「永観、おそし」
まだほの暗い朝、いつものように本堂で勤行の支度をしていると、すぐ後ろに誰か立っている気配がします。振り返ってすかして見ると、須弥壇(しゅみだん)に立っているはずの本尊の阿弥陀仏が、そこに立っていました。恐れ入って平伏する僧に、本尊は静かにそう声をかけたといいます。京都の「永観堂」の名のもとになった、永観律師(ようかん りっし)の伝説です。
永観堂のこと
京都の東山、南禅寺町にある禅林寺は、浄土宗西山派の本山です。斉衡二年(855年)、弘法大師の孫弟子にあたる真紹少僧都が創建した寺で、最初のうちは無量寿院といっていましたが、清和天皇のころに勅額を下され、それ以後は禅林寺と呼ぶこととなり、皇族のご出家なされた方や碩学の高僧が住職をすることとなりました。ところが世間ではこの寺をいっこうに禅林寺とは呼びません。永観堂(えいかんどう)と言わないと通じないのです。それは承保年間にこの寺に住職をしていた永観律師があまりに有名であったため、禅林寺という寺の名がすっかり永観の名前に圧倒されてしまったからです。
この寺には、恵心僧都の作だといわれている山越えの弥陀の来迎図があって、これは国宝美術のなかでも大したものですが、それよりももっと人の口にのぼるのは「見返りの本尊」の伝説です。この本尊もやはり阿弥陀仏ですが、それに見返りという名がついたのは、また永観律師との因縁によるものでした。それはもちろん無稽の伝説にはすぎませんが、次のように伝えられています。
永観律師は毎朝まだほの暗いうちに起きて勤行するのが習慣でした。ある朝のこと、今日は少し遅くなったかなあと思いながら、例のごとく本堂に出て灯明をあげ、香をたいて勤行の用意をしていると、すぐ背後に誰か人が立っている気配がします。振り返ってほの暗い朝の闇のなかをすかして見ると、いつも正面の須弥壇に立てておられる当の本尊がそこに立っているのでした。永観が恐れ入って平伏していると、静かに本尊の声があって、「永観、おそし」と仰せられました。それからのちは、勤行はますます熱心になってきたといいます。

念仏三昧の生涯
永観律師は長元六年(1033年)、文章博士源国経(みなもとの くにつね)の子として生まれました。
六、七歳のころ、山崎の国成寺に行って不動明王の呪を授けてもらったことがありましたが、彼は一度聞いただけでたちまちその呪文を暗記してしまいました。それには国成寺の住職も、「この児こそ、いわゆる宿世の仏種というのであろう」と驚嘆したといいます。『本朝高僧伝』に記されていますが、要するに彼は幼いころから頭脳明晰だったのでしょう。十一歳のとき、禅林寺の深観僧都について出家得度をしましたが、この僧都は花山院の第四皇子という高貴の方でした。だが永観は、本当の仏学を修めるためには京都にいたのでは駄目だと考えました。当時の仏学の中心地は南都です。ことに南都の東大寺は最高の学府でした。そこで永観はまもなく笈(おい)を負って南都に赴き、東大寺の有慶という学僧につきました。そして法相、華厳、三論などの勉強をしました。ことに三論については深い造詣を得、学僧としての十分な資格を得たのです。
だが永観という人物は、地位だとか栄達だとかいうことに対してまったく執着のない人でした。三十歳まで東大寺で修学し、立派な学僧になったのに、彼はさっさと光明山に隠棲して念仏三昧の生活をはじめました。しかし世間は、この学徳兼備の高僧をいつまでも山棲(さんせい)させてはおきませんでした。やがて彼は無理やりに引っぱり出されて、かつての師匠の寺であった禅林寺に据えられることとなりました。禅林寺に入ると、彼はまず寺の巽(たつみ)の方角に一院を建立してこれを東南院と名づけ、ここで衆僧を集めて三論を講じましたが、講義が済むとまた相変わらず念仏三昧に入って倦むことを知りませんでした。そして康和二年(1100年)には東大寺の別当となりました。別当というのは大きな寺院の長官であって一山の統轄をやっていかなければならないのですが、東大寺別当としての永観律師の態度は実に立派でした。まず公私の別を明らかにし、僧規を厳粛にし、簡素の風を養い、好学の精神を盛んにし、大いに成績の見るべきものがありました。だがそんな宗政家流の生活は、彼のもとより好むところではありません。東大寺別当たることわずか二年にして、彼はふたたび禅林寺に帰り、交遊を謝絶して、また念仏三昧の生活に入ったのです。

浄土教の先駆者
彼の生涯をひととおり顧みてみると、東大寺の別当職についた二年を除けば、まったく淡々として静かな生涯でした。僧階からいっても、承徳二年(1098年)に律師に任じられたきりで、その後はいつも昇進を拒んでいました。結局一生を禅林寺で暮らしましたが、禅林寺ほどの寺に住職することも、道友たちの無理やりな勧請でやっと受けたことでした。といって人目に立つほどの逸話もなし、これはというほどの言動もなく、彼の生涯はやはり淡々たるものというよりほかはありません。しかもその淡々たる生涯のうちに、日本仏教史全体の上から見ると、いろいろな重大な業績が実現されていたのです。
まず第一に挙げるべき業績は、彼がわが国の浄土教、念仏門の先駆者であったことです。わが国において浄土教によって宗を立てたものは、良忍であり法然であり親鸞ではあります。だが彼らはまったく準備のないところに立宗したのではありません。彼らの以前、すでに空也がいた、源信がいた、そして永観がいたのです。永観はすでに三十歳のころから専修念仏の業をはじめました。そのころには一日のうちに一万遍くらい弥陀の名号を唱えたといわれています。そしてさらに年の進むにつれてその回数はぐんぐん増していき、ついに一日に六万遍を唱えるに至ったといいます。しかも朝と昼と夜の誦経は一日といえども欠かしたことはありません。まったく無理ではないかと思われますが、実際において無理であったものか、ごく晩年に至っては舌乾き喉かれて、ついに唱名ができなくなったので、ただ仏の相を観じることだけで満足しなければならないこともあったといいます。実に悲壮な苦行であったといわなければなりません。
悲壮といえば永観の健康のことですが、彼は若いときから病弱であって、学問をするにも念仏の業に励むにも、いつも病弱なわが身が大きな重荷でした。だが彼はその病弱の重荷を決して苦にしませんでした。仏教には「病は善知識(ぜんちしき:よき導き手)である」という考え方がありますが、彼もまたその考え方によって、我と我が身を励ましたのでした。
「病は人の善知識であるという。私は病身であるが、病身であるがゆえにますます仏道修行に励まねばならぬことを知るのである」

教誨事業、著作等の功績
教誨(きょうかい)事業といえば、囚人を刑務所に訪れて宗教的に教え導こうとする仕事ですが、この事業は一般には、明治時代、キリスト教によって輸入されたもののように思われています。だがそれは誤りで、仏教にもすでに一千年の昔から教誨事業があったのです。そしてこの仏教的教誨事業の先駆者は春朝と永観だといわれています。
まず春朝のことから語ってみましょう。春朝はいつも法華経を口ずさんでいました。それが哀調婉々たるものがあって、聞いているとおのずから掌を合わせて仏を拝みたくなるほどでしたが、あるとき京都の獄屋の付近を通りかかって、ふと目についた囚人たちの有様があまりに哀れだったので、何とかしてあの苦しみを救ってやりたいものと思いました。
「そうだ、自分が獄屋に入って、この『法華経』を読んで聞かせるのだ」
彼は大変な決心をしました。自ら獄に投じられることを決心したのです。そこで彼はある高貴の家にしのびこんで銀の器を盗みました。また双六をして捕らえられました。そのほか自ら進んで悪事をなし、七度獄に投じられましたが、獄屋にあってはいつも『法華経』を口ずさみ、また仏の教えを説き聞かせて、ひたすら囚人の教誨に努めたのでした。
このように春朝の教誨事業はまったくドラマチックな雰囲気に包まれています。だが永観の教誨事業というのは、はなはだ平凡でした。彼の性質は平和を好み、寂静を愛し、また慈悲に富んでいました。その慈悲の心から、彼はしばしば獄屋を訪れ、囚人のために仏の教えを説き、ことに念仏は罪業消滅の法であることを説いて、それをしきりに勧めました。それだけのことです。しかし正しい教誨事業は、春朝のそれではなくて、永観の教誨事業です。淡々たる平凡のうちに重大な意味を持ったもの、それが永観のあらゆる業績の特徴だったのです。
永観律師にはまた相当多数の著作があります。そのなかでも『往生十因』二巻と『阿弥陀経要紀』一巻などがもっとも有名です。ことに『往生十因』は永観自身の行業と相まって、浄土教の興隆をうながすのに大いに力があったといわれています。なお、永観が立派な歌人であったことも記しておかなければなりません。「禅林寺にて時鳥をききて」と前書きした一首は、禅林寺の寂静を次のように歌っています。
忍びねも音なかりけり郭公こやしづかなる林なるらむ
天永二年(1111年)十一月、彼は軽い病気にかかりましたが、そのとき弟子たちを枕頭に呼んでこう言いました。
「お釈迦さまは八十歳で示寂されたというが、私もその同じ年になる。これだけ生きれば満足である」
そして往生講を修し、頭を北にして顔を西に向け、念仏を唱えながら静かに入寂しました。歳八十。なお、永観はヨウカンと読むのが正しいのですが、底本はエイカンという俗称にしたがってエの部に収めています。
出世を断り、人目に立つ逸話もなく、一日六万遍の念仏を唱えて喉がつぶれ、牢屋を訪ねては念仏を勧めただけの人。その淡々とした生涯が、法然や親鸞の百年前に浄土の道をならしていました。「永観、おそし」と振り返る阿弥陀は、今もその寺で、遅れてくる人を待っています。





