十八歳で名主見習いとなった年に突然出家し、備中玉島の円通寺で厳しい修行を積み、長い行脚の末に故郷へ帰って、国上山の五合庵に住みました。晴れた日は村里に托鉢し、子供たちと遊んで時の移るのを忘れ、雨や雪の日は庵(いおり)にこもって詩や歌を作る。その名は今も「良寛さん」と親しまれています。
峻烈な禅の修行を経て、越後の五合庵で子供たちと手まりをつき、万葉の心を継ぐ歌と独自の書を残した江戸後期の禅僧・歌人。その生涯をたどります。
庄屋の昼行灯息子
幕末の風変わりな僧・良寛は、宝暦七年(1757年)十二月、越後出雲崎の旧家・山本氏の長男として生まれました(※注を参照)。山本氏は屋号を橘屋といい、代々名主と神職とを兼ねた由緒ある家柄で、父・左門泰雄(さもん やすお)は後に髪を剃って俳名を以南(いなん)と号し、早くから天皇を尊ぶ志が篤く、また国学・俳諧にも関心を持った人でした。良寛は幼名を栄蔵と呼ばれ、字(あざな:本名のほかに付ける名)を曲(まがり)といいました。彼はきわめて口数の少ない読書好きで、道を行くにも書物を手放したことがなく、人に言葉をかけられても耳に入らないようなことがしばしばでした。一見、ぼんやりした少年のように見えたらしく、近隣の人々は彼のことを「名主の昼行灯(ひるあんどん:昼間の行灯のように役に立たないもの)息子」などと陰口を叩くような有様でした。『沙門良寛全伝』は当時の彼を、生まれつき愚直で沈黙し、無欲で、世間のことを面倒がってただ読書にふけり、襟を正して人に応対することができなかった、という趣旨で評しています。
良寛には、父に叱られるときなど、上目遣いをして相手を睨む癖がありました。あるとき父が怒って「親を睨む奴は鰈になるぞ」というと、良寛は何を思ったのか、ぷいと家を出て行き、そのまま夜になっても帰って来ませんでした。心配した家の者が方々を探し回って、ようやく海岸の波打ち際にしょんぼり佇んでいる良寛を見つけました。喜んで走り寄ると、彼はぽかんとした顔つきをして、「おれはまだ鰈になってないかや」と言ったということです。この話など、単なる「愚直」というには、あまりにも混じりけのない美しさがあり、後年の天真爛漫な良寛和尚を思わせる何かがあるではありませんか。

出家後の思想
彼は十八歳のとき家督を継ぎ、名主見習役となりましたが、同じ年、突如として隣町・尼瀬の曹洞宗光照寺の玄乗破了(げんじょう はりょう)和尚の弟子となり、髪を剃って正式に僧となる儀式(剃度)を受けて、自ら良寛と称し、大愚と号するに至りました。この突然の出家の動機についてはいろいろ伝えられるところがありますが、当時彼の生家が一歩一歩没落の淵に進みつつあった事実がそのきっかけであったらしいのです。

光照寺に入った良寛はそこで前後五年間学びましたが、安永七年(1778年)五月、備中玉島(びっちゅう たましま)の円通寺の国仙(こくせん)和尚が北越に教えを説いて回る途中に光照寺に滞在していた間に、彼は深くその感化を受け、その人柄と教えを慕うあまり、願い出て備中に随行し、親しくその人に師事することとなりました。時に良寛は二十二歳でした。
円通寺の禅の修行はなかなか厳しいものだったらしく、ある日、良寛が国仙和尚に向かってその寺のやり方を尋ねたところ、和尚は、
「一に石を曳き、二に土を搬ぶ」
——第一に石を引き、第二に土を運ぶ(まず体を動かして働くことだ)——と答えたといいます。
玉島にいること七年、母の死に遭って冥福を祈るためいったん帰郷し、再び玉島に赴き、さらにいること数年、良寛は戒律(僧が守るべき決まり)の厳しい禅堂で学んで飽きることがありませんでしたが、ある日、和尚から宗祖・道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の提唱(ていしょう:禅の教えを説くこと)を受け、大いに悟るところがあり、ついに師から悟りを認める証(印可)を得て、さらに独りで修養するため円通寺を辞し、長い行脚(あんぎゃ:修行のため各地を歩くこと)の旅に出たのでした(※注を参照)。
では、青年期から壮年期に至る間の良寛の思想・心境はどのようなものだったのでしょうか。彼は諸国をめぐる中で当時の仏教界の腐敗・堕落ぶりを目のあたりに見てひどく憤り、「僧伽(そうぎゃ:僧の集まり)」と題する詩を作って仏教界を激しく非難し、燃えるような気概を示したり、または「伊勢道中苦雨の作」と題する詩の中で、天災による農民の苦しみをつぶさに描き、それに同情の熱い涙を注ぐとともに、暗に為政者の無為無能を嘆いたりしています。さらにまた行脚の途中、ハンセン病の患者の哀れな姿を目撃し、光明皇后の慈愛に倣ってその療養所の再興を企てましたが、これはついに成し遂げられなかったと伝えられています。これらの事実を総合して考えるとき、青・壮年期における良寛は、上求菩提(じょうぐぼだい:上に悟りを求めること)・下化衆生(げけしゅじょう:下に人々を救うこと)の熱い思いに燃えていたとともに、覇気もあり、功名心もあり、また鋭い気性を秘めていた禅僧であって、後年、越後の五合庵でゆったりとした生涯を送った彼とは、まったく別人の趣があります。
良寛を生まれながらの飄々として世俗にとらわれない風変わりな僧と見ることは、彼の生涯における最も重要な過程としての青・壮年期を見過ごした浅い見方にすぎません。

五合庵に入る
良寛は長い旅から三たび円通寺に戻り、いること数年、そこで思いがけず、俳諧の旅の途中だった父・以南が京都の桂川に身を投げ、悲惨な最期を遂げたという知らせを受け取りました(※注を参照)。

先に母を亡くし、今また父の死に遭った良寛は、堪えがたい寂しさに襲われると同時に、苦しい修行の間に忘れ果てていた故郷を思う心が、堰を切ってほとばしり出てきたのでした。彼は直ちに京都に向かって発ち、その地で久しぶりに弟・澹斎(たんさい)と対面し、亡き父の法要に加わりました。そして高野山に詣で、伊勢を回り、北陸道を一路帰国の途についたのです。
長い間、思いの外にあった故郷に帰ってきた良寛は、何よりも真っ先に、わが家の荒れ果てた姿に直面しなければなりませんでした。昔の繁栄の面影はなく、滅びゆくものの暗さを漂わせて静まり返っている古ぼけた建物を前にして、熱い涙が彼の頬を伝って流れました。

来て見れば わがふるさとは 荒れにけり 庭も籬(まがき)も 落葉のみして
——帰ってみれば、わが故郷はすっかり荒れてしまった。庭も垣根も落葉ばかりで——という意味です。
良寛はしばらく悲しみに暮れていましたが、やがてふらりとわが家の門前を立ち去りました。しかしながら、再び故郷を離れるには忍びない彼でした。これより彼の、故郷の山々を中心とした、一か所に定住しない托鉢(たくはつ:家々を回って食べ物や施しを受ける修行)の生活が始まるとともに、混じりけがなくとらわれのない、自然そのもののような平穏な境地が開けてきたのです。
その心境にも急速に変化が起こり、文化元年(1804年)、良寛は西蒲原郡国上山(くがみやま)の中腹にある五合庵に入りました(※注を参照)。そこからは、あの果てしなく広がる越後平野を眼下に眺めることができました。
いざここに わが身は老いむ あしびきの 国上(くがみ)の山の 松の下庵(いお)
——さあ、ここでわが身は老いていこう。国上の山の松の下の庵(いおり)で——という意味です。

この一首は、よく当時の心境を語っています。庵に入ってからの彼の生活は水の流れのように静かであり、平和そのもののようでした。晴れた日には近隣の村里に托鉢に出かけ、袋がいっぱいになれば野辺に草を摘み、あるいは道端で子供たちと遊んで、時の移るのさえも忘れました。雨や雪の日には庵にこもって詩を作り、歌を作り、あるいは書を読み、習字を楽しむという風でした。やがて良寛の名声は近隣に聞こえ、彼を敬い信じる人や、支える人なども現れてくるようになりました。
「第一、受用具。頭巾、手拭、鼻紙、扇子、銭、手毬、ハジキ。第二、随身具。笠、脚絆、手巾、杖、掛絡(から:略式の袈裟)。第三、行履物。着物、桐油(とうゆ:油紙の雨具)、鉢、嚢。右、出立の砌(みぎり)に読むべし。しからざれば不自由に至るものなり」
これは良寛が老年に入ってから、物忘れをして困るので、托鉢に出かける際に必ず一読するようにした覚書です。日々使う物として、おはじき、手まりが明記してあり、そうした年老いた時期になっても、なおかつ子供たちとどこでも遊べるだけの用意を、良寛は決して忘れなかったのです。

また良寛の書はひときわ優れたもので、生前すでにその偽物が現れたほどです。当時、江戸の書家として有名であった亀田鵬斎(かめだ ほうさい)も、良寛の草書を見てから「我が書、これより一格を長ず」——私の書は、これによって一段上に進んだ——といって讃えたといいます。したがって良寛は至る所で書を頼まれましたが、彼はそのわずらわしさに堪えかねて、なかなかこれに応じませんでした。だが、子供たちに求められると、いつもにこにこしながら「いろは」などを何枚でも書き与えたということです。

その歌風
最後に、その歌についてです。良寛の父・以南が国学・俳諧に深く心を寄せた人であることは前に述べたとおりですが、彼も父の感化を受け、幼い頃から風雅の道に入ったものでしょう。
良寛が歌を詠み始めたのはいつ頃からかは不明ですが、底本の当時までに発見されたものによると、四十歳前の行脚時代の歌が最も古いようです。
ふるさとへ 行く人あらば 言づてむ 今日近江路を 我越えにきと
紀の国の 高野の奥の 古寺に 杉のしづくを 聞き明かしつつ
——故郷へ行く人があるなら言づてをしよう、今日、近江路を私は越えてきたと。紀の国の高野の奥の古寺で、杉のしずくの音を聞きながら夜を明かしつつ——という意味です。
これらの作品によってもわかるように、作ろうと意識して出来上がった歌ではなく、やむにやまれぬ感情の高まりによるものであって、歌の境地は清純かつ明るく朗らかです。こうした良寛の歌の価値を真っ先に認めたのは正岡子規(まさおか しき)であり、その後、伊藤左千夫(いとう さちお)、斎藤茂吉(さいとう もきち)、相馬御風(そうま ぎょふう)らの研究や紹介によってますます世間の評価を高めたのでした。
良寛はその時々に従って歌を詠んでは捨てたので、彼自身の控えや原稿などは一切なく、底本の当時に世に出ていた歌集は、良寛を敬う人や研究家の苦心によって集められたもののみです。次の歌はその代表的なもののうちの数首です。
飯(いい)乞ふと わが来しかども 春の野に 菫(すみれ)摘みつつ 時を経にけり
風は清し 月はさやけし いざ共に 踊り明かさむ 老いのなごりに
——食べ物を乞おうと私は来たけれども、春の野で菫を摘みながら時を過ごしてしまったことよ。風は清らかで月はさやか、さあ一緒に踊り明かそう、老いの名残に——という意味です。

良寛が全身で打ち込んでいた歌集は『万葉集』ですが、もう一つ打ち込んでいた歌集は、良寛が属していた曹洞宗の開祖・道元禅師の『傘松道詠集(さんしょうどうえいしゅう)』と題された一巻の遺された歌でした。しかし良寛はこれらの歌集から良い影響を受けるとともに、彼独自の淡々として明るい歌風を切り開いたのです。
彼は五合庵に四十五、六歳の頃から六十歳まで住んでいましたが、年老いて衰えた結果、薪を割り水を汲む暮らしの苦労に堪(こら)えられず、そこから住まいを移すこと二度、七十歳の年に、支えてくれた人の一人であった三島郡島崎村の木村元右衛門の屋敷内の小さな庵に移り住みました(※注を参照)。
彼が初めて貞心尼(ていしんに)といううら若い尼僧を弟子としたのは、この庵においてです。良寛と貞心尼とが取り交わした歌は、まことに清く、温かく、かつ細やかな心を尽くした出来栄えでした。彼ら二人の不思議で細やかな心の交わりは、良寛の最後まで五年間変わることなく続けられました。天保二年(1831年)正月六日、良寛は眠るようにその生涯の幕を閉じました。時に七十五歳でした(※注を参照)。



