「むずかしく申しては、女中方や子ども衆の耳へ入りにくい。聖人の道もチンプンカンプンでは、女中や子ども衆の耳に通じませぬ。心学道話(しんがくどうわ)は、学者のために設けたことではござりませぬ。ただ家業に追われて暇のない、お百姓や町人衆へ、聖人の道のあることをお知らせ申したいというのが、先師の志でござります」
江戸時代の中ごろ、京都の町家で、こんな前置きから始まる講話が開かれていました。先師と呼ばれているのが、石田梅岩(いしだ ばいがん)です。
心学道話の始祖
その講話は、たとえばこんなふうに続きます。「孟子(もうし)いわく、仁は人の心なり、義は人の路(みち)なり。これは『孟子』告子上に見えまする本文でござります。この仁と申すのは、先生方がいろいろに注釈をなさいましたけれども、つまるところ、とんと無理のない、ということでござります。この無理のないのがすなわち人の心じゃと、孟子は仰せられました。この無理のない心をもって親に仕えますると孝行になり、主人に仕えますると忠になり、夫婦兄弟朋友のあいだもまたこのとおりで、五倫(ごりん:人の守るべき五つの関係)の道は安らかにととのいます」
「ずいぶん言葉をやさしくして、たとえを取り、あるいは落とし話をいたして、理にかなったことは神道でも仏道でも何でもかでも取りこんでお話し申します。かならず軽口話のようだと、お笑いくださいますな。これは本意ではござらねども、ただ通じやすいように申すのでござります」
このように、言葉を平明にし、身近なたとえを引き、ときには冗談をまじえて聞く人を笑わせ、笑いのうちに手を打たせて、知らず知らずのうちに町の人々を「道」に入らせることを目的とした心学道話。この心学を、享保(きょうほう)の世にはじめて京都で唱え出したのが、実に石田梅岩でした。

享保の世相と、刻苦二十有余年
西暦1720年を元年とする享保の時代は、米を中心とする封建の経済から貨幣の経済へ移っていく過渡期の経済の混乱、新しく興ってきた町人階級の物質中心の考え方の出現による、人々をまとめていた社会の信念の崩れなどが原因となって、国民の暮らしの秩序がどこへ行くか分からない、暗黒の世界を現出した時代でした。人々の心が、貧しさから生まれる罪悪と、理想を持てないことから来る絶望と自暴自棄にむしばまれた時代だったのです。
「私はかつて物を盗んだなどという覚えは毛頭ござりませぬ。私はあり余っている人のお金を借りてきて、ただ貧乏人に分けてやっただけなんで、いわば仲立ちをいたしただけなんで、盗んだなんぞの覚えはござりませぬ」
かの日本左衛門(にっぽんざえもん)という盗賊が、大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)の前でこう申し立てて、ふてぶてしく反りかえったのはこのころでした。有名な徳川天一坊(てんいちぼう)が現れて天下をねらったのも、この時代です。享保の世の人々は、いかに生きるべきか、何を求め、何を目標として生きるべきかに思い悩み、暗い泥沼の中でもがいていたのでしょう。石田梅岩は、当時の京都にあって、こうした世のありさまをしみじみと見つめていました。

石田梅岩は貞享二年(1685年)、丹波国(たんばのくに)桑田郡東懸村(とうげむら:現在の京都府亀岡市)の農家の次男に生まれました。名は興長(おきなが)、通称を勘平(かんぺい)といいます。八歳のとき京都のある商家に丁稚(でっち:年少の奉公人)に出され、十三、四のころまで勤めていましたが、わけあって故郷へ帰り、それからしばらく家業の野良仕事に従っていました。二十三歳のとき、彼はかたい志を抱いてふたたび京都に上り、商店の丁稚になります。
梅岩は、神道を説き広めて、「日本じゅうの人に、日本の国の道を教えてみたい」という願いを抱いていました。けれども一介の苦学生にすぎなかった彼は、自分を養い、食べていかなければなりません。貧しい暮らしに苦しみ、商売のかけ回りに追われながらも、つねにその志を社会の教化(きょうか:人を教え導いてよくすること)の上に置いていました。めぐまれない悲しい境遇に泣きながらも志の達成を忘れず、こつこつと努力すること実に二十有余年、ようやく性理の学(せいりのがく:人の本性と天の道理を究める学問)をきわめて悟るところがあり、天一坊が処刑された享保十四年(1729年)、梅岩が京都の車屋町(くるまやちょう)にはじめて講席を開いて、自分の信じる道を説きはじめたのは、四十五歳のときでした。

社会教化運動のスタート
「もし聞く人がなければ、たとえ辻に立ってでも、わが志を述べよう」
そう奮い立った梅岩は、車屋町のささやかな講舎の前に、「無縁にてもお望みの方々は、遠慮なくお通り、お聞きなさるべく候」と書きしるして、聴衆を待ちました。
心学は、神道・仏教・儒教の説くところをまったく区別なく混ぜて用い、実践の道徳の上でも、時代の道徳意識をそのまま採りました。したがって思想の上の新しい発見というべきものはありませんでしたが、注目すべきは、日本における社会教化の先駆けだったことです。
「性(せい)というは、人より禽獣草木(きんじゅうそうもく)まで、天に受け得て以て生ずる理なり。性を知るときは、五常五倫の道はその中に備われり。性を知るは学問の綱領なり」
――人の本性というものは、人から鳥や獣や草木に至るまで、天から受けて生まれた理(ことわり)である。それを知れば、人の守るべき道はおのずからそのなかに備わっている。本性を知ることこそ学問のかなめだ、と梅岩は論じました。人は全体で一つの小さな天地であるという哲学から、天地の性を知れば人倫の性も会得できると説いたのです。だからそれは、本性の学、あるいは性学(せいがく)とも呼ばれました。
梅岩が立ち上がって教化の当面の相手としたのは、主として町人階級でした。もともと心学は人たることを学ぶ学問であって、特定の階級だけに限られる教えではありません。「士農工商とも天の一物なり。天に二つの道あらんや」「士の道といえば農工商に通い、農工商の道といえば士に通う」と、梅岩自身も述べています。それでも彼がまず町人を相手にしたのは、当時の社会情勢がおのずからそうさせたのでした。
享保の時代は、武家の上下は極端な財政の苦しみにあえぎ、農民もまた重い税に苦しんで、疲れはてていました。そのなかで勢いよく頭をもたげ、富の力を笠に着て威をふるったのが商人階級です。彼らは利益のためには道義を無視し、ひどいことも平気で行ったため、一方ではこれに対する反感が起こり、政治を行う者のなかには、新しい勢力への憎しみと恐れを抱いて、商業を弾圧する政策をとる者もいたくらいでした。こうした時勢のなかで梅岩は、「商人がみな農や工になったら、財宝を通わす者がなくなって、万民の難儀となろう」と、商人に確かな地位を与えるとともに、「商工は市井(しせい:町)の臣なり。臣として君を助くるは臣の道なり。商人の売買するは天下の相(たすけ)なり」と、商人にもきびしい道を課したのです。
梅岩の志は高く熱意は強かったのですが、心学の草創期にこの運動が進む様子は実にかぼそく、創始者としてのみじめな苦難が、長いあいだ梅岩をさいなみました。開講した享保十四年から元文二年(1737年)に至る車屋町時代の九年間は、毎回わずかに二、三人から四、五人の聴衆を得るにすぎなかったのです。けれども根強い忍耐と努力はしだいに報われて、寛保(かんぽう)・延享(えんきょう)のころには朝夕の聴講者がようやくふえ、月ごとの会に加わって修業する者が二十名をこえるようになりました。こうして徐々に、京都の市中はもちろん、大坂、河内(かわち)、大和(やまと)にまで講釈に出かけるほどのさかんさを見せてきたのです。

心学の勃興発展
商人階級への心学の広まりはまことにめざましく、徐々にではありましたが、力強く町から町へと広がっていき、次から次へと人を動かして、ついに手島堵庵(てじま とあん)、杉浦止斎(すぎうら しさい)、布施松翁(ふせ しょうおう)、井上宗甫(いのうえ そうほ)、中沢道二(なかざわ どうに)らのそうそうたる心学者たちを、屋号のついた商人のなかから輩出させるに至りました。
この勢いは、もちろん最初から心学の教化の相手であった農村にもおよんでいました。ある夏のこと、梅岩は河内国石川郡白木村(現在の大阪府南河内郡河南町)の黒形政胤(くろかた まさたね)の家へ講義に出かけたとき、垣根のあたりに流水のしかけてあるのを見て、「この流れはいつもあるものですか。今は農家が水を求めるときであるから、私水(わたくしみず)を堰き入れられたのなら、百姓のさわりになるであろうと思うが」と言いました。この梅岩の精神は広く遠くおよんで、天明五年(1785年)のころには、十四か国六十三の町や村に心学の支部ができ、都講(とこう:講舎の長)が置かれるようになり、その約半数は農村でした。
心学の運動は庶民階級にとどまらず、武家や大名のあいだにも広まっていきました。一代の名宰相・白河楽翁(しらかわ らくおう:松平定信)は、心学のことを聞こうとして京都に使者を送りました。そのとき選ばれて江戸へ下ったのが中沢道二です。道二は楽翁の前に召し出されて、何かいちばん得意なものを講釈してみよと言われ、「私は文字を存じませぬ」と言いました。儒者が文字を読めないのはおかしいと言われると、文字が読めるのは文字芸者である、手前は儒者だとうそぶき、得意な話をしてみろと言われると、「烏はカアカア、雀はチウチウ」と口を切って、立て板に水を流すようにとうとうと、一代の名講釈をやってのけました。
心学は幕府や政治を行う人々の保護と後援を得て、ますますさかんになりました。松平定信のもとで幕府の中枢に入った本多忠籌(ほんだ ただかず)、松平信明(まつだいら のぶあきら)をはじめ、心学を修業する大名は十余名におよび、旗本、公家、さては江戸城の大奥にも入って、大奥の女中や紀州家・一橋家の奥女中のあいだにも広がっていきました。
梅岩は延享元年(1744年)、六十歳で亡くなりましたが、彼から出た心学はその死後も連綿とさかえ、長く後の世を豊かにめぐみました。





