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歌川豊春の生涯|「浮絵」を考案し浮世絵界を独占した歌川派の始祖

歌川豊春の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「おい、名題役者が一人描き漏れてるじゃねえか!」

天明六年(1786年)の顔見世狂言。芝居小屋の看板絵をめぐって、えらい悶着が起こりました。描いた絵師は「へえ、そうですかな」と澄んだ瞳をぱちくりさせるばかりです。芝居の宣伝のために描くというより、絵をどう完成させるかに夢中で、名題役者のことなど忘れていたのでした。この人、歌川豊春(うたがわ とよはる)。のちに浮世絵界を独占する歌川派の始祖です。

 

歌川流の始祖

岩佐又兵衛によって開拓された江戸の浮世絵は、寛文・延宝のころ巨匠菱川師宣が出るに及んで大成され、その手によって始められた版画の技術と相まって、浮世絵の民衆芸術としての真意を完備するに至りました。ついで元禄年間にかけて井原西鶴らが現れて浮世草子をものし、その挿絵が師宣らの浮世絵師の手によって描かれるや、浮世絵は燎原の火のように一般社会を風靡し、加えて、当時の現世謳歌的な民衆の生活の中枢ともいうべき演劇、花街、遊覧名勝地などが陸続としてこの派の巨匠たちの妙技によって描き出されました。ことに製作技術の方面において、一色刷りの墨摺絵から簡単な筆彩色の丹絵(たんえ)となり、ついで素朴な色摺り版画の紅絵に進展し、ついに明和のころ、豪華な錦絵を製作しえるに及んで、浮世絵はまさにその黄金時代に達したのです。

歌川豊春は、こうした時代の画壇に一代の才筆を振るい、滔々(とうとう)たる時流のただなかに毅然として立ち、自ら執るべき道を直進して一新機軸を出し、やがて全画壇を圧倒的に支配すべき歌川流の源を開いたのです。

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豊春とその時代

豊春は享保二十年(1735年)、豊後国臼杵(うすき)に生まれ、はじめ京都に出て、当時上方における狩野派の重鎮であった鶴沢探鯨(つるさわ たんげい)の門に入って狩野派の正統を学び、宝暦の末に江戸に下って、石川豊信について浮世絵を修めました。俗称を但馬屋庄次郎といいましたが、のちこの名を長男に譲って新右衛門と改め、また昌樹といい、一龍斎、潜龍斎、潜翁と号しました。

彼の生きた時代は浮世絵の黄金時代でした。安永から天明にかけては、かの田沼意次父子が老中、若年寄の要職にあって専横をきわめ、幕府の綱紀(こうき:規律)ははなはだしくゆるみ、官紀振るわず、放恣と享楽と、奢侈(しゃし)と安逸の澎湃(ほうはい)としてみなぎった時代でした。これに並行して元禄のころからしだいに開けそめた平民文化は、宝暦・明和に及んで、真に江戸市民独自の文化として花を咲かせました。上流の歌に対する俳諧、俳諧の域にとどまりえない市民はさらに川柳に進みました。また一方には狂歌を開拓しました。川柳と狂歌は、ともに江戸市民の興味深い文学趣味の発露でした。ことに狂歌は浮世絵を加えて道楽出版にされ、金を惜しまず立派な版画にされて数寄者のあいだに配られたので、版画の発達に大きな貢献をしました。さらに浮世絵の発達をうながしたものには、小説の発達がありました。簡単な絵を加えた赤本、黒本、お伽噺の類から、巨匠の筆を振るった浮世草子、黄表紙、合巻にまで進み、一般民衆が文化の恩恵に浴して芸術を楽しみうるようになったのです。当時の江戸市民が要求した文学芸術は、芝居であり、浮世絵であり、俳諧であり、川柳狂歌であり、黄表紙でした。しかもこれらのすべてが浮世絵版画と密接な関係を持ち、相よって相助けて、巨大な隆盛を現出したのです。

この浮世絵黄金時代の檜(ひのき)舞台の上に、豊春は悠々と闊歩し、よく画技を磨いて、世に盛名をはせました。天明五年(1785年)に、元禄のころから代々歌舞伎の鳥居流として劇場付きの看板絵を専業とする鳥居家の当時の本家、鳥居清満が没しました。看板絵を誰に依頼しようかと問題になったとき、ついにそのころの第一人者、豊春に白羽の矢が立ちました。と、天明六年の顔見世狂言の折に、

「おい、名題役者が一人描き漏れてるじゃねえか!」

とえらい悶着になりました。豊春は「へえ、そうですかな」と澄んだ瞳をぱちくりさせます。豊春は芝居の宣伝のために描くというよりも、芸術品をいかに完成するかということに熱中していて、名題役者のことなどは忘れていたのでした。単なる町絵師とは異なり、本格的に狩野派を学んだ豊春は描線も達者で彩色にも長じていたので、寛政八年(1796年)、日光廟修繕のときは、町絵師職人頭として仕事の担任を仰せつかりました。このことの栄誉は彼の名を全国に喧伝(けんでん)することとなったのです。

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浮絵

豊春が画壇に残した幾多の業績中でも、とくに彼の名を冠せられるものは「浮絵」です。島原の乱とともにキリシタン宗が禁じられて以来、山田右衛門作に対する油絵の後継者も出ず、一時西洋画的な要素は日本画から消失するかに見えました。が、八代将軍吉宗に至り、彼が西洋の医学や天文などを好んだところから洋書が輸入されてきて、その結果、享保から安永のころにかけて、織豊時代から見て第二期ともいうべき西洋画の影響が現れたのです。日本画が西洋画を受け容れようとするや、山田右衛門作のように油絵そのままを写そうとした者もあり、またその長所のみを取ろうとする者もありましたが、概して、流派の様式の固い典型のでき上がった狩野派ならびに土佐派の画家は、西洋画に対してもその長所を取り入れるだけの余裕を持ちませんでした。それに反して、流風が自由で固定様式を持たなかった浮世絵は、いかなる流派の特長をもどしどし取り入れることができました。ゆえに早く西洋画の影響を受け容れたのは浮世絵です。とくに注意すべきは、西洋の遠近透視画法を用い、浮き出したように見えるというところから名づけた「浮絵」です。浮絵の作には奥村政信にも面白い作例があり、鳥居流の画家のものにも注意すべきものがありますが、「浮絵の始祖」と呼ばれるほど多くのすぐれた浮絵を制作したものは、豊春です。彼には浮絵を応用した風景画の作例がかなり多く残されています。そのうち、わずかの距離にもかかわらず急に家や人物が小さくなったり、同じ位置にありながら人物と周囲の釣り合いが取れなかったりするような、種々の矛盾のあるものもありますが、それは逆に風景画に一種の趣致(しゅち:おもむき)をさえ添えているのです。こうして一新機軸を出した豊春の功績は、埋没すべからざるものです。

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豊春の作品

豊春は版画にも手腕を振るいましたが肉筆に長じ、本格的に絵を修行しただけあって、描線は達者で、彩色は妍麗(けんれい:あでやかで美しい)、その構図は整然とまとまり、真にくみ取るべきものがありました。その逸品の四、五を挙げてみれば、まず第一指を屈すべきは東京帝室博物館所蔵の『井手玉川』で、本図は上代の説話を今様の美人に写し、当世風の描写に転用したもので、描線の流麗暢達(ちょうたつ)、配色の美、高雅優麗な気品を備え、自然の景勝の描写は、歌川派の始祖としての雄偉な技量を物語っています。図中に現れた馬の形やその背にまたがる美人の姿勢はまことに写実的で、遠景にぼかされた人家、水の流れ、そのなかに浮かび出た美女、真に観る者を魅せずにはおかない作品です。

明和末ごろの制作にかかる『弾奏』は、三人の婦女に琴、三味線、胡弓を持たせた構図がよく整い、窓の手拭い、床の書物など、すべて部屋の備品に落ち着きを見せ、描線の繊細、色彩の用法も穏やかな感じを与え、描線と色彩の調和は錦絵初期の傑作とするに足ります。肉筆で残された気高い豊春の作品中には『遊女道中』があります。本図は太夫に二人の禿(かむろ)が付きしたがい、一人の男が傘を差しかけ、黒地に扇面模様の衣をまとって身をそらした太夫の道中姿に、安永・天明・寛政当時の遊里の権勢を示したものです。かの巨匠喜多川歌麿にもこれと同一の構図が見られるほど、豊春の歌麿などに対する影響は大きかったのです。

透視画的な「浮絵」の手法を取って描いた代表的なものには『三十三間堂』があります。京都東山の三十三間堂は当時、通し矢の名所として諸国から弓を引く者が集まるところで、豊春も詣でたらしい。本図は本堂裏に設けられた矢場で、三十三間堂の通し矢は武道の型として町人にも余興的に見せられたものですが、雰囲気は平和の大気に満たされ、遠近法を駆使した画面は複雑な描線を巧みに使い分け、丹と緑とをもって色彩上の妙技を振るっています。豊春がこの作品を安永年間に発表してからは、模倣者が相次いで出ました。また豊春の芸術的手法の種々相を見せた傑作としては『四季美人』を推すべきでしょう。春には濃艶な花下の遊女を描き、出色の逸品といえます。夏の部には、涼み台に腰かけて煙草をのもうとする美女と、団扇片手に子どもをあやす美人とが、涼しげな柳の木陰に配されています。秋は衝立(ついたて)の後ろで三味線をそばにして身じまいする艶婉(えんえん)な芸者を描き、冬は梅花繽紛(ひんぷん:乱れ散るさま)たる垣根のほとりに優雅きわまりない盛装の夫人を浮き彫りにし、四季の情趣を尽くして余すところのない芸術の境地を造り上げています。

 

歌川派の門流

豊春は文化十一年(1814年)正月十二日、八十歳の高齢をもって没しましたが、彼の芸術の同時代ならびに後世に与えた影響ははなはだ大きく、ことにその門下には、文化以後一世を風靡した豊国、および美人画をもって卓越した名家・豊広を出し、さらに豊国の門からは偉才国貞、国芳が出て、豊広のひざもとからは巨大な天才広重が現れるに及んで、歌川派に拮抗する者は天下になく、その門流は栄えに栄え、真に豊春の流れをもって浮世絵界を独占するに至ったのです。

臼杵から京へ出て狩野派を学び、江戸で浮世絵に転じ、西洋の遠近法を江戸の町に持ちこんだ人。看板の役者を一人描き忘れるほど絵そのものに夢中だったこの人の弟子から、豊国が出て、広重が出て、江戸の浮世絵の後半はほとんど歌川の名で埋まります。八十年の生涯の、それが実りでした。

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

  

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