慶安四年(1651年)十二月、江戸城の白書院(しろしょいん)。幕府の重臣たちが集まって、政務を話し合っていました。
この年の夏、由井正雪(ゆい しょうせつ)ら浪人が幕府をくつがえそうとした事件が発覚したばかりです。老中の酒井忠勝(さかい ただかつ)が口を開きました。
「先ごろ、由井正雪以下の浪人どもが徒党を組んで謀反を企て、あやうく江戸で騒動になるところだった。つまるところ、日本中の浪人が江戸に集まっているから、こういう禍いが生まれるのだ。浪人どもは江戸から追い払うのが筋であろう」
保科正之(ほしな まさゆき)、松平信綱(まつだいら のぶつな)以下、みなこの意見に賛成しました。
すると、一人の老中が言ったのです。
「なるほど、ごもっともな議論ではあるが、それでは政治に重大な障りが出るだろう」
阿部忠秋(あべ ただあき)、豊後守(ぶんごのかみ)。三代将軍・家光と四代・家綱の二代に仕え、三十年あまり幕府の政治を担った人でした。
二代に仕えた重臣
阿部豊後守忠秋(1602〜1675年)といえば、すぐに思い出すのは隅田川の話でしょう。将軍・家光が隅田川で遊んだとき、駒形堂から二町(約二百メートル)ほど下流を馬で渡ってみせ、あっぱれと名を上げて不興を許された——あの逸話です。しかし彼の偉さは、もっと別のところにあります。政治家として、人格者として、名臣として、そして弓と馬の古いしきたりに通じた専門家として、すぐれた人物だったのです。
幼名は小平治。慶長七年(1602年)に、阿部左馬介正吉(さまのすけ まさよし)の子として生まれました。ある日、父と一緒に本多正信(ほんだ まさのぶ)の屋敷へ行くと、正信は少年を見て、その気品と聡明さをほめ、父を振り返って「梟(ふくろう)が鷹を生むというのは、まさにこのことだ」と冗談を言ったそうです。
九歳で家光のそば近くに仕えました。元和九年(1623年)に小姓組の番頭(ばんがしら)となり、続いて従五位下・豊後守に任じられます。寛永元年(1624年)に家を継いで六千石、三年に四千石を加えられて一万石の大名になりました。それから寛永十年に若年寄、十二年に老中となり、順に領地を増やされて、十六年には武蔵国の忍(おし:現在の埼玉県行田市)の城主として六万石を領します。
のちに慶安四年、西の丸の老中となって家綱の傅(ふ:養育係)を命じられました。家綱が四代将軍になると本丸の老中に戻り、侍従に任じられます。寛文十一年(1671年)に職を退いて穴煙(けつえん)と号し、延宝三年(1675年)五月三日、七十四歳で亡くなりました。政務を見ること、実に三十年あまり。長い長い勤めでした。

浪人対策の識見
冒頭の白書院の会議で、忠秋は続けて、こう説きました。
——いま天下の浪人が江戸に集まっているのは、身の落ち着き先を探しているからだ。国もとにいれば、その国の殿さま一人に頼るしかない。運よく召し抱えてもらえれば身が立つが、抱えてもらえなければ一生浪人で終わる。江戸には日本中の大名が残らず参勤してくる。だから仕官の口を見つけやすく、浪人が集まるのだ。
それを江戸から追い払えば、浪人たちは暮らしの道を失い、行き詰まって難儀する者がたくさん出るだろう。身の置き所がなければ、やむなく盗賊になり、辻斬りや追剥(おいはぎ)を働き、村を荒らして御法度に背く者が出ないとも限らない。いま浪人を追い払って流浪させるのは、不憫(ふびん)である。独り身の者でさえ身を持ち崩す。妻子のある者はなおさらだ。物乞いに落ちる者も多いだろう。
天下は天下の天下である。上のお一人のために万民を苦しめるのは、仁政(じんせい:思いやりのある政治)とは言えない。浪人たちの一揆や徒党を恐れて浪人を追い払ったと世間に笑われるのも、あとの聞こえが悪い。六十余州のどの国も、将軍家の藩の内である。悪事を企てて上のご苦労になるのは、どこにいても同じことだ。浪人が居場所を失って飢えれば、必ずかえって悪事をする。それは痩せ馬が鞭を恐れないのと同じである。だから、このまま置いておくのがいちばんよいのではないか——。
こう説いて、忠秋は浪人追放を取りやめさせたのです。
もう一つ、逸話があります。世に「振袖火事」と伝えられる明暦三年(1657年)正月の江戸の大火のあと、江戸の町には幕府の政策を非難する落首(らくしゅ:時事をからかう匿名の狂歌)がいろいろと現れました。酒井忠清(ただきよ)はこれを見て、「このような悪口を放っておけば、天下の政道をますますそしるに違いない。御威光をもって調べ上げ、落首の張本人を罰して万人の見せしめにせねばならぬ」と力説しました。
忠秋は言いました。「落首は、政道にとってはよい諫(いさ)めである。上にいて下々の痛みを知らないから、いつのまにか政治に間違いが生じ、万民が苦しむことになる。善であれ悪であれ、落首があれば読んでみて、人々のそしりに道理があれば過ちを改め、道理がなければ用いなければよいまでのこと。聖人にさえ過ちがある。まして愚かな我々に、間違いがないはずがない」
同席の井伊直孝(いい なおたか)、酒井忠勝、松平信綱も、もっともだと言って、取り調べは取りやめになりました。政治家としての度量の大きさと、細やかな心配りが、ともにうかがえます。

廉直と仁愛
忠秋は、まことに清く正しい人で、頼み込みの類をいっさい受けつけませんでした。
あるとき松平信綱が同僚たちに、「自分は今後、大名からの贈り物を受けないほうがよいと思う。皆で申し合わせて、諸大名の留守居役に申し渡そう」と言いました。すると忠秋が言うのです。「なるほど、そのほうがよい。ただしそれは、貴君のところには贈り物をよこす人がいるからだろう。自分のところにはどこからも贈られてこないから、断りようもない」。信綱は大いに恥じ入ったそうです。
また、「下馬将軍」とまで呼ばれた酒井忠清らが贅沢にふけり、大名たちにたびたび宴会を開かせて金銀を使わせているのを、呼びつけてこっぴどく叱り、やめさせたこともありました。

林春斎(はやし しゅんさい)が幕府の命で諸大名の系図を編集したときのことです。春斎は阿部家に来て、養子の播磨守正能(はりまのかみ まさよし)に会い、「今度、諸家の系図を改めますが、御家は藤原姓ですから、そのとおり藤原と書きます。豊後守殿にもよろしく」と言って帰りました。それを聞いた忠秋は大いに怒り、きっぱりとはねつけました。
「自分の先祖は三河の土百姓で、代々ご奉公してきたのだ。藤原姓であるはずがないのに、なぜ藤原と書くのか。そんなことを春斎が言うのは、まったく不似合いである」
彼には、そういう厳しいところがありました。しかしその一方で、情の深い人でもありました。
上野と芝の両山(寛永寺と増上寺)へ、将軍の代わりに参拝するときのことです。いつも朝早いので、道に捨て子があると、すぐに拾わせて屋敷へ運び、乳母をつけて育てました。そのうち、忠秋が通るのを待ち受けて子を捨てる者まで出てきます。しかし彼は気にしませんでした。親子の情ほど深いものはない、それを捨てるのはよくよくのことだ。むしろ捨て子があること自体が天下の恥、つまり老臣である自分の恥だ。家来を養う余裕でやっているのだから、家中に迷惑はかけない——家臣が諫めても、聞き入れなかったのです。のちに捨て子たちはみな、よい奉公人になり、女の子はそれぞれ嫁がせました。
こういう人物を家光が厚く信頼したのは、当然でしょう。家綱の傅とし、あとのことを託したのです。

松平伊豆守との仲
忠秋は、どっしりと誠実な性格でした。一方の松平信綱は「知恵伊豆(ちえいず)」と呼ばれた才気の人です。それで二人は、長いあいだ馬が合いませんでした。いつも信綱のほうが押され気味だったのです。しかし家光が亡くなると、忠秋から申し入れて、二人の不和は解けました。
面白いのは、忠秋が酒飲みで、信綱が下戸(げこ)だったことです。ある日、信綱がからかいました。「酒飲みは酒を飲んだときはなかなか元気があるけれども、飲まないときは気が抜けて、間の抜けた顔に見える」。忠秋はすかさず返しました。「おっしゃるとおり。ちょうど、ふだんの下戸の顔色と同じことでござる」。まだ二人の仲がうまくいっていなかった頃の話のようですが、忠秋にも人間らしいところがあり、冗談の一つも言ったのです。

弓馬の故実に精通
家綱の傅になった忠秋が、ある日、弓矢の一式を献上しました。弓が二張、白い猪の皮の空穂(うつぼ:矢を入れる筒)に狩り用の矢を入れ、矢羽根の飾り糸を添えて、こういう札をつけました。「御弓一張、但し御張替有り。御空穂一腰、御根矢二十一、御上刺剣尻」。
これを披露する前に、井伊直孝が札の書き方を見て、大いにほめました。「御弓二張と書くべきところを『御弓一張、但し御張替有り』と記したのは、忠節の志の深さである。主君に二張の弓を献ずるのは忌み言葉になる。根矢二十筋は空穂に入れて冬の矢数。上刺剣尻もまた冬の作法である。志といい、しきたりといい、まさに武道の達人だ」。忠秋は馬の典故にもくわしい人でした。
この一世の名政治家も、病には勝てませんでした。酒井忠清、稲葉正則(いなば まさのり)、久世広之(くぜ ひろゆき)、土屋数直(つちや かずなお)、板倉重矩(いたくら しげのり)らが打ちそろって枕もとに来たとき、忠秋は言いました。
「この忠秋も、もはや再び起き上がれない。ほどなく息絶えると思う。しかし魂は日光に移り、大猷院殿(たいゆういんでん:家光)のおそばに住んで、おのおの方の身の処し方を、きっと見ているぞ」
それから何日かして、臨終を迎えたのです。





