、宇田川家父祖三代にわたる遺物数百点が展観されましたが、そのうちには、榕庵が西洋の植物学を第一に紹介した『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』『植物啓原』、化学の部門では『舎密開宗(せいみかいそう)』、薬学では『新訂増補和蘭薬鏡』、医学では榛斎との共著『遠西医方名物考及補遺』など、そのほか天文、歴史、音楽、演劇、宗教、数か国語にわたる語学などの各方面にわたる稿本、手写本が出品されました。これだけを見ても、宇田川榕庵がいかに偉かったかが分かるでしょう。「各部門にただ幅が広いというだけでなく、そのいずれの造詣もまた深い。先生以後、先生ほど各部門に通じる自然科学者は生まれず、今後も現れることはないだろう」。これは藤浪博士の言葉です。まことに宇田川榕庵は、あまり通俗的には知られていませんが、一代の先覚であり、その後の日本科学の基礎を築いた、学界の大恩人でした。

宇田川榕庵の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

典型的な学者肌の人

榕庵は寛政十年(1798年)、美濃大垣藩の医者・江沢養樹の子として生まれ、のちに江戸の宇田川榛斎(しんさい)の家に養子に行って、津山侯の侍医になりました。養父の榛斎も、祖父の宇田川玄随も、それぞれにすぐれた蘭学者でした。宇田川家は代々医をもって家業とした名家だったのです。玄随はオランダ内科書の嚆矢(こうし:先駆け)である『内科選要』を訳述し、また『蘭訳弁髦』『西文矩』などを著しており、榛斎もまた養子ですが、榕庵とともに『遠西医範』『医範提綱』『和蘭薬鏡』『遠西医方名物考』などを著して薬物を研究し、津山侯の侍医となり、幕府の天文台の翻訳方に挙げられ、その門下からは多くの人材を出しています。もともと秀才であった榕庵は、さらにこうした養家の伝統を正しく、余すところなく継承して、その上に自らの業績を築くに至ったのです。

榕庵は少年時代、まだ大垣藩にいるころから「物産学」に興味を持っていて、近くの山や原に出かけていっては薬草を採集してきて、父親にその説明を聞きただすという風でした。その後、洋学を馬場佐十郎(貞由)に学び、オランダ人が来るたびに宿舎に出かけて通訳をやり、流暢にべらべらとしゃべりたてて人々を驚かせました。そんな風に語学の才能が非常にすぐれていたので、欧米の新しい文物への憧れと真理に対する熱情はますます油をそそがれ、日夜、刻苦勉励しました。そして文化十三年(1816年)十二月、十九歳のときにはすでに、コーヒーのことをオランダの文献から訳して『哥非乙説(こひいせつ)』なるものを著しています。

 

宇田川榕菴は、「酸素」「水素」「窒素」「炭素」など、現在も使われる化学用語を生み出しました。また、コーヒーを「珈琲」と表記した人物としても知られています。 By KADOYA

 

事実、彼は若いときから真に学者肌の人でした。松本順の口授した『蘭疇(らんちゅう)』の付録『先人夜話』に、こんな逸話が載っています。まだ書生だったころ、たまに吉原に遊びに行きましたが、そこへも蘭書を持っていって読みふけり、人が来ても気がつかないほどでした。ついにある遊女がすっかり感心してしまって、裁縫や洗濯などをして働いて榕庵の望む本を買ってあげようと申し出たといいます。この書では、この婦人がのちに榕庵の妻となったと書かれています。だが、ほかの文献によれば、榕庵の妻は足立長雋(あだち ちょうしゅん)の長女であることが明らかであり、足立長雋は篠山藩医でシーボルトにも学び、西洋産科を首唱した有名な蘭学者ですから、その長女が遊女になったなどとは考えられません。したがって前記の逸話はおそらく誤り伝えでしょうが、並々ならぬ学徒でなければこのような話も生まれないわけで、それが誤りであるにせよ、少なくとも榕庵の人となりをほうふつとさせるのに十分な話というべきでしょう。

また、あるとき、榕庵に向かってこう言った人がありました。

「どうも先生の机や硯はひどく粗末じゃありませんか。私の弟のところには、なかなかいい紫檀の机や鋳銅の筆筒や端渓(たんけい)の硯なんかがありますから、差し上げましょう」

そうすると榕庵は即座に手を振って、

「いや沢山だ。私は上等なものは嫌いです。このひどい硯や筆や松板の机でこそ、私は数十巻の本を書いたのです。いい机だのいい硯だのというのは、あまり世の中のためになるもんじゃない。よしなさい! よしなさい!」

と言って、てんで相手にしませんでした。これはフランスの有名な昆虫学者、植物学者ファーブルが、世界的名著『昆虫記』を傷だらけの、子ども用のもののように小さな粗末な机の上で書いていたのに対照されて、はなはだ興味の深いことです。榕庵は父祖の業を継いで、幕府の天文台蛮書翻訳方をやっていました。

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学問上の功績

彼は日本における科学的な昆虫学の始祖でした。それ以前に昆虫のことを記した学者は、中村惕斎(てきさい)をはじめ相当にいますが、みな中国の本草学から出た系統に属するものでした。榕庵は百有余年前、文政十年(1827年)に『厚生新編』のなかで西洋科学を基礎とする昆虫学の概要を書いており、なかんずくリンネの昆虫分類法を紹介したのです。次には植物学に関するものです。文政十二年にリンネの植物分類法を紹介して『泰西本草名疏』を著した伊藤圭介の功績はあまねく知られていますが、実はそれより七年以前に、榕庵は『菩多尼訶経』を出していました。これは十七字詰め七十五行の経文に擬作した、ヨーロッパ植物学の紹介で、それを経文にしたのは幕府の忌諱(きい)を避けようとした手段とも考えられ、また読経の様式で大衆的な啓蒙を試みようとしたのだとも考えられます。これはもちろん小冊子にすぎませんでしたが、のち、天保五年(1834年)になって『植物啓原』三巻を刊行しました。

 

※ 底本は『植物啓原』の刊行を「天保六年」としていますが、通説では天保五年です。底本は昭和十年を刊行から百年と数えているため、天保六年としたものと思われます。

 

その後の学界で使われている植物学の術語は、この本から出ているものが多いのです。また榕庵は早くから顕微鏡を使っており、細胞、組織、花薬などを調べて図説したのも、日本ではこの本が最初でした。また榕庵は、ヤマブシおよびツクバネを箱根で発見しています。そのことはシーボルトによって『日本植物誌』に書かれていますし、またロシアの植物学の大家マキシモヴィッチは、ショウキランを属名ヨアニアと名づけて榕庵の功績を記念しています。これによって榕庵の名は世界植物学史上に不朽の栄誉を担うことになりました。実に日本の植物学は榕庵に始まり、伊藤圭介が学則を伝え、飯沼慾斎が草木二千種を網羅する大著述を完成するに及んで、この学問は維新前すでにわが国に樹立されたのです。

また化学上の功績も大きなものです。当時、化学はもっぱら本草学あるいは医学のような学術に付随していたにすぎませんでした。このときに榕庵は率先してこれを研究し、天保八年(1837年)から『舎密開宗』を著したのです。

 

※ 底本は『舎密開宗』を「天保十年」としていますが、刊行は天保八年に始まり、弘化四年(1847年)まで続きました。

 

この基礎の上に川本幸民、桂川甫周、広瀬元恭、宇都宮三郎らの人材を輩出し、その後の洋学全盛の波に乗り、また幕末の兵科の必要などから押されて、化学は異常な発達を示すに至りました。この書は医学者のあいだに広く読まれたと同時に、その後用いられている化学上の術語はこれによるものが多いのです。また榕庵は『諸国温泉試説』に書いているように、諸国の温泉を分析していますが、しかもその観察考証は緻密で整然たるものがありました。格物致知(かくぶつちち:物事の道理を究めて知を深めること)による実験を自家のものとして泉質を論じる科学者的態度は、当時の学者としてまことに驚嘆すべきものがあり、この著は西洋の温泉学史に対し、大いに日本学界のために気を吐くものでなければなりません。榕庵は医者でしたから、医学上の治効にかんがみ、温泉の化学的研究を行ったのです。医者としては、父榛斎との共著のほかに『革列亜没爾爸斯説(コレラモルブスせつ)』を書いて文政五年(1822年)のコレラ流行に備えました。さらに彼はオランダ語のみならず英語、ドイツ語を読み、ラテン語、ロシア語まで手をつけ、『魯西亜字音考』を著しています。榕庵はオランダ医員として来朝したシーボルトと親しくなり、これに日本産植物の押し葉を多数贈り、質問見学たがいに益するところが多かったのです。また日本最初の理学博士伊藤圭介とは親交があり、原書をたがいに貸借したり、文政十年には日光に行って一緒に採草したりしています。このほか、箕作阮甫、飯沼慾斎、青地林宗なども友人または門下の人たちでした。ややもすれば洋学者が国賊扱いを受けた時代に、敢然として真理のために戦った科学の戦士榕庵は、弘化三年(1846年)六月二十二日、江戸鍛冶橋の松平家邸内で、惜しくも四十九歳で病没しました。

吉原にまで蘭書を持ちこんだ書生は、松板の机で日本の植物学と化学を開き、四十九で逝きました。私たちが今日「細胞」と言い、「酸素」と言い、「珈琲」と書くたびに、この粗末な机の上の仕事を使っているのです。

宇田川榕庵の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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