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岩佐又兵衛の生涯|大江戸の華「浮世絵」の開祖と呼ばれた天才絵師

岩佐又兵衛の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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天正七年(1579年)、摂津伊丹城が落ちたとき、城主荒木村重の一族は信長の命でことごとく処刑されました。そのなかで、乳母のふところに抱かれてひそかにのがれた二歳の男の子がいました。京都本願寺の塔頭(たっちゅう)にかくまわれて育ったこの子は、やがて母方の姓を名乗って絵筆を取ります。岩佐又兵衛(いわさ またべえ)。のちに「浮世又兵衛」と呼ばれ、江戸の浮世絵の先駆けとなった絵師です。

 

浮世又兵衛

浮世絵こそは、大江戸の時代を飾る芸術の華でした。戦乱が相次ぎ、矢叫びと剣戟(けんげき)の響きの絶える間もなかった足利末期、織豊時代の「憂世(うきよ)」から芽を出し、ようやく天下泰平、現世謳歌の「浮世」なる江戸時代の春に開いた、華麗な花でした。

 

戦国時代や織豊(織田信長・豊臣秀吉)時代までの「うきよ」は、『憂き世(憂世)』と書かれていました。「つらく、はかない世の中」といった意味合いです。対して江戸時代になり使われるようになった『浮世(うきよ)』には、「ウキウキと、今を楽しめばいい世の中」という意味があります。戦争がすっかり終わって誰もが今を楽しんで生きるようになった江戸時代の『浮世(ウキウキとはじける現代社会)』という春を迎えて、一気に華開いた最高に美しい文化、それが浮世絵なのです。 By KADOYA

 

従来のように制作の態度と精神を一部上流階級の賞玩(しょうがん)のみに向けず、ひたすら民衆、江戸時代からようやく頭をもたげて新しい勢力を占めつつあった町人階級の趣味と生活に立脚し、その表現方法を当代の時代精神たる享楽的な現実謳歌にのっとり、画材を民衆精神の赴く先端であった演劇・遊里・花見・祭礼・見世物・湯女(ゆな)などに求め、しかも画家の技量と彫師・摺師(すりし)の腕と相まって織り出された、描線彩色の目もあやな浮世絵は、その享楽主義的な傾向や、民衆の不満不平の表現、幕政風刺などの点からはげしい弾圧をこうむりながらも、民衆の絶大な支持を得、隆々として江戸文化の殿堂を豊富にしていきました。

元禄年間には巨匠菱川師宣(もろのぶ)が出て、下って宮川長春、鳥居清信、享保・宝暦のころにかけては西川祐信、西村重長、奥村政信、鳥山石燕、懐月堂、明和から寛政に至る極盛期には勝川春章、北尾重政、鳥居清満、歌川豊春、東洲斎写楽など、おのおの一派をなして名声をはせ、春英、春好、北斎、政美、政演、清長、豊国、豊広などの名手を輩出し、また鈴木春信、喜多川歌麿、磯田湖龍斎、池田英泉なども競い起こり、のちには歌川派の国貞、広重、国芳などが天下を圧倒するに至りました。このように名工巨匠が相次いで現れ起こり、苦心彫琢(ちょうたく)して描き出した江戸文化の粋たる浮世絵は、ひとたび文久二年(1862年)にロンドンで開催された万国博覧会に出品されるや、当時のパリにいた画家、工芸家、出版社、批評家たちはたちまちこれに着目し、この特徴的な日本芸術はまさに全世界の耳目を驚かすところとなりました。以来、底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和の初めまでの七十余年、諸外国語で書かれた浮世絵の研究書、解説書などが続々と現れるに至ったのです。この浮世絵の源流に立つ人こそ、岩佐又兵衛勝以(かつもち)でした。

岩佐又兵衛の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

性来、丹青(たんせい:絵描き)を好む

又兵衛が生まれたのは、織田信長が右大臣に任ぜられたころ、天正六年(1578年)です。彼の父、荒木摂津守村重(あらき せっつのかみ むらしげ)は、岐阜城ではじめて信長に対面したとき、信長から長刀の切っ先に饅頭を突き刺して出されたのを食ったことなどがあり、軍功によって摂津国に封ぜられて伊丹城にいました。が、のちに信長の命に逆らったため信長に攻略せられ、尼ヶ崎で自殺したと底本は伝えています。

 

日本英雄伝には父村重は「尼崎で自殺した」とありますが、これは史実とは考えにくいようです。村重は落城後も生き延び、信長の死後には剃髪して「道薫」と号し、天正11年(1583年)の茶会記にもその名が見えるとのこと。のち天正14年(1586年)、堺で没したと伝えられているそうです。一説によると村重の晩年、一度だけ父子は再会を果たしたとも。又兵衛が天正6年(1578年)生まれなので、もし会っているとすれば8歳より前ということになります。 By KADOYA

 

当時、又兵衛はわずかに二歳でしたが、乳母のふところに抱かれてひそかにのがれ、京都本願寺の塔頭にかくれていました。長じるに及んで母の氏を名乗って岩佐と称し、父の縁故で織田信雄(のぶかつ)に仕えました。

 

不思議に思えるのは、又兵衛がのちに織田信長の子・信雄に仕えた点です。信長は荒木一族に残酷非道な処罰を加えた相手であり、現代の感覚では「仇の家」に仕えたようにも見えます。しかし当時は、家の存続や身分の保証、人脈による保護が何よりも重要であった時代です。又兵衛は母方の岩佐姓を名乗って育ち、荒木家の子として公然と生きたわけでありませんでしたが、村重がかつて織田家中の有力武将であった縁から、信雄の近習として召し抱えられたと考えられるようです。ここからはあくまでも僕の想像ですが、又兵衛は父・村重の反逆によって幼くして一族離散の運命を背負い、信雄もまた、若き日の伊賀攻めの失敗で父・信長から厳しく叱責された人物です。二人とも、それぞれ父に対して複雑な思いを抱えていた、その共通した想いで結びついたのかもしれません。 By KADOYA

 

彼は幼時から絵を好み、暇さえあれば画筆に親しんでいました。世態風俗、風流新様の時勢粧(じせいすがた:当世風の姿)を写して、ついにその妙手に達し、一家の風格をなしたところから、世人は彼を「浮世又兵衛」と呼んだのです。天正十八年(1590年)、織田信雄の没落とともに、又兵衛は諸国に流浪する身となりました。が、のちに越前福井侯に仕えます。このころの生活は、「世のおとろえの悲しさに、ひなの住まいに年を経て、はたとせ余り越前という国へ下り、いやしのしづの交わり、みやこの事を忘れはてて、老くぐまれるよわいの程」と、彼自身が『廻国道の記』のなかに述べているように、相当落ちぶれていました。

しかし彼には花咲く春が待っていました。当時、人に乏しかった土佐派の画匠で、しかも名門の遺児でもあり、ことには彼の画名がはなはだ高かったところから、寛永年間、又兵衛は三代将軍家光の招聘(しょうへい)を受けたのです。それには、甥にあたる荒木左馬之助村常の母で、将軍家の大奥に老女として勢力のあった荒木なる人の縁故もありました。出発に際しては、福井侯松平忠昌は非常に惜しんで、彼が一家を挙げて去ることを許さなかったので、彼はぜひなく独り京都を経て、寛永十四年(1637年)、六十歳の春、江戸に着きました。そして家光の女(むすめ)千代姫が尾張侯徳川光友に嫁するにあたっては、命を受けてその調度品を描き、また寛永十七年ごろには幕府の建築家木原義久を介して、しばしば尾張侯に召されたりしました。以来、彼は独り江戸に住みましたが、ふたたび福井に帰れないことを思って、妻子のために自画像を描いて福井に送りました。そして慶安三年(1650年)六月二十二日、江戸に没しました。ときに年七十三歳でした。

岩佐又兵衛の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

その画風

又兵衛の画風は、伝統の拘束を離れて型を抜けた妙所を持ち、鋭敏な観察力をもって奇警な構図をなし、画面に個性ある溌剌(はつらつ)たる生気を横溢(おういつ)させ、用筆法は雄勁(ゆうけい)にして鋭利、一種強烈な英気を感じさせるものがありました。彼の画風には、土佐派の濃彩、海北(かいほう)・長谷川派の奔放な水墨、和漢渾融(こんゆう)の淡墨淡彩の優雅など、豊かな様式の変化がありました。

彼は最初、土佐派を基調として出発し、これに狩野派を混合しました。初期における彼の画材は、土佐派の範囲の歴史的事実、伝説、古典文学ならびに中国の故事から選ばれました。そして同時に、終生続けられたところの風俗画、とくに婦女図を描いています。ついで二十歳を越えたころから織田信雄の臣・狩野内膳(ないぜん)と接触し、長いあいだ絵巻の制作を続けました。のち、土佐風と狩野派とを基調とする内膳の新画風を取り入れて「金谷屏風(かなやびょうぶ)」のような傑作を描き、越前移住から江戸に上るまでの四十歳前後に、おのれの黄金時代を現出しました。江戸に上ったのちは、狩野派の影響から脱して土佐派に復帰しています。彼は玲瓏(れいろう)たる彼自身の特徴を持しつつ、描いて倦(う)まない根強い精根と、その周囲からあらゆる画風を摂取して自らを養うたくましい消化力を持ち、描こうとする対象に応じて千変万化の手法を出しました。その描く人物においても、豊かな頬と長い顎、ユーモラスな顔面、必ず目のいずれか一方に偏る特殊な癖、衣紋(えもん)の端に特殊な波状線のあること、物を握った手の甲の著しい特徴など、異色ある筆に生き、多彩にして変化に富む新鮮な又兵衛流の画風を創成したのです。彼の描き出した風俗画は、後に来る風俗画家たちに深い刺激を与え、関東の新風俗画を開拓して、やがて咲き乱れるべき江戸浮世絵の先駆をなしました。

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作品

浮世絵、風俗画、初期浮世絵、近世初期風俗画、あるいは初期肉筆浮世絵など、種々さまざまな呼び方がありますが、浮世絵、ことに初期浮世絵といえばただちに「又兵衛」で通るくらい、又兵衛の名はポピュラーです。したがって彼の作品についても、肯定する側から言えば慶長・寛永期の風俗画はほとんどすべて又兵衛の作品とされ、また否定する側から言えばそのほとんど全部が否定されるのですが、大体、その道の権威者によって確実に又兵衛の作品として折り紙をつけられたものには、武州入間郡川越の東照宮の三十六歌仙図絵額や、柿本人麿図、紀貫之図、自画像、伊勢物語図、山中常盤双紙絵巻、男女遊楽図、花下舞踊図など、およそ四十点ばかりがあります。

その二、三を挙げてみれば、まず、又兵衛が種々の画風を試みた例として興味深い『柿本人麿図・紀貫之図』があります。減筆法(げんぴつほう:筆数を少なくして描く手法)をもってした墨絵で、人麿には力ある描線を用い、貫之には水墨の潤いのある趣を見せながら、磊落(らいらく)な体を縦横に試みています。『金谷屏風』は、平安朝の風俗と中国の風俗を描いた紙本着色の密画ですが、人麿や貫之の描法ともまったく異なり、種々の手法を用いてやまない又兵衛の研鑽(けんさん)ぶりを知らせるものであり、かつ彼一流の特色をよく発揮した作品で、和漢渾融の筆致に淡墨淡彩の優雅さのあふれて見える傑作です。『山中常盤双紙絵巻』は、牛若丸とその母常盤との史伝小説を九十八場面に描き出したもので、上下十二巻にわたる大雄編です。その雄大な構想と、人物の活躍、用筆の細勁、彩色の濃麗、細微をきわめた筆致など、真に驚くべきものがあります。ことに常盤と侍女とが斬られて死に至るまでに刻々と変化してゆく肌の色を幾場面にもわたって巧みに描いているところなどには、近代的な細やかな神経の動きが見えます。『三十六歌仙額』は、東照宮本社の拝殿の欄間に左右十八ずつ分けて掛けられ、表には極彩色の歌仙を描き、その背景の金地には歌が書き入れてあります。人麿の裏に「寛永十七庚辰年六月十七日絵師土佐光信末流岩佐又兵衛勝以図」とあります。『自画像』は、白髪を結んだまばらな髭(ひげ)の又兵衛が、小紋の衣服に黒い羽織を着て、右手に竹杖を取り左手に数珠を持ち、やや斜めに向きながら竹製の椅子によったところで、右方の卓上に金色の香炉と書物とをのせ、椅子の後ろには長刀が立ててあります。一筆もいいかげんにしない謹厳な描写をもってして、その顔貌などは秀抜にして神気あふれ、そぞろに作者の人となりをしのばせるものがあります。

一族を皆殺しにされた二歳の子が、仇の家に仕え、落ちぶれて越前に二十年を過ごし、六十歳で将軍に呼ばれました。「憂き世」を生き抜いた人の筆から、「浮世」を楽しむ江戸の絵が始まったのです。福井に残した妻子に送った自画像の、竹の椅子に座る静かな老人の顔が、その一生を語っています。

岩佐又兵衛の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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