「役者のお蔭をこうむって人気を得たくはない」
役者絵で人気を競う歌川豊国に対抗して、そう豪語した絵師がいました。描いたのは、難波屋おきた、高島屋おひさといった江戸の町の評判の娘たちの、なまめかしい半身像です。役者の人気で売れていた浮世絵の世界で、絵そのものの力で役者絵を尻目にかけて売れたこの「大首絵」は、一大事件でした。喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)。生きているうちから長崎の商人が新版を待ちかまえ、やがてゴッホに憧れられた人です。
世界の歌麿
当時、歌麿ほど早く世界的になった画家はいません。彼がまだ在世のころから、長崎に来ていた中国の商人たちは、彼の版画の新版が出るのを待ちかまえて買い集めていました。それは中国でも非常な人気をもって迎えられ、この日本の流行画家の作品は物凄い勢いで流布されたから、商人たちは高い金を出して買っていっても、なお巨利を博することができたのです。また同じく長崎に来たオランダの商人たちも、この日本の流行画家の作品を見逃しませんでした。彼らもまた苦心してそれを買い集めては国に持って帰りました。そしてヨーロッパの各国にたちまち流布され、まもなく各地の名だたる美術愛好家のコレクションに、彼の小さな版画が特別の席を与えられるようになったのです。
彼ばかりではなく、すべての浮世絵師がそうでしたが、彼らは日本においては、ただ婦女子のあいだの人気者であるにすぎませんでした。人々はこれを賤しめて、卑俗な慰み物と見ました。そしていつまでも、その高い芸術的価値を認めようとはしませんでした。しかしヨーロッパにおいては、なかでも歌麿の繊細で柔軟な描線や、その豊富な色彩が人々を驚かし、この粗末な紙切れに印刷された一枚の版画の持つ偉大な芸術的価値が讃嘆されたのです。したがって、歌麿の版画がヨーロッパの近代美術に与えた影響は非常に大きなものです。ヨーロッパ近代の偉大な画家ファン・ゴッホの生前の希望が、一度歌麿の故国日本の土を踏みたいということであったのも、歌麿の価値がかの地でいかに高く認められていたかということの一つの証明です。
日本において歌麿の真価がようやく認められてきて、一枚の版画が数万円の価格をもって売買されるようになったのは、底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和の初めから見てごく近ごろのことで、皮肉にもそれはヨーロッパの人々に教えられたためでした。したがって彼の作品のもっともいいものも、日本よりはむしろヨーロッパやアメリカの美術館に、美術愛好家のコレクションのなかに保存されています。また歌麿の芸術や生涯についての研究も、かえってかの地において盛んであり、またより真剣になされていました。だから当時、歌麿について研究しようとするならば、どうしても外国の人の書いた権威ある書物にたよらなければならない有様だったのです。
こんな事情が生じたのは、歌麿の芸術が町人の芸術であったからだと底本は説明しています。徳川幕府のもとに元禄時代となって、日本には非常な勢いで商工業階級が勃興してきた。そして社会の実際の力は、幕府を頭とする武士階級の手から彼らに移った。大名も一般の武士も、彼らに頭を下げて金を借りなければ生活ができなくなってしまった。そこで幕府をはじめ武士階級は彼らに非常な脅威を感じ、ことあるごとに町人階級を圧迫してその力をそぐことに努力した。だから武士の権威を維持するために、武士だけが尊いものであり、町人百姓などは賤しむべき人種であるという観念を国民の頭に植えつけることが、彼らにとってはどうしても必要だった。芸術上においても、支配階級の芸術たる漢詩、和歌、あるいは南画などのみが高い芸術であり、町人間に流行した俳句、小説、あるいは浮世絵のごときははなはだ賤しむべきものであるという固陋(ころう)な考え方が行われていた。こうした観念にわざわいされて、日本人は久しく、自分の国が生んだ世界的芸術家歌麿の真価を認めることができなかった、というのです。

歌麿の生涯
歌麿は宝暦年間の生まれで、没してから底本の当時でもまだ百三十年ほどしかたっていませんでした。にもかかわらず、この町人画家の真面目な研究が行われていなかったから、その生年月日や生国、またその父などについても確実なことが分かっていません。近ごろになって研究家が懸命に調査して、おそらく宝暦三年か四年(1753〜54年)の出生であろうという見当がつきました。そして生まれた国は武州川越だともいい、一説には江戸の人だともいいますが、要するに若くから江戸で生活していたことは事実なのです。そしてごく若い時分、おそらく二十歳前後に、狩野派の画家鳥山石燕(とりやま せきえん)の家にいたことも確かです。しかしこの人が彼の父だという説もあるし、また単なる師匠だという説もあって、そこまでは明らかになっていません。だがいずれにしろ、歌麿はこの人の家にいて、この人から絵の手ほどきをされたのです。
鳥山石燕はそれほど才能のある画家ではありませんでしたが、当時の江戸の市民はまだ迷信にとらわれていて、彼らの日常生活には何かにつけ幽霊というものが登場してきたので、そこをねらって『百鬼夜行図』などの幽霊画を盛んに描いて市民の幽霊熱をあおり、なかなか人気はあったのです。歌麿はその人の家にいるあいだは豊章(とよあき)と名乗って、幽霊の絵を描いていたものです。当時、師匠が悪かったせいか、あまり技術も進歩しなかったということです。彼が石燕の家を出たのは、放蕩にふけって勘当されたためでした。しかしそれから彼は市中を流浪し、最後に吉原大門口の蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)の家の食客(しょっかく:居候)になってから、がぜん才能を伸ばしはじめたといいますから、結果からいえば、それがかえって彼に幸いしたことになります。
蔦屋は当時江戸第一の絵草紙版元、今でいえば出版社です。歌麿がその家の食客になってからその技術を急速に進歩させたのも、決して偶然ではありません。そこには文士や画家がしきりに出入りしていて、歌麿はそれらの人々のなかでも蜀山人や京伝とすぐに親交を結ぶことができたから、常に彼らから激励や忠告を受けるようになりました。それから、彼の先駆者たる清長の美人画の研究もできました。また蔦屋は吉原の大門口にあったのですから、彼は夜も昼も吉原に入りびたり、その家々を歩き回ってそこの美人たちと親しくして、彼女らの生活を詳細に研究することもできました。こうして彼の「世界無比」と称せられる偉大な芸術が創り出されたのです。なお蔦屋には、その主人が死ぬまで厄介になっていました。歌麿が喜多川の姓を名乗ったのも、蔦屋の縁故からだといいます。
歌麿が出て浮世絵は絶頂に到達しました。歌麿以後はしだいに衰えていきました。そして第二の歌麿と称せられるほどの人は出ませんでした。それは、この芸術の領域がまったく歌麿によって、もはや発展の余地なきまでに開拓し尽くされたためだといいます。
歌麿が最初名をなしたのは、「黄表紙」の挿絵画家としてです。それは当時非常に流布された廉価版の小説の叢書で、粗雑な紙に印刷して黄色い表紙をつけ、それに墨刷りの挿絵が入っていました。それ以来彼は流行児となり、まもなく諸処の出版社から依頼され、山東京伝、十返舎一九らの小説家と共同で『艶本枕言葉』『江戸雀』などの絵本を制作したり、また何枚か続きものの錦絵も描くようになりました。そして彼の人気はますます加わっていったのです。
だが、彼の傑作がもっとも多く見いだされるのは、いわゆる「大首物(おおくびもの)」です。当時、歌麿と人気を競っていた役者絵の名手歌川豊国に対抗して、「役者のお蔭をこうむって人気を得たくはない」と豪語しつつ、彼は難波屋おきた、笠森おせん、柳屋おふじ、高島屋おひさらの江戸名題の美人のなまめかしい等身大の半身像を描いて売り出しました。これが「大首物」ですが、絵そのものの人気よりも役者の人気で売れていた浮世絵において、この大首物が役者絵を尻目にかけてどんどん売れたということは、一大事件でした。歌麿はこれによって浮世絵に一新時代を画したのです。彼はその絵において描線と色彩と全体の感じとの調和に努力し、女性の持つ表情の種々の陰翳や姿態のあらゆるポーズを、印象的な生き生きとしたタッチで描いています。もっとも彼は石燕からの狩野派や北尾派や鳥居派などの影響をその画系に持っているといえますが、版画においては、彼の芸術はまったくその独創的な才能と努力から生まれ出たものです。そのほか歌麿には、動物や花鳥魚介を描いたものにも傑作があります。これらの絵は写実主義の極致に達したもので、美人画にも劣らず高く評価されているのです。

芸術に殉ず
さて最後に、彼の人気が頂点に達したときに、彼の死を早めたといわれている一事件が起こりました。それは文化元年(1804年)五月のことです。大阪に玉山という画家がいて、『絵本太閤記』という続き物を出版して非常な人気を得たのに刺激された歌麿は、太閤が石田三成や加藤清正とともに朝鮮の妓女を侍らせて酒宴をしている絵を描いて売り出したのです。すると神経過敏な幕府は、それが幕府の政治を風刺するものだと思いました。そのころは町人階級の芸術家によって、幕府の政治に対する辛辣な揶揄や、その政治的圧迫に対する手きびしい風刺が盛んに行われている時代でしたから。それで彼は吟味中入牢を命じられ、なお牢から出されてからも、自宅で五十日間手錠をはめさせられていたのです。そしてようやく手錠を外されると、待ちかまえていた出版社が作品の依頼に押しかけてきましたが、その数が八十軒以上もありました。こうして獄中の苛酷な待遇に心身ともに疲れきっていた歌麿は、加えて出獄後の仕事の過労にわざわいされて、文化三年(1806年)、ついにふたたび起たなくなりました。ときに年齢五十四です。
吉原の版元の居候だった男が、役者に頼らずに町の娘を描いて江戸を制し、太閤の酒宴を描いて手錠をはめられ、八十軒の注文に追われて死にました。その「卑俗な慰み物」を、海の向こうの画家たちが宝のように集め、ゴッホは日本に来ることを夢見たのです。


